誘われるまま、深海へ

紫月 真夜

沈んでいく

 さらさら、流れるは無数のびー玉。こんなにも美しい情景を見たことがあっただろうか。……思い出せない。遠くに見える水平線。ゆらゆら揺蕩う木の葉。じりじりと肌を焦がす日差し。ふわふわと揺れるロングスカート。完璧と言っても過言ではない風景とは反対に、私の心はどんよりしていた。

 ——何一つ思い出せないのだ。……何もかも。

 私の中は空っぽ。早く全てを思い出したいという気持ちと、知らないままでいいという気持ちが混じり合い、心に雨を降らしている。どうにかできないものか。気を紛らわそうと思っても、私の手には何もない。急いで鞄とポケットを探るが、出てくるのは無数のため息だけ。

 そんな私を嘲笑うかのように、木々がさわさわと音を立てる。嘲笑うくらいなら答えを教えて、なんて心の声は誰にも聞こえない。

 これも所謂「神の悪戯」なのだろうか。だったら、神様とやらはどれだけ酷いのだろう。私の心はすでに折れそうだ。目からじわっと液体が零れてくる。この液体は何ていうのだったか。そうだ、「涙」だ。私は今淋しいのか。

 そう自覚すると人は途端に駄目になるらしい。一滴ずつしか零れていなかった水滴は、今や洪水のように溢れ出てくる。ぽたぽたと雨と同じように落ちていく水滴を見ていると、何処か心が落ち着く――他人から見たら異常な光景かもしれないが。


 此処にどれくらいの時間居ただろうか。何時間、もしくは何十分かもしれない。時間感覚がなくなるくらい、ずっと此処に立っていた。気付けば、空はほんのり朱色に染まっている。時間だ、帰らないと。……私は、今何を考えたのか。私が、何処へ帰るというのだ。だが、私の思考とは逆に、私の脚は動き始めている。このまま本能に任せてしまっても良いのではないか。

 歩き始めて数分。私の身体は、大通りらしき所へ。そこには、騒がしすぎる街があった。意味もなく音を出す車。喋ることをやめられない集団。おまけに、大音量で流れている音楽だ。よくこんな空間で生活できるなと思いながらも、私は僅かに出来ている隙間を潜り抜けていく。

 そして着いた先は、さっきと同じ海――正確に言うと、さっきの所とは正反対の所だが――だった。何故一周する必要があったのだろうか。その問いに答えてくれるはずだった人は何処かへ行ってしまった。……帰ってくることは絶対にない。

 すっかり夜になり、少し涼しくなった海岸に独り。不思議と孤独感はない。月の光はとても眩しく、昼と同じくらいの光が辺りに散らばっていた。

 これからどうしよう。私はどうやって生きていけばいい。黙って考えていても仕方ないので、少し海辺を歩いてみることにする。海の様子は昼間と違って、とても暗く見える。それは、我々をいざなおうとしているようで、少し不気味だ。砂浜に転がる貝殻も、今は少し妖しい雰囲気を纏っている。ちょうど良さげな岩に背を預け、睡魔が襲ってくるのを待つ。本当はお腹と背中がくっつきそうで、いつ餓死してもおかしくない。明日も生きていられるかな……。


 けたたましいサイレンの音で目が覚める。人ごみに紛れて見に行ってみると、救急隊員が何人かいた。近くの人に話を聞いてみると、ここから一キロメートルほどの所で人が溺れていたそうだ。あと数分発見が遅れていたら、亡くなっていたかもしれないらしい。

 きちんとお礼を言って、あの空間から抜け出してきた。どうも騒がしいところは私に合わない。次は何処へ行こう。行く宛などないので、海の横の公園に行って暇をつぶすことにした。どうせ夜までは何もできないのだから。

 公園の木陰に佇む小さな影。長い髪が空中を彷徨っている。やがて行き場を見つけたのか、動きはとまった。……もしかしたら、昔は詩人か小説家だったのかもしれない。こんなに綺麗な文章をすらすらと考えられるのだから。なんて、もういらない心配だけど。

 近くにいる子供たちが、不思議そうな顔でこっちを見てくる。私の何処が気になるのかしら。顔、容姿、表情。人は誰しも外見だけで人を判断する。あぁ、やはり人が多いところは生きづらい。陽も沈み始めたし、そろそろ海に戻ろうか。


 昨日よりも月光は透き通っている。おそらく、今日は満月なのだろう。ふふ、自分がスポットライトを浴びてるみたいで気分がいい。今日も、昨日と同じように砂浜を歩こう。今は、正直お腹の空きで気が狂いそう。一日、生きていられただけで凄いと思えるほどに。

 目の前に見える紺色の海。毎日違うはずの海に、今日もいざなわれる。もう海に身を委ねてしまおう。誘われるままに、足を踏み出す。

 一歩――ごめんなさい、元の自分。また一歩――どうしても、私には耐え切れない。

 とうとう足に水がかかる。木は、別れ惜しみを言うかのようにさわりと音を立てる。今までに触れたもの全てに感謝を述べ、波の方へ。その水は、ちょうどいい暖かさ。なんだ、海も歓迎してくれてるんだ。それなら。恐怖という感情を捨て、海の中に足を入れる。ゆっくり、だが確実に足は動いていく。たとえ其処にどんな未来が待っているとしても、私の足はもう止まらない。私は「死」で救われると信じているから。


「さようなら」

 そう宣言し、海溝へ身を投じる。最期に景色を目に焼き付けておこうと思い、思い切って目を開ける。すると視界に飛び込んできたのは、マリンスノー。その名の通り、海に雪が降っているよう。淡白い光が差し込んできた海に、真っ白なそれはとても映える。世界って、こんなに美しかったんだ。

 マリンスノーを横目に、沈んでいく身体。死ぬ時に誰もが見るといわれている「走馬灯」は見えない。記憶がないし、それも当然かもしれないが。


「あれって、もしかして人じゃないの」

 不意に聞こえてきた声。折角人が眠ろうとしてるのに、邪魔しないでよ。

「溺れてるのかも、助けを呼ばないと」

 あぁ、だから違うって。もう少し、寝たっていいでしょ。


「おやすみ、世界」

 また、いつか、逢えたらいいね。

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誘われるまま、深海へ 紫月 真夜 @maya_Moon_

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