さよなら、ジェミニ

井村もづ

メロウ・ナイト・トリップ :夜子の場合

 夜子の同居人は、うつくしい、夜を飼っている。

 夜中はもちろん、朝方にもっとも輝くそれは、小鳥と、幼い子供の形をしている。ふたつは実体がなく半透明でいて幽霊のようでありながら、時々実体を持つときもあり、その存在を説明するにはなにもかもがあやふやだ。

 それでもそのうつくしさから、夜子は彼らを自分に都合のいい幻だと頭の中で定義している。うつくしいものは、好きだからだ。

『やこちゃん、起きて』

 ノーチェと朝――それぞれが夜と朝の意味を持つ名前を持っている、幻想に優しく揺り起こされて、今日も夜子は穏やかな気分で目を覚ます。夜子の顔を覗き込むのは朝という、一人の少年だ。

 うつくしい少年だった。カーテンから漏れる朝日を受けて彼の黒髪がほのかに金色に輝く。その目は冬の空のようなさみしい灰色をしている。

 さみしい、けれど、夜子は彼の目が好きだった。遠くまで広がる雪景色を思わせる。

『テストちかいから、夜ふかし、しちゃった?』

 つたなく紡がれる言葉は、とても甘い、音をしている。さざなみを立てる水のような優しさに甘えて、夜子は布団の中から子供のように彼を見上げた。

「ねむい」

 仕方ないな、と微笑んだ半透明の彼の小さな手が、夜子の頬をいたわるように撫でた。指先が見た目とは違い、ひんやりとしていて、寝起きのほてった身体にはとろけそうなほどに気持ちがいい。頭の芯までゆっくりとみずみずしさが伝わっていく

 このままこの指の感覚だけを感じて生きていく生き物になりたい、と夜子はぼんやりとした思考する。

『今日は、何よう日、だと思う?』

「木曜日?」

『はずれ。金よう日だよ。あしたはおやすみだよ。あとちょっと』

 笑い声と共に、がんばって、となだめられ、甘やかされて、やっと夜子は身を起こした。濃厚な夢の気配が一気に身体中から引いていく。

 枕元の目覚まし時計を確認すると、いつも夜子が起きる時間より三十分早い。二度寝というよこしまな単語が頭をもたげたけれど、にこにこと微笑む朝に負けて彼女はベッドを降りた。

 ベッドを離れてすぐに壁にかけてある制服に袖を通す。折り目の取れかかったスカートの布地を見下ろしつつ、週末にアイロンをあてなければ、と考えながら黒色のスカーフを適当に結んでカーテンを開ける。厚めに仕立てられている紺色の布は、夜子の動作に伴ってすずやかな音を立てて開いた。

 抜けるような、うすい青色の初夏の空だ。

『ノーチェがコーヒーいれてるよ。先行ってるね。二度寝はだめだよ』

 そう言い残して朝が床を滑るようにして、閉じたままの扉をすり抜けて行ってしまった。足音ひとつ立たない、便利な体質だと夜子は思う。存在があやふやな彼らはこの家においては自由だ。そうしようと思えば物に触れることだってできるし、なにものも障害にはならない。

 彼の後を追うようにして茶色の鞄を抱えて扉の鍵を開け、夜子もひんやりとした廊下に出る。目の前の部屋は閉め切られており、しんと静まり返っていた。おおかた、同居人の頼朝よりともは明け方まで仕事をしていたのだろう。彼の睡眠を妨げないように忍び足で夜子は足音を殺して居間に向かう。

 彼が眠っているからこそ、安心してふたりと会話ができるのだけど、夜子はつい頼朝が起きてはいないかといつも気配を探ってしまう。もっとも彼が珍しく起きている時には、ふたりは謀ったようにこうして夜子と交流しに朝から来ることはないのだけど。

 何事にも用心に越したことはない、と夜子は思う。

 夜子は頼朝に、ふたりと会話できていることを知られたくなかった。

 ふたりも、ここに存在することを頼朝に知られたくない、という。

 頼朝への秘密、という点で三人は同盟を結んでいた。やっとそれぞれが獲得した場所なのだ。足場が揺らぐようなことは起こしてはならない、と夜子は思う。夜子はふたりを手放すつもりはないし、何より、今の生活をやめるつもりはなかった。秘密で成り立つ同盟の下に、三人は親しくなった。誰かが用心するに越したことはないと、夜子は考える。

 日常なんて、一瞬で変わってしまうことを、嫌というほど彼女は知っていた。

 気の済むまで気配を探り、寝ていることを確信した夜子は、短い廊下を忍び足で歩いて、居間に通じる扉を開ける。コーヒーのわいた水蒸気と、すでに開けられたカーテンに目を細めた。

『おはようございます、夜子さん』

 木製のテーブルの上で留まっていた小鳥が夜子を視界にとらえて人間のように一礼する。その黒い毛並みを見ながら夜子は微笑んだ。もう一つの夜であるノーチェの、真っ黒な毛並みは、まぶしい朝日にも負けずに、宝石のように黒々と輝いている。

 ノーチェはシマエナガをモチーフとしてデザインされた、真っ黒な色のコンシェルジュサポートプログラムだ。従来の使用者に寄り添うスマートフォンに内蔵されたものよりも格段に性能は上で、彼は、人の感情を理解する。理解した感情をおそるべき速さで学習する。

 少なくとも夜子の前にいる彼は、人の感情を思いのままに操って喜怒哀楽を表現することができている、人間よりも生き物らしい、プログラムだった。

「おはよう、ノーチェ」

 コーヒーメーカーの粉の補充は寝る前に夜子がした。電源を入れたのはノーチェだ。寝起きに熱いコーヒーが飲みたいとわがままを言った彼女のために、小鳥はこうして家中の電化製品を操り、快適な空間を作って夜子を迎えてくれる。この家にいる限り、彼に操れないものはなかった。

 おそろしい、幻だと、夜子は思う。

 音量設定を最小にしてテレビを見ていた朝が視線をちらりと彼女に移し、夜子の思考を見透かしたようにゆっくりと笑った。夜子の知る限り、朝にはノーチェのような力はない、はずなのに。なにかが起きるのではないかと彼女は一瞬、身を固くする。

『やこちゃん、今日は雨ふるみたい』

 緊張した夜子に向かって放たれた言葉は、先程までと変わらない、のびやかな内容のもので。彼女はゆっくりと息を吐いて、何事もなかったかのように返事をした。

「……そっか。折り畳み傘持っていくね」

 朝の言葉に応じながら、六枚切りの食パンを袋から抜き出して焼かずに夜子は立ったまま頬張る。ぱさぱさとした生地を飲み込みながら食器棚から赤いマグカップを取り出してコーヒーを注ぎ牛乳をたっぷりと混ぜた。座って食べたら、と呆れた朝の声が耳に入っても夜子は気にしない。こんな無作法はいつものことだ。家の中で許された環境にいる限りは、思うままにふるまいたい欲望が彼女にはある。

 朝食を立ったまま手早く済ませ、やっと夜子は椅子に座る。味噌汁をすするようにコーヒー牛乳を飲む夜子に、真っ白な蝶ネクタイの位置を直し、控えめにノーチェが言った。

『まだ、頼朝に慣れませんか?』

 本当に、人のように気づかいのできる夢みたいな幻だと、夜子は暗く笑う。

「まあね」

『おれのことは平気なのにね』

 頼朝の幼い頃の姿を基にして作られている朝にとっては、夜子が頼朝に対していつまでもぎこちなく接することが心底不思議らしい。小首を傾げられたきれいな顔に対して、夜子は笑うことで返事をして席を立った。だって子供にはねえ、平気でも、大人にはだめなことってあるじゃない、とは口には出さなかった。

 飲み干したマグカップに水を張ってシンクに放置する。洗い物は家に帰ってからでもいい。

 軽やかに身支度を整えて玄関に向かった夜子に二人もついてきた。頼朝の代わりにいつも彼らは玄関まで彼女を見送りに来てくれる。

 自分を送り出してくれる人がいるということが、なんだかとても嬉しくてくすぐったい。

 気恥ずかしさを隠すように、夜子は二人に、いってきます、と小さな声でささやく。

 次いで声を少しだけ大きくして言った。

「頼朝さん、いってきます」

 深く眠っている彼からの返事はもちろんない。それでも外出するときの声掛けは、夜子をこの家に向かい入れてくれた彼に対する礼儀だろうと、夜子は考えている。返事のない言葉にノーチェと朝は笑顔で手を振ったのみだった。二人も、彼からの返事がこないことは十分に知っている。

 彼らを現実から遮断するように、玄関の扉を閉める。いつまでも、幻は見ていられない。

 最後に、いってらっしゃい、と小さくつむがれた朝の声は、やわらかく夜子の耳に届いた。



 頼朝と夜子がはじめて出会ったのは一年前のあたたかい日のことだった。

 ひと昔前ならば中学校を卒業したら働くことができた、そんな話を夜子は何度目かも分からない親戚同士の会合の中でぼんやりと聞いていた。

 家族として迎えてくれた九番目の家は今回の会合には来ていない。若い夫婦だった。彼らは親切だったけれども、夜子に欲情した夫が妻がいない間に彼女に手を出そうとして、夫婦仲が険悪になってしまった。

 それを知った、おしゃべりな親戚の人が彼らを慰めるように、大声で携帯電話に向かって言っているのが聞こえる。

「あらあらあら、そんなに謝んないでちょーだい! あの子、そうあの子、あの子はねぇ、今までもそういった経緯でここに来たんだから大丈夫よ、いつものことよぉ、困ったもんよねぇ! おふたりのためにあの子も大きいんだし、ねえ、別のお家に引っ越していただいたら? そのための集まりよぉ、気にしないで!」

 家を追い出されては次の家に渡り歩く。たどり着いた先で、家庭を壊す。そんなことのくり返しだった。

 夜子だって好んで異性を誘惑しているわけではないというのに、大人は皆、原因を、他人である夜子のせいにしがちである。勝手な言われように湧いてきた怒りを押し殺して、夜子はうつむく。言い返せばそれこそ向こうの思うつぼだった。

 今度こそうまくいくって、どうして少しでも期待してしまったんだろう。本当に、いい人たちだったから。今度こそ、うまくいくって。家族になれるって、思ってすっかり油断してしまったと夜子は唇を噛む。

 そもそも、期待したことが間違いだったのだ。

 人間は薄情な生き物だと夜子はとうの昔に嫌という程、知っていたはずなのに。

 五年前に両親と妹を交通事故で亡くし、孤児という立場になった夜子には、無償で保護者をかって出てくれるような親切な親戚がいなかった。かといって好きに生きさせてもらえるかと思えば、将来のために最低限高等教育までは納めなさい、と大人たちは言う。

 彼らの言うことに納得ができた部分もあったため、嫌々ながら夜子は奨学金を申請し、現在高等学校に通っていた。そして卒業までは親戚の、誰かの家でお世話になることが義務づけられていた。

 その、次の行き先を決める、会合も今日で十三回目だ。

 誰も彼も夜子の持つ大金を目当てに自分が身柄を引き取ろうと必死になっている。呪われた金ともとれる、死んだ三人と引き換えに渡された金を、どうしてそんなに欲しがるのか夜子には分からない。背後で各々の家の財政状況を恥ずかしげもなく語る、大人の声に飽き飽きして縁側でジーンズに包まれた膝を抱えた。

 目を閉じると、水の中に吸い込まれるように、意識がゆっくりと過去に飲み込まれる。

 一番目の家は母方の祖母の家だった。一人暮らしだった祖母は孫の夜子のことを可愛がってくれたが、痴呆がすすみ、老人ホームに移ることが決まって家を手放すことに決めた。

 優しい祖母と同時に住居がなくなって、夜子は途方に暮れた。幸いなのは親戚が多いことか、と彼女は簡単に考えていたけれど、すぐにそんな考えは浅はかだったと知るようになる。思えば唯一、無償で夜子の面倒を見てくれた大人だったのだ。

 祖母は老人ホームに入ってから三ヶ月で、息を引き取った。

 二番目は従姉妹の家で、その息子が夜子と同い年だった。夜子を娘のように育ててくれたが、息子を誘惑したといわれのない理由を付けられて、家を追い出された。三番目と四番目も同じような理由だった。五番目はなんとなくが合わなくて、以降六、七、八は九番目と同じ理由だった。

 夜子は、簡単に、恋の対象になった。

 立て続けにそんなことがあったから、夜子の愛想は次第になくなっていった。それでも言い寄ってきたり手を出そうとする人間は後をたたなかった。夜子の、なんだか放っておけないと言われる容姿のせいもあるだろう。夜子の母親も浮いた噂の絶えない人だったから、その母親の子供である夜子もまた、そういう印象で誤解されがちだった。たとえ母親とは真逆の性質を持つ女でも、得てして人とはなんでも親を由来に子供を位置づける傾向にある、と夜子は思考する。

 でもさすがにもう引っ越しも十回目となれば、下心があったとしても夜子の面倒を見ようという大人も躊躇ちゅうちょするだろう。

 蓄えは十分にあった。家族が死んで受け取った金だ。夜子は誰に引き取られようとも、一円たりとも他人に金を渡すつもりはなかった。

 なにかあった時のために貯金しておきたいと考えてはいるが、このまま会合が長引くようであれば一人暮らしを提案しよう、と夜子は思う。

 大体、結婚はまだできないけれど高校一年生だって立派な大人だ。

 住居は豪華なところでなくてもいい。

 風呂無しの四畳半でもいいから安心して住むことのできる空間が欲しい。

 そんな思考を遮るように背後の障子が軽い音を立てて開いた。夢から覚めたように夜子は目を開ける。

 恒例行事だ。夜子の身柄を引き取ることになった人間が障子を開けて彼女に声をかけてくることになっている。その時にはもう話し合いは終わっていて、室内は静まり返っていて、耳を打つ静けさも漏れてくるはずなのに、今回はそれがなかった。代わりに耳をつんざいたのは、怒鳴りにも近い制止する声だ。

「そいつはやめとけって! ろくなこたぁない!」

「ヨリトモくん! そんなお金ちゃん囲ったところで婚期を逃すだけよ!」

「そうだよぉ! ヨリよぉ、ほらもうやめぇよ」

 ヨリトモなんて名前は今までに聞き覚えがなかった。

 ただでさえ親戚の入れ替わりが激しい家だ。早ければ半年で前居た顔が消えている。だからこそ顔なんて一つ一つ覚えていないものだけれど。

 婚期を逃すと惜しまれるような人間的に期待値の高い人間なんて、親戚にいただろうか。興味がわいて振り返る、夜子の目の前に手が差し伸べられる。

 きれいな手だ。陶器のようななめらかな手を、夜子は観察する。傷一つないのに加えて産毛も薄い。爪はつややかできれいなピンク色をしている。そんな男性の手を見るのははじめてで、夜子は物珍しさにまじまじと見てしまう。

 こんな、手には、触れられたことはなかった。

 夜子が差し出された手を取らずにいると、困ったようにぎこちなく相手が笑ったのがわかった。制止する声の間に、彼の笑う息が耳に届く。

「ぼくの、家は、イヤですか?」

「あたしは嫌と言えるほど、あんたのことを知らない」

「たしかに」

 ヒステリックに叫んだのは、それこそ婚期を逃しそうになって必死にもがいているお姉様だと知っている夜子は、それほどまでに彼女が懸命に止める人間というものが気になってやっと頼朝の顔を見る。

 長い前髪と、その下で光る眼鏡は不気味だが、それでも筋の通った鼻とほどよく痩けた頰は整っていてうつくしい。

 なるほど、これは女を惹きつける人間だと夜子は冷静に分析する。

「あたしは夜子。住む場所を貸してくれるのはお兄さんでいいの? なんか他の人からは止められてるみたいだけど」

 なにせ夜子は幸せという幸せを壊す疫病神だそうで。つっけんどんに夜子が言うと、彼はすかさず応答する。

「ぼくは頼朝です。あなたを引き取るつもりで声をかけました。結婚はまだですし、恋人もいません。同居人が先日出て行って、鍵のかかる部屋が空いているんでどうかと思いまして。この場でぼく以上の適任はいないと思うんだけど」

 本当にそれだけの理由で? それ以上の事情を探ろうと彼を覗き込めば、彼は怒鳴り声を背にうすく、ぎこちなく微笑み続けるだけで、何も探らせてはくれなかった。

 少し間を置いて、彼が言葉を続ける。

「適任がいるのに長引かせるだけ、ここは、疲れますよ。ぼくも、君も」

 それはまあ、違いない、と思って夜子は新鮮な気持ちで彼の目を見る。親戚のいやみを素直に面と向かって言ってきた大人は生まれてはじめてだった。

 まっすぐに捉えた色は、薄い灰色がかった色をしていた。その目に浮かぶのは諦めと疲れ、それからかすかな炎だ。暗い感情のはしっこを捕まえた気がして肌が粟立つ。彼は、とてもうつくしかった。そして彼の目に映った夜子はひどく、さみしそうな顔をしていた。そんな顔を見て、なおさら、彼はぎこちなく微笑んでいるのだ

 それを知った瞬間、心は、決まった。

 割れそうなきれいな手を、夜子の手がようやく、握る。

 逃避行のように、二人で会合を後にした。

 その日のうちに、スーツケース一つと段ボール一個に収まる夜子の荷物はつつがなく頼朝の家に夜子の手によって収納された。それだけ? と視線で確認を入れてきた頼朝を尻目に、箱から目覚まし時計を出して制服をクローゼットの中のつっかえ棒にかける。何度もしてきたことだ。ものの数分で目の前で荷ほどきを終えた夜子を呆然と頼朝は見ていたが、夢から覚めたように傍らの机の上にある鍵を夜子に渡す。

 金の塗装がやわからく変色している、古びた棒鍵ぼうかぎを二つ、手のひらに落とされて夜子は首を傾げた。

「二つ?」

「ええ、この扉を開く鍵はこの二つきりしか、ありません」

 それを、二つとも夜子に渡すという意図はなんだろうか。再び探るような目つきになった彼女に頼朝は視線を合わせて言う。

「ぼくの、誠意だと思ってもらえれば。元より同居人がいた時も、特別お互いに部屋の行き来はありませんでした。今ここで、これからはここを我が家のように思ってお過ごしください、と言われてもあなたは不安でしょう」

「だから外から開けられないようにするって? そんなの、あたしが信じると思う?」

 鍵が二つきりなんて本当のところは分からない、という鋭い言葉に、その疑いはもっともだと言わんばかりにはじめてゆるやかに頼朝は笑った。

「あとは好きに考えてください。夜子さんの中で僕が信用に値する人間だと思った時に、鍵を一ついただけたら結構です」

 そんな日が本当に来ると思っているのかとしかめっ面をした夜子に、再びぎこちない笑みを見せて頼朝は先んじて部屋を出ていく。閉じた扉をいつまでも夜子は疑いの目で見つめていた。

 警戒を解くことなく同居をはじめて、夜子は今までの家以上に今の家に住みやすさを感じていた。頼朝の活動時間は夜で、夜子の活動時間は昼間だ。たまに顔を合わせたとしても夕方の短時間だけだった。その中でも十分に頼朝は夜子に気を遣って親切にしてくれた。

 なにより彼は今までの事情を知っているのか、夜子に指ひとつ、触れることがなかった。

 半年ほど経って、頼朝が空間デザインを手がける仕事に従事していると知ったころに、空から雨が染み出すようにふたりが現れた。はじめは気配だけで、気配だけなら害があるわけもないと、たいして気にしていなかった夜子の反応をうかがうようにふたりは徐々に家の中で受肉していった。

 はじめに顔を覗かせたのは、ノーチェだった。

 そのかわいらしさと幻が見えた衝撃に夜子が慣れてきたころ、朝が顔を覗かせた。彼はかわいらしいだけではなくて、子供らしい人懐っこさをあわせ持っていた。ふたりとも親身に夜子にやさしさと情を分け与えてくれた。それだけで、夜子にとって彼らに懐くには十分だった。

 今では、家主の頼朝よりも彼らに親しみが湧いている。そんなことを頼朝に向かって口を滑らせたが最後、彼はひどく落ち込むだろうからと彼らの存在ごと秘密にするようにと、夜子はふたりに言い含められている。

「なんでこの家のことなのにあんたたちのこと、頼朝さんに秘密にするの?」

 だってこんなにも親切にしてくれたのに、あんたたちは悪いもんじゃないでしょう、と顔をしかめる夜子に向かってふたりはやさしく笑った。

『僕たちは彼の、心のやわらかい部分なんです。夜子さんだって、他人に自分の傷を指摘されたくは、ないでしょう?』

 なるほど彼らはそういうものなのだと、夜子は納得して頷いた。心のやわらかい部分って意味はよく分からないけれど、彼らが秘密にして欲しいというのならば、そうしてあげようと思ったのだ。

「わかった、絶対に言わない。約束、三人だけの約束、よ」

 そう誓った瞬間から、夜子とふたりは同盟者になった。秘密を互いに抱えている似た者同士だ。

 愛とかそんな不確かなものよりもそれは定義が明確で、安心できる関係だった。溺れるように、そのまま三人と、夜子はあの家に住みつづけている。

 鍵はいまだに二つとも、夜子の手元にあるままだ。

 一つを頼朝に渡す予定は、まだ当分ない。



 家の最寄駅から一時間電車を乗り継いで、二十分ほど歩いた先に夜子の通う高等学校がある。元は私立大学だったというそこは、建物も新しくはないはずなのにいつまで経ってもすべてが真っ白で、はじめこそ彼女はそれが気味が悪く思えたものだった。

 早朝の校舎はしんと静まり返っている。

 人がいない校舎はいつだって死んでいるようだと思考しながら夜子は靴を履き替えた。磨き上げられた白い上履きは、同級生の誰よりも綺麗に見えるように心がけていた。育っている環境というものは、身の回りに出てくるものだと夜子は考えている。

 足音を響かせるように廊下を歩いていく。

 人のいない、校舎は、そこにあるだけでひんやりとつめたい。

 そしてそのつめたさを、夜子は嫌いではなかった。時折歩く速さを変えて廊下をひたすら進む。反響する音に、ノーチェのはばたきのような軽やかさと、朝の愛らしさを思い出す。自分以外に誰もいない空間。明るいのに、くらい空間は、ひどく落ち着いた。

 二階の突き当たりが、夜子が在籍する教室だ。二年三組と書かれた木札の下の引き戸を夜子はゆっくりと音を殺して横に引く。中は座席が三十個並ぶだけで、無人だった。誰もいないことに安心して窓際の列の前から四番目の席に座る。

 腕を伸ばして窓を開ければ、ひんやりとした風が頬を撫でた。窓の外に生い茂る青々とした木の緑の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、夜子は文庫本を取り出した。

 読みかけの場所からしおりを引き抜く。目で文字を追いはじめると、音が耳の奥から消えた。沈み込むように意識が遠くなる。

 記憶の奥底で深海のような夜が、夜子を手招いていた。

 この、よる、には覚えがある。

 つい、五年前から続く痛みの記憶だ。思い出すことは嫌なのに、くり返そうとする大きななにかに夜子は抗えない。

 抗えないまま、静かに、夜に沈んでいく。

 家族がいないという事実は、他人に対して良くない印象を与えるらしい、ということに気がつくまでは夜子は家族が死んだことを隠しはしなかったし、問われれば答えてもいた。死因、場所、残った夜子の行く先まで、受け取った保険金以外のことを彼女は他人に求められるがままに答えていた。その期間は一週間にも満たなかったが、夜子の態度は一部の人間の目についたようだった。

 あっという間にこんな噂が広まった。

「夜子は悲劇のヒロインを演じたがりだから、きっと家族を殺したのは彼女に違いない」

 証拠はなかった。それでも効果はてき面で、阿呆みたいな噂を流された夜子には友人が一人もいなくなった。

 死んだ家族の保険金を受け取ったという話もどこからか漏れたらしい。悪口はより過激になり、夜子は金目当てに家族を殺した女になった。

 想像力豊かな少年少女は、夜子が想像しているよりも陰湿だった。家には脅迫状が届くようになり、物はよく紛失した。ともすれば夜子を預かっている家庭の心労も少なくはなかったに違いない。心労の表現方法は人によって様々だった。怒り、性欲、悲しみ、荒れ狂う波のように、彼らは夜子を責め立てた。はじめこそまじめに受け取っていた激情も、次第に夜子は受け流すことを覚えた。

 無感情は、そうあれと努めれば、簡単になじんでいった。

 それでも受ける衝撃は少女であった夜子には、やはり、無かったことにはできなくて。

 身を寄せていた家の叔父が夜子の下着に精液を擦りつけ、友達だと思っていた少女が体育着を切り裂いていた場面に遭遇した時点で、夜子は他人に期待することをやめた。

 怒りと諦めで飛び出した街は、とても静かで、でもどこか煌々こうこうと輝いていた。夢の中で夜子は、その光を見ながら、死について考えている。死なないのなら、所詮このまま生きていくしかないのだ。

 世界よ、滅びろ、早急に!

 夜の中で夜子は泣いていた。ずっとずっと、泣いていた。

 本を開きながら記憶に沈んでいる夜子の背中にやわらかい感触が走った。その瞬間、現実に引き戻される。

 空っぽだった教室は生徒で埋め尽くされていた。

 いつの間にかだいぶ時間が経っていたらしい、ということに気がついて、ゆるゆると夜子は栞を元の位置に戻した。開かれたページは少しも動いていない。

「やぁこちゃん!」

 抱きつかれたまま呼びかけの甘い声に応じて夜子が振り返ると、今度は正面から真後ろの席から身を乗り出してきた少女に抱きしめられた。頰をくすぐる髪の毛はやわらかに波打ち、整えられたまつ毛は動くたびに音がしそうなほどに長い。アーモンドキャラメルみたいな色の大きな目をまっすぐに夜子は見返して、ため息を吐く。

「ヨネ」

「うーん。そう、ヨネちゃんだよぉ。やぁこちゃんのかわいいヨネちゃんだよぉ」

 なにが夜子のかわいいヨネちゃんだ、と思ったが、甘ったるい声を出しながら高校二年生にしては平均よりも大きな胸を頬に押し付けられ夜子は押し黙った。クラスメイトの男子のうらやましそうな視線で刺し殺されそうだ。

「ヨネ、こういうの、やめない?」

「なんでぇ? やぁよ」

 より強く押し付けられた胸に言葉を失って眉間にしわを寄せた。十七歳にもなってどうして幼稚園児程度の交流をしなければならないのか。

 そもそもこうして行動していることによって、ヨネは夜子を人除けとして扱っている節があると夜子は思う。

 もっとも夜子自身もそれを利用しているところはあるから、お互い様かと最近では諦めつつある。

 そう、ただの友人よりは、利用しあう他人の方が夜子には安心できるのだった。

 チャイムが鳴るよりも先に夜子のスマートフォンがポケットの中で振動する。長い震えが三回。それは夜子に抱きついていたヨネも気がついたようで、先程までの熱愛ぶりが嘘のようにあっさりとヨネは彼女を解放した。

「行くのぉ?」

 問われた言葉に、夜子は頷いた。

 長い振動三回は、の合図だった。頭の中で出席日数が足りていることを確認し、財布から身分の証明できるものをすべて抜き取ってヨネに渡しながら、夜子は席を立つ。

「どれぐらい?」

「午前いっぱい」

「りょーかい」

 ヨネがころころと笑う。

「オシゴトがんばってねぇ」

 にんまりと笑った愛らしいヨネの、見送りの言葉は、踊り出しそうなくらいに軽やかだ。

 鞄のポケットに入っている色付きのリップクリームで唇をいろどり、教師とすれ違いになるように教室を後にする。教師は夜子がいないことを気にしないだろう。大きな教室で一人二人居なくたって、表沙汰になるような問題を起こさず生きてさえいれば。

 そう、生きてさえいれば、人間はそれだけでいいということを、夜子は痛いほどによく知っている。



 夜子はこのをはじめた時から気をつけていることがある。決して少女から逸脱してはいけない。制服の乱れは最小限に、髪色は染めずに黒のまま、下着は白が喜ばれ、レースの縁取りがあるとなお受けがいい。化粧は少なく、素顔が美しい方が喜ばれる。そして――これがもっとも重要なのだが、愛嬌あいきょうが必要だ。

 笑顔は、少女の、武器で、客の夢だ。

 固まった口の端を両手で持ち上げる。そのままかすかな笑みをたたえて、夜子は元来た道を戻り、街を歩く。

 仕事の待ち合わせはいつも高等学校の最寄駅だ。人が雑多にいるのでよほどのことがない限りは滅多に目立つことはない。警官の見回りの時間帯は既に把握している。今は見つかる心配はない。

 平日なのにどこか気の抜けた表情で、スーツで立ち惚けている男に向かって夜子は寄っていく。

 寄ってきた彼女の全身をくまなく観察して相手が判断するまでに一分もかからなかった。優しく笑った彼が、嬉しそうに夜子に向かって手を差し出した。これから稼げる金額を思い浮かべて、手を握りながら夜子はほがらかに声を絞り出す。

「本日はご指名ありがとうございます。です」

 そうして昼間から二人でネオンが光る歓楽街に向かう。目的はひとつだ。自分の持っている、もっとも価値の大きいものを、売りに出すため。

 体と、それから少女という年齢。

 その二つが続く限り、夜子はこれ以上の仕事を選ぶことはないだろう。

 はじめこそ、こんなにも恋の対象になりやすい自分がどこまで通用するのか、知るための仕事だったけれど。気持ちよくなって、甘やかされて、お金を貰えるのは、嫌ではないと気がついてしまったから。そのままこの仕事を続けていることを、夜子は後悔はしていない。

 他人に、やわらかいところまで触れられながら記憶に抗えずに夜子は今日も傷に溺れる。深く、どこまでも。

 決して足のつかないそこは、ひどく恐ろしい。でも。

 どんなことがあったとしても、家に帰れば彼らがいる、そう思えば底なしの夢だって怖くはない、そんな気がしていた。




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