夢人形

武市真広

夢人形

 夢人形

 

 夜は安息できるから好きだった。忙しい日中から解放される。それが夜だった。

 天気予報によれば、もう梅雨入りしたらしい。雨は嫌いではない。雨音を聴きながら眠りに落ちていく時が一番好きだ。日中でも喧噪から切り離された時は好きである。要は静かな時が好きなのである。ざわめきは心をかき乱し、不安にさせる。日中の、昼の世界の中で私は形などなく、まるで液体のようにどこからともなく流れていく。

 しかし、夜の静けさ……。夜は世界そのものが静かなのだ。

 その日も疲れ果てた私はいつものようにベッドの上に横になり、仰向けで手足を放り出して大の字になって眠った。

 

 私は夢を見た。夢の中で私は列車に乗っていた。内装を見ると随分と古い列車のようで、線路の上を走っているのにかなり揺れている。夕暮れ時の薄暗さのせいか、他の乗客たちの顔は見えない。空いていたので、私は座席に座ることができた。どこかも分からない場所を走っていた。窓の外の風景はずっと変わらない。連なった黒い山々と畑だけ。農夫の姿もない。そのうち外の風景を見るのにも退屈してしまった。車内に再び目を移すと一匹の蛾が入り込んでいることに気づいた。小さな羽を羽ばたかせて、陰鬱な車内を飛び回っていたが、外に出られないらしい。そのうち飛ぶことに疲れたのか、私の手の甲に止まった。私はそれを振り払おうともせずに、暫くの間眺めた。

 ガタンと大きく揺れて、また飛んでいった……。

 

 そして、目が覚めた。

 夢から覚めると雨が降っていた。朝食ができたから降りてきなさいという母の呼び声がした。眠気眼を擦りながら洗面所に向かった。顔を洗って、いつものように一日が始まった。

 

 * * * * * *

 

 帰宅して夕食や風呂を済ませ明日の準備をしてから床に就いた。既に日付は変わっていた。

 

 また夢を見た。昨日の続きだ。

 

 気がつくと夜になっていた。列車は相変わらず走り続けている。時計を見ると二十時だった。列車の中は暖色の車内灯で照らされ、いつの間にか乗り込んで来ていた大勢の乗客たちは居眠りしていて顔は見えない。蛾はもういなかった。

 夢の中では時間が流れるのは早い。気がつけばもう二十二時だ。乗客も減った。車内には今私しかいない。

 

 夢の中で、夜が深くなっていくのを感じた。

 列車が止まった。終点に着いたようだった。終点である駅は閑散としていた。静かな夜だ。星は見えなかった。

 

 そして目が覚めた────。

 

 * * * * * *

 

 夢の続きが見られると思うと、私は眠ることに安息以上の喜びを見出した。

 

 駅は無人だった。改札を出てすぐの所の電柱の灯りに何匹も蛾が集まっているのを少し見つめてから、私は歩き出した。勝手に足が動いた。一体どこに向かっているのか、私自身わかっていないが、まるで家に帰るようなはっきりとした足取りだった。

 真っ暗な闇を一人で歩いていて、不安はなかった。夢の中だからこそ、現実で感じるような暗闇に対する漠然とした恐怖を感じなかったのかもしれない。道をずんずんと進んだ。疲れていると思っていたが、その足取りは不思議なくらい軽かった。周囲は真っ暗で何も見えないが、どうやら畦道を歩いているらしく、周りは田畑が広がっているようだ。

 土の道は凸凹していた。小さな蛇が横切った。蚊の声が耳元で聞こえた。

 夢の中の世界は、既に盛夏だった。空を見上げると満天の星空である。きらきらと輝くあの星々──。

 

 * * * * * *

 

 私はある大きな屋敷の中にいた。ここは自分の家であると思った。

 和室は仄暗い。蝋燭の火が揺らめいている。それをぼんやりと眺めていると襖が開いて、一人の感じの良い若い女が入ってきた。薄い桃色の着物を上品に着こなしているが、無言で私の顔を見つめている。青白い顔を能面のようなだと思った。生きた人間ではないような気がして……。

 

 果たして女は人間ではなかった。

 

 その女は生きた人形であった。瞳の奥をじっと見て、人間的なものを見いだせなかった。手に触れた時も人肌の温もりを感じなかった。

 

 「お帰りなさいませ」

 私はただ、ああ、と答えたきりで、この人形をまじまじと眺めた。よくできた人形だと思う。一目見た時には本物の人間と区別はつかないだろう。だが少しすると生気のない身体や立ち振る舞いに、やはり違和感を感じずにはいられなくなる。

 夕食を食べていると時でさえ、それが気になってしまった。給仕の老婆は普通の人間であるが、無言である。人形の女が話し続ける。

 私は最初こそ頷きながら聞いていたが、そのうちにあれやこれやと答えるようになり、会話は大いに弾んだ。しかし、夢が覚めてから思い出そうとしても一体何を話したのかだけは思い出せなかった。


 奇妙な夢である。

 

 さらに奇妙なことだが、私は以前この女をどこかで見たことがあるような気がした。百貨店のマネキン人形であろうか、はたまた学校の校長室にあった日本人形か……。思い出せないのがもどかしい。

 

 * * * * * * 

 

 日中に夢のことを思い返して人形であるあの女を美しいと思った。人工物特有の完全なる美。それは人間のような不完全な美とは対照的だった。

 

 どうやら彼女は、私の妻であるらしい。

 「……あの」

 縁側で月を眺めていた私は振り返った。

 彼女は礼儀正しく正座をしている。

 私はそういつも堅苦しくしなくてもいいじゃないかと言ったが、彼女はやはり丁寧な姿勢を崩さない。

 「今日はお願いがあります」

 「お願い?」

 「私と腕を交換して頂きたいのです」

 妙なことを言うものだと思った。

 「どうして?」

 「以前私は同じお願いをしました。今度帰ったら交換しようとお約束されたじゃありませんか」

 私は当然であるが、そんな約束をした覚えはない。しかし、彼女が言うのだから本当に約束したのだろう。夢の中だからそんな奇妙なことが起きても不思議ではない。

 「わかった」

 私はそう言ったものの、どうやって交換するのかわからなかった。

 「ありがとうございます」

 彼女は恭しく頭を下げると、雑作もなく右手を取り外した。

 ああ、彼女は本当に人形なのだな、とその時になって改めて感じた。

 そしてまた私も人形であるということも。

 

 私も彼女と同様、雑作もなく右腕を外した。

 体格が違う以上、私の腕が彼女の身体に合うはずなどなかった。彼女の細い腕を私はガラス細工に触れるような手つきでじっくりと眺めた。傷一つない腕である。苦労知らずな腕である。しかしそれが作り物であることを、私は暫くの間忘れてしまっていた……。

 向こうも身体に合わないことに気づいたのか、「やはり元に戻しましょう」と言ってきた。

 私はそうだなと応じたが、何だか可笑しさがこみ上げてきて、思わず吹き出すと、彼女も釣られて笑い出した。

 

 * * * * * *

 

 夢の中で朝を迎えた。

 「おはようございます」

 彼女は慎ましやかにそう言った。

 後朝──私はそう直覚して顔が熱くなるのを感じ、うんと応えたきり何も言えなかった。

 朝の光が眩しかった。

 

 朝食を済ませてから私は出て行く準備をした。どこに出かけるのか、私は分からなかった。しかし、もう二度と此処には帰って来れないような気がした。

 軍服を着て……私はこれから戦地に往くんだ……。

 

 玄関で彼女に見送られた。彼女と何か話したように思うが、記憶にない。別れ際、彼女は私に自分の右手の小指を差し出した。

 「必ず帰ってきて……」

 彼女が涙を堪えて最後にそう言ったのを、私ははっきりと覚えている。

 私は必ずと応えて、左手で指切りした。

 

 あの静かだった駅は、私同様出征する男たちとその見送りに来た人々で溢れかえっていた。

 汽笛が鳴った。いよいよ出発だ。人々の歓呼の声が響き、小さな日章旗を盛んに振る群衆の中に、私は確かに彼女の姿を見た。

 彼女は最後まで涙を見せなかった。玄関での見送りと違って、彼女は決然とした面もちだった。

 

 私は声を殺して泣いた。そして外套のポケットに入れた彼女の小指を取り出して頬に押し当てた。

 彼女の──人形の指は、まるで生きている人間のように暖かかった……。

 

 以来私はあの夢の続きを見ていない。

 

 終

 

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夢人形 武市真広 @MiyazawaMahiro

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