コップの中の漣

白地トオル

コップの中の漣


 「あぁぁ……反射の法則というのはぁぁ入射角とぉぉ反射角が等しくなるわけですからぁぁあ鏡に映った光線はぁぁC点をぉぉ通るわけなんですなぁぁ」

 

 紘太こうたは白目をむいて、下あごをだらしなく前に突き出す。芸能人を描いた悪意のある似顔絵みたいで、僕は思わず吹き出しそうになった。


 「へへ、似てるだろ?理科の横山のマネ」

 「ああ、似てる。最高だよ」

 「

 「あ、毎朝言ってるやつだ。似てる似てる」

 「だろ?啓太もやってみろよ」

 「いや、俺は……」


 理科教員の横山は、角刈りにゲジゲジ眉毛、おまけにプリプリのたらこ唇の三点そろい踏み、個性のデパートのような人だ。さらに語尾を伸ばす特徴的な話し方は、生徒の間では鉄板のネタとなっている。紘太のモノマネはずば抜けて上手い。まるで横山が憑依したような感じだ。

 だから僕にはできない。彼の意にかなうモノマネをできる気がしない。


 「いいからいいから。恥ずかしがんなって。こういうのは勢いだから」

 「ええ……、でもホント無理だからさ」

 「大丈夫。笑ったりしないから」

 「いや笑ってくれないと困るから」

 「ああ、そうか。んじゃ、笑う。ほら……、ほら!」


 こうなったら紘太は引かない。やるまで待つし、やらなくてもやらせる。相手は日本を統べる大名ではないが、僕は一人ホトトギスになった気持ちでいた。


 「……じゃあ、やるよ」


 紘太は拳を膝の上に置いて、目を爛々と輝かせる。


 「今日はぁぁぁ地球の自転について学びたいとぉぉ思う訳なんですなあぁぁ。大事なぁぁことですからぁぁ心して聞いてほしいわけですなぁぁ」


 僕は白目を元に戻すと、紘太と数秒目を合わせる。


 「……」

 「……」

 「ぷっ」

 「ぷ…っ、ぶふふふふ」

 「ぷふふふ……くっふふふふ」


 風船ガムに穴が空いたみたいに、膨らませた口から笑いが零れる。堪え切れなくなった僕らはひいひい言いながら、お腹を押さえて床をのたうち回った。しばらくして一階から母親が怒鳴り込んでくるまで、僕らは馬鹿みたいに笑い合った。


 「……ふう」

 「……はあ」


 母親が勢いよく扉を閉めて、ドンドンと圧のある足音が一階に降りていくと僕たちは思い思いの溜息をついた。


 「さすがに怒られたな。母ちゃん相変わらず怖えのな」

 「そりゃ今日はテスト勉強するって約束だもん。怒られて当然だよ」

 「テスト勉強なあ―――やる気出ねえわあ」

 「出ないな…。出ないけどやるしかない。やろう」


 僕は首をぐるりと回すと今一度教科書に向き直った。

 紘太もそれに続くと、僕らはローテーブルを挟み向かい合う形で再び勉強を始めた。


 「なあ、この問題分かる?」


 しばらくして紘太がぼそりと呟いた。

 僕はちょうど問題に一区切りがついたところで、そのインターバルを待っていたかのような紘太の一言にふと顔を上げる。


 「この問題分かる?」

 「どの問題?」

 「さざ波が立っている水面に光を当てると、水面は鏡のように平らではないので、光は(   )ホニャララする」

 

 僕はううむと唸る。はて何だったか。僕はこれまでに出席した理科の授業を一つずつ思い起こしていく。しかしどの授業を思い出しても、思い浮かぶのは横山の角々とした髪型と、分厚い唇と、深淵に飲み込むようなねっとりした声だ。光が(   )ホニャララするんだ。光が(   )ホニャララする…。


 「啓太も分かんねえの?じゃあ俺に分かるわけえねえや」

 「思い出そうとしてるんだけど……、ああ駄目だ、何度思い出しても横山ばっかり思い浮かんでくる」

 「あぁぁぁ君はぁぁ……私のせいだとぉぉ言うんですかなあぁぁぁ」

 「ちょっ…、ぷふふ…くふふふふ、それ…ホント止めて」


 僕はこれ以上笑えば紘太も笑いだしてしまうと思い、よじれるお腹を必死に押さえた。


 「―――――それにしても思い出せないなあ。何だったっけ…?答え見る?」

 「いんや、答えは見ねえ」

 「お、紘太にしては珍しいね。いつもならすぐに音を上げるのに」

 「今日の俺は一味違うのさ」

 「へえ……、じゃあどうすんのさ」

 「実際に再現してみようぜ」


 紘太がニカッと白い歯を覗かせる。


 「―――――再現ってこんな感じでいいの?」


 僕は紘太に言われるがまま水の入ったガラスコップを持ってくると、机の上に置いた。水面がゆらゆらと揺れ、僕らはしばらくそれが収まるまで眺めていた。コップの内面と水面との際が忙しく震える。こうして見ると水が寒天みたいに固まっているように見える。


 「そうそう、これこれ。どっから汲んできた?」

 「1階の台所」

 「そっかそっか、母ちゃんには見つからなかったか?」

 「うん。で、これどうすんの?」

 「この水面にさざ波を立たせてみようぜ」

 「どうやって?」

 「なんでもいいだろ。ほら、こういう風にさ」


 紘太は水面に向かって息を吹きかけた。しかし水は本物の寒天みたいに重量を持っていて、水面が少し凹むだけだった。


 「さざ波って難しくね」

 「紘太のやり方が悪いんじゃないの?」

 「だったら啓太がやってみろよ」

 「分かったよ」


 僕も同じように息を吹きかけてみた。しかしこれが思ったように細かい波を作ることができない。テレビゲームの中で見たスライム状のモンスターのように弾力を持っているみたいだ。これでは紘太に馬鹿にされると思い、僕はやけになって水面ぎりぎりまで顔を近づけて思い切り息を吹きかけた。


 「ぷ、ぷぇっ!!」


 水は急に沸騰したようにしぶきを上げ、僕に襲い掛かった。


 「あっはっは、何やってんだよ啓太」

 「いや、だって……」

 「そんな顔近づけて吹いたらそうなるに決まってんだろ」

 「難しいなあ、さざ波」

 「俺コツが分かったかもしれないぞ」

 「ホントに?」

 「ああ、任せてみ」


 彼はそう言うと口をそっとグラスの縁に近づけ、唇を鳥のくちばしのように尖らせ、静かに息を吐いた。

 すると水面の一点だけが激しく荒だって、周囲に間隔の狭い波紋が広がった。それはまさしく、さざ波だった。


 「すげえ!出来てる出来てる!」

 「―――な?出来ただろ?」

 「で、これで何が分かるんだっけ?」

 「それよりさ、ほら。見てみろよ」


 そう言うと紘太はもう一度細い息を吹いた。

 窓から差し込む太陽光がゆらゆら揺れる水面にキラキラ光る。


 「な?」

 「綺麗だって言いたいの?」

 「そうそう、だって星空みたいだろ。透き通るような夜空に、星が瞬いてるみたいでさ」

 「紘太はいつからそんなロマンチストになったのさ」

 「いいだろ。マジで星空みたいに見えんだから」


 「よく言うよ―――――星空なんて見たことないくせに」


 雨が降らない世界。地球の自転が可笑しくなってしまった世界。永遠に日が照り続ける世界。僕たちは生まれたときからそういう世界を生きている。だから満天の星空なんてものは空想の景色で、この世でそれを語るのは古典的な天文学者とロマンチストだけ。


 バタバタバタ。ドンドンドン。


 「あ!やべっ!母ちゃんが来る!」

 「!」

 「お前…、もしかしてこれ飲み水かよ!」

 「光を反射させようと思ったら綺麗な水じゃないとできないじゃないか」

 「だからって飲み水持ってくるこたぁねえだろ!」

 「あ、思い出した」

 「何を!」

 「乱反射だ!さざ波に映った光は乱反射するんだ!」

 「どのタイミングで思い出してんだ、バカ!早く隠すぞ!」

 「ちょ待って――――」


 

 それから僕らは正座をしながらじっと見つめていた。

 貴重な水をナントカとか言って母が怒号を上げるたびに、コップの中に漣が立つのを。じっと見つめていた。


 (コップの中の漣 終わり)

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