帝都六区の料理人

天下雌子

 肩から巻き付けている厚手のマントの内側で、女は脇腹に吊り下げたホルスターにそっと手を伸ばそうとしていた。砂に沈んだ両足に意識を張り巡らせて、姿勢はおろか左右の重心のバランスすら変えないように努めているのは、ほんの少しの衣擦れや金具の揺らぎでさえ敏感に感知できる獲物を目の前にしているからだった。愛用の拳銃がそこに存在することを改めて確かめるように右手の指を一本ずつしっかりとグリップに巻き付けると、その金属の塊は自らの手の一部のようにしか感じられなくなる。使い込まれた革のホルスターの内側を、重い銃身が音を立てずに滑っていく。女は獲物を見据える。光を受けて揺らめくオアシスの池の水面のような鱗を砂の間に見せているのは、ギャール帝の国土調査行が始められてからも依然としてこの砂漠でしか生息が確認されていない「砂魚」だった。

 砂魚には少なくとも二つの種類があることは古くからよく知られている。砂漠に暮らす人々はそれぞれを「ビンギ」と「ロンコ」と呼び分けている。ビンギの身は固く乾いていて、煮ても蒸してもその舌触りはよくはならない。内蔵には食べられる部分がほとんどなく、捌き方を間違えて内蔵を傷付けると水が腐ったようなひどい臭いが身肉を汚してしまう。一方のロンコは、火を通さずとも食べられるほど滑らかで瑞々しく甘い肉質の身を持つ。食べられる内蔵が少ない点ではビンギと同様だが、悪臭を放つ部位はロンコにはない。その両者を外見から見分けるための唯一の手がかりが、全身を覆う鱗が光を反射するときに背や腹に浮かび上がる模様の向きだ。砂魚の頭を手前にして上から見たときに、光を受けた鱗が左回りの渦を描いているように見えるのがビンギ、右回りの渦を描いているように見えるのがロンコだった。砂魚の常として、ビンギもロンコも呼吸をする際のほんの一時しか地上に姿を見せない。そのため、鱗をまじまじと眺めてそれがビンギであるかロンコであるかを見定められる機会は滅多にない。砂漠の人々の間で「行動ありき」というような意味で今でもよく使われる「光る鱗」という慣用句は、このことを由来としている。砂の間に光る鱗が見えたならば、あれこれ考える前にまずはそれを獲るべきだ、ということだ。結果として獲れたのがロンコであったならば、しばらくの間、その幸運に相応しいだけの安らかな日々が訪れる。自分たちで楽しむなら多くの客を招いての宴を開けるし、市場で売るなら半月の稼ぎにはなる。獲れたのがビンギだったとしても、獲物がないよりはよほどいい。決して美味ではないものの飢えを満たすには不足のないだけの栄養はビンギも備えているし、濃い味を付ければ酒の肴にならないわけでもない。

 銃の引き金に指を乗せた女は、数秒先に訪れるはずの一瞬を待っていた。マントを跳ね上げながら銃口の向きを砂魚の頭に定めて引き金を絞る、その一連の動きを淀みなく行うためには、弾かれるようなきっかけが必要だった。砂漠を長く歩いてきた女の身体に、自分からそのきっかけを作り出すだけの熱量は残ってはいなかった。汗の雫が、女の額からこめかみを伝って顎の先まで流れ落ちる。固まってしまったかのように動かないでいる砂魚の背は、やや傾き始めている陽射しを鋭く反射している。その光が大きく波打ったのは、小石を詰めた柔らかな筒を握りつぶしたような、醜い音色の鳥の声が空に響いた直後だった。


「もう、バカ鳥……!」


 吐き捨てるように言いながら、女はバネ仕掛けの人形のように機敏かつ正確に砂魚に向けて銃を構える。天敵の声を聴き取った砂魚は大きく発達した腹のヒレで砂をかき、鳥のクチバシが届かない深さにまで身を潜り込ませようと急いでいる。砂魚の頭が砂の下に消えてしまう直前に、女は引き金を引いた。火薬が爆発する乾いた音が砂と空の間に短く響く。続けて女は躊躇なく空に銃口を向ける。獲物に向かって急降下してきている砂漠の鳥「ライ」を威嚇するためだ。その長いクチバシは、速度を乗せて降下すれば砂魚を鱗の上から貫けるだけの鋭さを備えている。仕留めた獲物に向かってくるライを無防備に追い払おうとして腕や脚を失った人間は、女が直接知っている相手に限っても五人や十人では収まらなかった。女が再び引き金を引く。弾丸は折り畳まれたライの左の翼をかすめた。薄い青色の空に黒い羽が何本か舞う。高速で降下してきている最中に身体の片側に衝撃を与えられたライは、バランスを失って錐揉みするように回転しながら、女から少し離れたところに墜落した。女は拳銃をホルスターに戻すと、腰の短剣を抜きながら砂魚へと向かう。弾丸は女が狙いをつけた通りに額の部分に命中していたが、砂魚はまだ完全には絶命していなかった。よく肥った身を砂の上にくねらせながら、人間の目には愛嬌を感じさせるような形に突き出している口を喘ぐように開いたり閉じたりしている。女が短剣の刃をエラと尾の根元に順番に刺し入れると、砂魚は一度だけ大きく身を震わせてから、完全に動かなくなった。エラと尾から鮮血が溢れ出る。女は鞄から目の粗い網を取り出すと、自らの上半身ほどの大きさの砂魚を手早く結わえて、頭を下にして肩に担ぎ上げた。滴り落ちる血が砂地に黒く染みていく。女は獲物の重さを肩に食い込む網の軋みから感じながら、ライを探した。それほど遠くに落ちたようにも見えなかったが、砂丘の稜線のうねりに隠されているのか、黒い鳥の姿は見当たらない。ライのクチバシに付けられる値段を考えれば簡単に諦めるには惜しかったが、あまり手間取っていると夜までに街にたどり着けなくなってしまう。疲労もそろそろ限界だった上に、砂魚のおかげで荷の重さは増している。女は目の前の小さな砂丘を見た。その上から見つからなければ諦めることに決めて、ブーツの爪先で砂を踏みながら丘を登る。おおむね頂上だと言えるところまで来てから、女は小さな双眼鏡を取り出して周囲をゆっくりと見渡した。退屈な砂だけの景色がとめどなく広がっている中に、妙な形で砂の間から突き出しているライの黒い翼を女は見つけた。その直後、女の視線は、ライが落ちた場所のさらに五百メートルほど奥に立ち上がっている砂煙を捉える。双眼鏡の照準を調整しながら砂煙の根本を追うと、一台の幌馬車が走ってきているのが見えた。女は色の白い頬をきつく引き締めながらライのところへ向かう。ライはクチバシを垂直に近い角度で砂に突き立てながら絶命していた。左右の翼の付け根のあたりから、鋭く折れた白い骨が突き出している。女はライの首に短剣の刃を入れて、頭部を切り離した。砂から引き抜くと、女の腕ほどの長さのクチバシが現れる。陽を受けて油を塗ったように暗い虹色に光るクチバシには、大きな傷も歪みもなかった。


(いい値がつきそう)


 満足そうに頷きながら、女は砂魚の網に手早くクチバシをくくり付ける。その網を背中に揺り上げてから、女は再び双眼鏡を構えて、やってくる幌馬車を注意深く見た。馬や荷台には特別な装甲は施されていなかったが、幌には商号が謳われてもいなかった。軍用でもなく商用でもない、つまり、素性が分からない馬車だということだった。ある程度の距離にまで近づくまで待ってから、女は空いた方の手を振って声を上げた。


「おーい!」


 馬車を走らせていたのは、白くなった髪を上品に撫で付けている老人だった。老人は女に気がつくと慌てた様子で手綱を引いた。馬車は女のかなり手前で停止した。お互いに声を張らなければ届かないような距離、仮に女が駆け寄ろうとしても車の方向を変えて走り出すだけの時間は充分に稼げるような距離だった。女が馬車を警戒しているように、老人もまた女を警戒していた。女はライのクチバシと背中の砂魚を順番に見せながら怒鳴った。


「乗せてくれない!? 大物が獲れて困ってるの!」


 老人は目を細めて女の獲物を見てから、振り返って幌の中に言葉をかけた。すると幌の中から、やはり上品に髪を結わえた老女が顔を覗かせて、微笑みながら女を手招きした。女は少し安堵しながら、ゆっくり馬車へと近づいた。

 手を伸ばせば届く距離にまで来てから、女がライのクチバシと砂魚を見せると、老女が目を見開いて言う、


「どちらもずいぶん立派だこと」

「鳥を獲るつもりはなかったんだけど……獲物の魚を狙ってきたから」

「どちらまで行かれるの?」

「サヴィの街へ行きたいの。途中まででも構わないわ」

「あら偶然。私たちはサヴィへ帰るところなんですよ」


 女は目を見開いて、


「本当? いい?」

「もちろん」


 老女が車の後ろに男を誘うのを、老人が遮った。まだ警戒を崩していない様子の老人は、細めた目で女を見ながら、


「あんたを疑うわけじゃあないが、民証を見せてくれんか。厄介ごとを抱えたくはないんでな」

「あなた、失礼です」

「ううん、もっともだわ」


 女は胸元から民証の赤い冊子を取り出すと、老人に手渡した。老人は開いた冊子を目から少し離して、記された文字を追っていく。


「レネ・ミラベル……帝都にお住まいか」

「書面上はそうなってるわ。ご覧の通りの旅の身空だけど」

「わしも一昔前はよく帝都に出入りしていたもんさ。最近はすっかり足が遠のいてしまったがな」

「どんなお仕事を?」

「肉の行商だよ」

「ギャブ牛かしら」


 レネがそう言うと老人は少し表情を柔らかくし、


「若いのによくご存知だ。弟が牧場をやっているのさ」

「あれはいい牛だわ。乳も濃いし」

「あんたも同業かい」

「ううん、私は料理人なの」

「ほう、そうかい。どこで働いておられる」


 瞬間、レネは目に逡巡の色を浮かび上がらせながらも、


「六区のヴァポレという酒場を知ってる?」

「六区か、あのあたりじゃよく食べたもんだが……ヴァポレ……聞いたような聞かぬような名だ」

「小さなところだけど……ギャブの肉は人気あったわ。少し焦げるまで焼いたのを、卵と酢を混ぜたソースで出してたの。同じ夜に四皿も注文したお客もいたな」

「悪い気はしないな」


 顔に笑みを浮かべた老人は冊子をレネに返しながら、


「わしはピックス・サイ、これは家内のマパタだ。乗ってくれ」

「ありがとう」


 レネは先に砂魚を荷台に載せてから、自分も乗り込んだ。木の枠組みに薄いマットを乗せただけの質素な座席に尻を据えると、重みの抜けた足にかえって疲れが押し寄せる。思わず漏れた溜息を笑いながら、マパタが鉄の水筒を差し出した。触れると指先が濡れるほど冷えている。


「お疲れ様」


 レネは感謝の言葉を述べる前に飲み口に吸い付いていた。


「帝都で料理人をなさってるあんたが、こんな辺鄙なところで何を? 仕入れでもあるまい」


 手綱を捌いて馬車を進ませながら、ピックスが肩越しに振り返って訊く。レネは自分自身を嘲るような笑みを浮かべながら、


「休暇をもらってるの」

「のんびりするなら他にいい場所がいくらでもあるだろうに」

「あなた、あんまり若いお嬢さんの事情を聞きたがるものじゃありません」


 マパタがレネに目礼しながら夫を諌める。レネは気にすることはないというように首を振って見せながら、


「ピックスさん、帝都の市場は覚えてる?」


 ピックスは大袈裟な身振りで、


「ファルコ市場! あまりの広さに、初めのうちは目眩がしたもんだ。わしはケボの村の生まれだが、あの村をまるまる入れてもまだ足りない」

「あの市場には東西のあらゆる食材が揃ってるわ。お金に糸目をつけなければ、まず買えないものはない」

「そうだろうとも」

「それでも、その土地に出かけなければ食べられない味ってあるの」

「ふむ」

「ギャブの肉だってそうよ。帝都の市場に出るのは燻肉ばかりだけど、あなたたちは火の通っていない肉も口にしているでしょう?」

「生の肉を帝都には運べんからなあ……砂漠を行く間に悪くなっちまう。荷台に氷を山ほど積めば話は違うかもしれんが、それじゃあ商売にならん」

「分かってる、恨み言を言いたいわけじゃないの。帝都じゃ食べられないものが山ほどある、それを私はこの目と舌で知りたいと思ってるってこと」

「それで旅をなさってるのか」

「そんなところ」

「結構なご身分だ!」


 ピックスは大声で笑いながら手綱を操る。馬車は砂丘の間を蛇行しながら進んでいく。凪いだ海の上を行く船のように車体はゆったりと揺れた。馬は履かせられた砂蹄に苛立つ様子もなく足先を従順に運んでいる。その脚の影が、粒の細かな砂が作る曲面に這うように長く伸びている。陽はそろそろ地平に触れそうだった。


「日暮れまでに着くかしら?」

「ああ、もうじきだよ」


 その答えに安堵しながらレネはピックスに向かって声を張った、


「あなたたちは、昔からサヴィに住んでるの?」

「わしの里のケボはもっと西にある小さな村だが、マパタはサヴィの大きな商家の娘だ」

「まあ」

「通い詰めて口説いたもんだ」

「本当は許嫁がいたんですよ。婚礼儀も何もかも準備できていたのに、それをこの人が止めて」


 マパタが含羞みながら言う。


「一年くれと言ったんだ。一年あれば立派な家を構えてみせると」

「サヴィに? 大きな街だと聞いてるわ」

「そうだ、生半可な金じゃあなかったが、死ぬ気で働いてな」

「結局、お金は約束してくれた半分しか貯まらなかったのだけれど」

「何を言うか、お前、半分よりは貯まっていたろう?」

「いいえ、半分よりも少し足りませんでしたよ」

「それで、どうしたの?」


 ピックスは困ったように口をつぐむ。マパタが微笑みながら、


「私が貯めていたお小遣いを合わせたんです」

「借りただけだ」

「あら、いつか返していただけるの?」

「当然よ」

「嬉しいわ、あの世で払ってくださいな」


 マパタはそう言うと、レネと笑い合った。

 馬車がそれまでとは違った小刻みな揺れ方を始めて、レネがピックスの方に乗り出して地面を見ると、砂の中に敷石が現れていた。


「旧街道ね」

「ああ。砂漠の要所を繋いでるが、ほとんどが砂に埋もれちまってる。街に近づくと、こうやって走れる所もあるんだがな」

「昔は砂漠中を走れたっていうのは本当なのかしら?」

「帝政華やかなりし頃は、砂を掃くための役人が道に沿って何百と並んだって話だ」

「そんな仕事、嫌にならなかったのかしら。どれだけ掃いてもキリがないわ」


 首を振りながら幌の中に戻ったレネにマパタが声をかける、


「レネさん」

「なに?」

「そのロンコ、サヴィでお売りになるの?」


 マパタはレネが床に転がしている砂魚の背に視線を落としていた。


「これ、ロンコだった?」

「あら、ご存知なかったの」

「見つけちゃったから、とりあえず獲ったの。ほら『光る鱗』って言うんでしょう? ビンギならビンギで、新鮮なものを食べてみたかったし」


 マパタが目を凝らすので、レネは砂魚を網から出して鱗を見せた。


「間違いないわ、これはロンコ」

「そう、良かった! 少し食べたら、残りは売るつもりよ」

「あのね、レネさん。厚かましいお願いかもしれないけれど……」


 ピックスが振り返り、やや怒鳴るように、


「わしが探すと言ったろう!」

「もう明日なんですよ」


 マパタは独り言のような口調でピックスの背中に向かって呟いてから、レネの顔を見て、


「もしよかったら、このロンコを譲っていただけないかしら? こんな言い方は品がないようですけれど、市場よりも少しは多く出せると思うの」

「構わないけど……何か事情があるの?」

「孫が結婚するんです」

「あら、おめでとう!」

「宴には婿の家がお料理を出すのだけれど、主菜はロンコと決まっているの。縁起物なのね。人生には大変なこともたくさんあるけれど、砂漠の乾いた砂の中にもロンコがいるように、いつだって希望はある……」

「なるほどね」


 再び振り返ったピックスが、弁解するような口調で、


「わしが頼まれとったんだが、買おう買おうと思いながら、すっかり忘れちまっててな。今日になって慌てて市場に行ったが、間の悪いことにロンコは入っておらんかった」

「周りの村にはまだあるかも知れないと、今日もミリガまで行ってきたのだけれど……」

「なに、まだ市を開く村はいくつもある。いざとなればわしが獲ってくる」

「そんなに簡単に獲れるなら、市場にも出ていますよ」

「昔は日に二匹獲ったこともあった!」

「今は数も減っているんです。ね、レネさん、譲っていただけないかしら?」

「もちろん」

「まあ、よかった!」


 少女のような身振りで両の手を胸の前で組み合わせたマパタに、レネが言葉を続ける、


「でも、条件を二つ付けさせて」

「何でしょう?」

「料理を手伝わせて。砂魚に一から手を入れたことがないの」

「あら、それはこちらからお願いしたいくらいだわ。人手があると助かるもの。もう一つは?」

「完成した料理は、わたしにも食べさせて欲しいわ」


 マパタは首を傾げて少し考えてから、


「分かりました。宴のお料理ですから事前に崩すことはできないけれど……レネさんのお席も用意すればいいわ」

「おい、お前……」


 ピックスが振り返って険しい顔でマパタを見る。マパタは意に介さず、


「我が家の恩人ですもの。せっかくだから祝っていただきましょう」

「いいの?」

「もちろん」

「それなら、交渉成立ね」


 レネが手を差し出すと、マパタは微笑んで静かな握手を交わした。その微笑みに僅かな陰が落ちていることに、レネはまだ気が付いていなかった。ピックスは、決まりの悪さを流してしまいたいという意図もあったのだろう、よく張った声で「レネさん、あれがサヴィの街だ!」と怒鳴るように言った。レネが幌から顔を出して前方を見ると、いくつかの砂丘のうねりの先で、一つの大きな城壁を境に砂漠が消えていた。城壁の両側には切り立った崖が広がっていて、目を凝らすと、波先を白く荒らした海が遥か下の方に見える。


「すごい景色……」

「サヴィが『砂漠が終わる街』と言われる所以だよ」

「街の向こう側は海のね」

「ああ」

「砂漠と海が隣り合ってるのは不思議ね。雨は降らないの?」

「崖下の水面に霧が出ることはあっても、街に雨が降ったことは一度もない」

「魚は獲れるのかな」


 レネが訊くと、ピックスは眉を寄せて厳しい顔をしながら、


「獲ろうとする者もおらん。あの海には風がないから船が走らん……それに、海を嫌う者も多い」

「あら、どうして?」

「海は少しずつ崖を飲み込んでいる。放っておけばサヴィは海に沈んじまう」

「海面が上がっているの?」

「難しい理屈はわしには分からんが、その海と寄り添うこともまたサヴィの運命なんだ」


 今や砂の間から完全に露出している街道の上を、馬車は小気味良く走った。近付くにつれて城壁にはかなりの高さがあることが分かってくる。レネはそれを見上げながら、


「大戦でも陥落しなかったって話、伊達じゃないわね」


 ピックスは間近に迫ってきた城壁に一定の間隔を空けて焚かれている篝火をレネに示しながら「あの火はビンギの脂を燃やしているんだ」と誇らしげに言った。街道は城壁をアーチ型にくり抜いた門に向かって続いている。アーチの頂上の部分には、翼を広げて炎を吐く竜の姿があしらわれた紋章が彫刻されていた。門の脇には砂鎧を着込んだ門兵が三人立っている。そのうちの二人は銃剣を肩に掛け、一人はサーベルを腰に差していた。馬車の姿を認めると、銃剣の二人がお互いに向かって剣先を斜めに掲げる形で進路を塞いで見せる。無機質で冷たい視線が、ピックスとその後ろの幌から顔を出しているレネに向かって注がれる。「民証を用意しといてくれ」そう呟きながら、ピックスはゆっくりと馬車を停めた。サーベルの門兵が馬車に近付きながら「サイの旦那さん、遅かったな」と声を掛けた。「おかげでロンコは見付かったよ。客人が譲ってくれた」とピックスが答える。


「客人? その女のことか」

「ああ」

「民証を」


 冷淡な言い方とともに差し出された門兵の手に、レネは胸元から取り出した民証を渡す。


「帝都の人間か」

「そうよ」

「仕事は?」

「料理人」

「帝都の料理人レネ・ミラベルが、ここサヴィに何の用だ」

「目的のない旅を禁じる帝法なんてあったかしら?」


 レネが言葉を返すと、ピックスが振り返り、レネを見ながら小さく首を振った。レネは肩をすくめる。門兵が温度のこもらない口調で言う、


「貴様がどこで野垂れ死のうが勝手だが、我々の街に不審な者を招き入れるわけにはいかん」


 それを耳にしたマパタは、レネの脇に潜り込むようにして幌から顔を出しながら、


「この方は私たちが必要としていた魚を譲って下さった恩人です。そのように無礼な言い方をされるいわれはありません」

「サイの奥さん……あんたは前にもそう言って、乞食を四人も連れてきたじゃないか」

「乞食とは何です! あの人たちは仕事ができなくなって行き場所を無くしていただけ。今では四人ともサヴィで新しい生活をしているじゃありませんか」

「そのために街の金と水がどれだけ必要だったと思う?」

「少しのお金と水で新しい仲間が四人もできたのだと考えられないのですか?」


 門兵は言い淀んでから、独り言の捨て台詞のように「大戦で手足を無くしたような腰抜けを、仲間だなんて思えるものか」と言った。レネは自分のすぐ横で幌から身を乗り出しているマパタの小さな身体に、怒りが充満していく様子が手に取るように分かった。マパタは震える声で、


「あなた、名前は?」

「何?」

「名乗りなさい! 所属も!」


 マパタの気迫に気圧されたように、門兵は視線を泳がせながらも、


「第二警備分隊、テラ・ギウェイだ」

「警備分隊なら、まとめているのはパビンの坊やね、クイナ・パビン。あなたの隊長でしょう? 違う?」


 若干顔を青ざめさせながら、不貞腐れたようにギウェイは「そうだ」と頷いた。マパタはそのギウェイにつかみ掛からんばかりの体勢になりながら言葉を続ける、


「あの坊やに確認させてもらうわね? あなたの分隊じゃ、大戦で傷を負った人を乞食呼ばわりするどころか、仲間とは思えない腰抜けだと嘲るような教育までしているの、と」

「いや、隊は……」

「隊は何です!」


 ピックスが振り返り「おい、もう少し穏便に……」と口を挟もうとするが、マパタは取り合わない。ギウェイは足下を見詰めたまま、


「……撤回させてくれ」

「何をです」

「彼ら四人を乞食と呼び、腰抜けだと馬鹿にしたことをだ」

「それだけじゃありません、あなたは私たちの恩人を不審だと言ったのです」

「しかし……それが俺の職務だ……」

「何が職務ですか! 六代に渡ってサヴィに住んできた家の出の私が恩人だと呼ぶ方を不審だと決めつけることがあなたの職務だというなら、そんな任はパビンの坊やに解いてもらいます。よろしい?」

「……隊長の耳には入れんでくれ」

「それなら?」


 ギウェイは手の中の民証を閉じると、視線を外したままそれをレネに差し出して、


「行ってくれ」

「悪いわね」


 皮肉な笑いを浮かべながら言うレネを努めて無視するようにしながら、ギウェイが銃剣の二人に向かって腕を上げると、二人は掲げていた銃剣を再び肩に掛けて道を開ける。「さあ、あなた」とだけ言うと、マパタは再び幌の中に戻った。首を振りながら手綱を揺すったピックスの耳元でレネが「すごいのね、奥さん」と囁くと「若い頃からこうだ」と答えながらピックスは馬車を進めた。レネは高いアーチ見上げる。門をくぐろうとしている馬車を、火を吐く竜の大きく見開かれた目が冷徹に見下ろしているようだった。


「それにしても、よっぽど余所者が嫌いなのね。帝都の門塀でも、もう少し愛想がいいわ」

「砂漠の民の性根なのかもしれん。怪しい者と井戸は共用できんからな」


 レネは幌の中を振り返り、


「助かったわ」

「いいえ。不愉快な思いをさせてすみませんでした」


 マパタは柔らかな笑顔に戻って会釈した。


(続)

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