せんせい と ぼく

タウタ

せんせい と ぼく

 僕はバスに乗っている。バスに乗って先生に会いに行く。レトロなバスだ。屋根が丸く、ことことと音がしそうな走り方をする。目が痛くなるほど緑色の座席はスプリングが強すぎて、ほんの少し揺れただけで尻が浮いてしまう。

私鉄の終点から始まって、誰も乗らないバス停をいくつも通り過ぎた。畑と田んぼが消えて山が迫ってくる。窓の下に河が見えるとすぐにトンネルに入る。トンネルは天井が低く、電気も点いていない。車はみんな遠慮がちに走る。トンネルを抜けた先の村に、先生は住んでいる。

小さな村だ。高齢者の割合なんて全国平均をゆうに超えてしまう。誰もが車を持っているけれど、結局どこにでも歩いて行ってしまうような、そんな村だった。

先生はあるとき奥さんと二人でやってきて、村の小学校の先生になった。一クラスだけの小学校の、僕の担任の先生だった。僕は小学校を卒業するまでそこにいて、中学に上がると同時にトンネルの向こうの、私鉄の終点よりも向こうの町に引っ越した。今はその町で小学校の先生をしている。

村の入り口でバスを降りて、僕はマフラーを巻いた。息が白い。空はふて腐れたように曇っている。もうすぐ先生に会えると思うとドキドキした。

どの家の玄関にも、松飾りが行儀よく並んでいる。犬をつれたおばさんとすれ違った。こんにちは、と挨拶をする。僕の知らないおばさんだった。

先生の家に行く前に、僕は学校を見に行った。僕が卒業した小学校だ。来年の春には廃校になり、生徒たちは隣町の学校に吸収される。お金がないから取り壊しの目途はついていないらしい。

僕と先生が出会った場所。僕が恋に落ちた場所。ズボンのポケットに入れた指先が冷たくてじんじんする。

僕は、先生に恋をしている。



「いらっしゃい」

 先生は毛玉だらけの茶色いセーターを着て、ツイードのズボンを履いていた。また少し白髪が増えた気がする。僕はお土産のもなかを仏壇にそなえて手を合わせた。写真は先生の奥さんだ。奥さんは何年も前に亡くなった。確か、ガンだったと思う。以来、先生は一人暮らしだ。

「さあ、こたつに入って。仕事は片付きましたか? 今の先生たちは本当にやることが多くて大変でしょう」

 先生だって今の先生なのに、まるで昔の先生のようなことを言う。僕は、僕の生徒たちのことを話した。運動会のことや、学芸会のこと、授業参観のこと。夏に先生と会ってから起こったことをぽつぽつと話す。先生は僕の生徒たちのことを知りたがる。自分の生徒のように名前を憶え、登校拒否はしていないか、書道のコンクールでは賞を取ったのかと聞く。

 三か月に一度、僕はまるで先生に生徒たちの様子を伝えるメッセンジャーだ。

僕の生徒たちはみんないい子だ。でも、河童を信じている子はひとりもいない。彼らは足が長くて、とてもおしゃれだ。僕よりずっと機械に強い。高校数学が解ける子がいる。英語が話せる子もいる。素晴らしくかっこよくダンスを踊る子もいる。でも、河童を信じている子はひとりもいない。

「お茶をもう一杯飲みますか?」

 僕が首を振ると、先生はもなかの包み紙を畳んで屑籠に入れた。それから先生の車で隣町のスーパーマーケットに行って、食料を買い込んだ。運転は僕がした。

 鳥団子鍋を食べて、またもなかを食べた。先生は甘いものに目がない。もなかを頬張る先生は幸福そうで、胸が温かくなる。バスを降りたときにドキドキしていた心臓は、トクントクンと落ち着いている。こたつの中で、先生の向かいで、僕は恋をしていることを忘れるほど穏やかな気持ちでいた。

「学校に行きましょう」

 食器を洗って居間に戻ってくると、先生はオーバーを着ていた。古めかしい色のマフラーを巻き、黒い皮の手袋をはめている。驚く僕にコートとマフラーを押しつけ、早く着るようにと急かす。僕は言われるがまま、防寒の支度をして靴を履いた。

 村には街灯なんてほとんどない。その上四つに一つは電球が切れているけれど、放っておかれている。夜遊びできる場所なんてないから、誰も出歩かない。誰も文句を言わない。いっそ、みんな節電になっていいと思っているのだろう。だから、僕たちは懐中電灯を持って歩いた。

「次に君が来るときには、立ち入り禁止になっているかもしれませんからね」

 先生は少しだけ肩を丸めて歩く。僕は懐中電灯の光の輪が常に先生の足元を照らすように気をつけた。アスファルトはろくに手入れがされてないので、あちこちひび割れている。先生が転んだら大変だ。僕が守らなくてはならない。

 先生のポケットで鈴がついた鍵が鳴っている。先生たちはみんな学校の合鍵を持っているらしい。おかげで僕たちは塀を乗り越えることも、窓ガラスを割ることもなく校舎に入ることができた。

 薄っぺらい来客用のスリッパで階段を登っていく。僕が小学校の先生をしていなかったら、その段差の低さに驚きつまずいていたことだろう。低い水道も、低い窓も、とにかく自分の身体に比べて不便を感じるほどのものの低さに、僕はいつの間にか慣れてしまっていた。多分、これ以上少しでも高くなったら生きていけない。そんな閉鎖された空間で、僕は毎日息をしている。

 その教室に僕が使っていた机はもうなかったけれど、僕が分数を書いたことのある黒板は残っていた。

 先生は蛍光灯を一列だけ点けた。乾燥した空気は、ちょっと酸っぱい匂いがする。後ろの掲示板には半紙と交通安全のポスターが生徒の数だけ画鋲で留めてあった。学級文庫には村の誰かから寄贈された世界名作文集が並んでいる。

「懐かしいでしょう」

僕はあいまいに笑った。T字の箒。大きな三角定規と分度器。ブラウン管のテレビ。どれも見慣れすぎていて、本来感じるはずの懐かしさは職場に忘れてきてしまったみたいだった。

「君の席はそこでしたね」

 僕はうなずき、先生が指した椅子に座った。木の座面は冷たかったけれど、背もたれには防災ずきんが被せてあったので快適だった。余った脚を机の前方から飛び出させる。防災訓練のたびに隠れたのが嘘のように、机は小さかった。

 先生はゆったりと歩いて教壇についた。あれからもう二十年近くが経とうとしている。僕は大きくなった。先生も年を取った。それでも、黒板の前に立つ先生は先生だった。僕は先生がいつまでも先生であることがうれしかった。

 けれど、来年の春には先生は先生でなくなってしまう。この学校といっしょに、先生をやめるのだそうだ。

「先生」

「はい、祐介くん」

 先生は手を上げた僕を当ててくれた。僕は机から脚を引き抜き、もたもたと立ち上がる。

 僕が恋をした先生は先生ではなくなってしまう。それは、先生と出会ったこの場所がなくなってしまう以上に、僕の心を侵食した。

「先生が先生をやめてみんなの先生じゃなくなったら、僕だけの先生になってください」

 今、何回「先生」と言っただろう。何回でもいい。きっと何回言っても足らない。

 先生は僕を見つめていた。僕も先生を見つめていた。机の上には懐中電灯がひとつ。ノートも鉛筆もない。計算ドリルも、国語の教科書も、リコーダーさえ僕は持っていない。それでも僕は先生の生徒でいたかった。

携帯電話でタクシーを呼んで、トンネルを抜けて町へ帰る自分を想像する。そのとき、僕は泣くだろうか。長い片想いが終わってほっとしているだろうか。どちらにしても今より明るい場所へ帰るのだから、アスファルトは平らだろう。代わりに、河童はいない。

「はい、いいですよ」

 先生は笑っていた。こういうとき、頭の中ではチャペルの鐘が鳴るんだと思う。でも、僕には学校のチャイムが聞こえた。

僕と先生は学校から手をつないで帰った。恋人は手をつなぐものだと、先生は頑なに言い張った。僕は必死に手をつながなくていい理由を述べた。そしてそれは、先生にすべて却下された。

「こんな夜に出歩く人はこの辺りにはいません。手袋をしていますから、君の手が冷たくても平気です」

 僕は迷子になって保護された子どものように、先生に手を引かれて歩いた。懐中電灯は先生が持っている。黄色い輪が僕たちの少し先を照らしている。アスファルトのでこぼこはいつの間にかなくなって、腕利きの職人が鉋をかけた木の上を歩いているみたいだった。このままずっとずっと、どこまでも遠くまで歩いて行けそうだったし、僕はそうしたいと思っていた。



 目を覚ますと知らない天井で、ただでさえ起きるのが苦手な僕は、目を開けているのにまだ眠っているつもりでいた。しばらくして、僕は自分がパジャマを着てこたつに入っていることに気がついた。僕はパジャマなんか持っていない。うちにはこたつなんてない。それから僕は、スーパーボールをぶちまけたようにぽんぽんころころ思い出される昨日の出来事に圧倒され、しばらく動けずにいた。

 手をつないで帰ってきた先生と僕は、こたつでキスをした。その先のことは、正直あまり思い出したくない。先生に触れられて、僕はあっという間に達した。初めて女の子としたときだって、こんなに早くはなかった。シャワーを浴びたところから記憶が曖昧で、今に至る。

「先生?」

 家の中に、先生の姿はなかった。キッチンにも、風呂場にもいない。なんだか申し訳なくて、仏間には入れなかった。大きめの声で呼んだから、先生がいたら返事をしてくれただろう。

僕はパジャマを脱いで外へ行ける格好になった。とにかく、先生を探さなければならない。僕が眠っている間に雲が晴れたらしく、ガラス戸から太陽の光が差し込んでいる。式台に降りて靴の紐を結んでいると、ドアが開いた。先生は中途半端な体勢の僕を見て笑った。

「おはようございます。よく眠れましたか?」

 僕は挨拶もろくにできず、ああとか、ううとか唸った後に頷いた。三年生の春に戻ったみたいだ。先生は僕の横でさっさと靴を脱ぐ。僕はせっかく結んだ靴紐を解き、履いたばかりの靴から抜け出した。

「どこに行っていたんですか?」

「散歩ですよ」

 先生にそんな日課があるなんて知らなかった。意外に健康志向らしい。

「いいえ、今日から日課にするんです」

 先生は腰からガス会社の名前が入った万歩計を取り、得意そうに僕に見せた。

「足腰を鍛えなくては。恋人にセックスを遠慮させるようではいけません」

 明るいうちから開けっぴろげすぎる。僕は赤くなったり青くなったりするのに忙しくて返事もできなかった。言い訳させてもらえば、僕だって遠慮くらいする。だって先生は当然のように男性経験がなく、手をつなぐだけで狼狽えるレベルの僕は当然のようになんの用意もしてこなかった。

「せ、先生」

「いけませんよ。恋人なのだから、名前で呼んでくれなくては」

 僕はもうどうしていいかわからなかった。一足す一から微分積分までを急に詰め込まれたみたいに、くらくらした。この話を聞いた人はきっと、もっとすごいことをしたんだからそれくらいなんだ、と言うだろう。でも、それはその人が僕じゃないから言えることだ。

先生はずっと先生で、これからもずっと先生だと思っていた。(昨日、僕だけの先生になると言ってくれたのだから、疑いようがない。)先生に名前があるなんて、僕はこの瞬間まで意識したことがなかった。

「できません」

 跳び箱が大の苦手だった僕は、いつも体操服の裾を握って震えていた。すると、先生は決まってこう言うのだ。

「一回はがんばりましょう。それでできるようになったら儲けものです」



Fin.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

せんせい と ぼく タウタ @tauta_y

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ