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久しぶりにおいしいコーヒーを口にしたのは、蝉の気配もほとんどなくなった九月の中頃だった。
赤石さんは無事に戻り、包帯や絆創膏も必要としなくなった。唯野は住居侵入と傷害未遂の容疑で送検され、偽札についても証拠が見つかったことで証言を始めたらしい。浦上も同様に、捜査に協力しているそうだ。事件は確実に収束に向かおうとしている。
経営者を失ったtopSALEは、経営を引き継いだ人物が倒産まで視野に入れて、一からの立て直しを目指しているらしい。そのうち、違う名前で似たようなサイトが登場するだろう、と赤石さんは皮肉に笑っている。
MaSTについては現在システム全体が停止されている。こちらはあの日の男性二人組の予想が的中して、消滅の道を歩んでいるようだ。現金を交換していたユーザへの補償が進められているが、いろいろと揉めていると連日ニュースで報じられている。
いまもラジオから、MaST崩壊のすったもんだを、都市伝説らしきことまで織り交ぜて伝えるDJの陽気な声が聞こえている。
「その……ごめんなさい。あのときはひどいことを言って」
正面のソファでふんぞり返っていた彼は、わたしの謝罪に面食らったようだった。
「何だい、急に?」
実を言うと赤石さんが退院してから何度か会いに来ている。警察の捜査に協力する過程で顔を合わせることがあったし、業者に依頼して盗聴器を取り外すところにも立ち会った。留守の間に汚くなった家の掃除や、庭の手入れも手伝った。
でも、病室で彼を罵ったことを謝ることはできないでいた。
理由は簡単。恥ずかしかったから。
「謝る気はないものと思っていたよ。……全部正論だったことだし」
「それは……その、本当にごめんなさい」
頭を下げると、彼はからからと笑った。
「いや、別にいいんだって」
「でも、わたしが言えることではなかったので」
コーヒーで恥ずかしさを飲み下す。まだまだ外は暑いので、もうしばらくはアイスだ。この香り高いコーヒーを冬にいただけたなら、さぞおいしかろう。
「まあ、僕も遙に言われてはっとしたよ」
「え?」
なんと、わたしの言葉で赤石さんが改心したというのか!
「だって、征吾の野郎が病院のカネを払ったんだろう? この借りを返さないと、僕は奴との関係を清算できない」
「……期待したわたしがバカでした」
彼は見慣れたあのいやらしい笑みを浮かべた。最初は嫌悪しか感じなかったのに、近頃はこれを見ると「元気だな」と感じてしまうようになったのが恐ろしい。
「僕と奴の和解はありえないよ。この家に住んでいる限りね」
事件以降、赤石さんが浦上に言った「思うところ」が何なのか少しわかった気がする。
彼はカネに貪欲な赤石の家を嫌って、家の敷いたレールを進むのに比べれば不安定なことが目に見えている探偵の職に就いた。そして、そこで得たお金――彼は「カネ持ちから巻き上げた成功報酬」と言っていたか――で以て、赤石家からこの家を現金で買い取った。
何という挑発か。
彼にとっては、この家に住んでいるだけで赤石家に対する嫌がらせをしていることになるのだ。この家は彼の家族に対する反骨心のシンボルであり、それを手放すという気は毛頭ないらしい。
浦上との交渉の席で家を譲ることも選択肢と示唆したのは、交渉の最中に唯野や浦上から盗聴されていることに感づき、話を合わせたのだという。もし無下に断れば、相手は偽札スキャンダルの発覚をひどく恐れていたから、その場で襲われる危険を感じたそうだ。結局襲われてしまったけれど。
「まあ……無理に仲良くしろとは言えませんけどね」
赤石さんに怒鳴ったのと同じように、兄さんに向かって「家族と向き合え!」と説教するなんてとてもできない。そんなわたしが、あの征吾さんを兄として仲良く接しなさい、と赤石さんに強いることができるものか。だから謝っているのだ。
征吾さんは結局、誰にも咎められるようなことはなかった。いや、少なからず悪い噂は流れている。特に、投機家仲間と共謀してMaSTを暴落させたという疑いは、インターネット上ではよく見かける。ただし、証拠がないので噂の域を出ず、彼のビジネスにもほとんど影響をもたらさなかった。
わたしの中では、未だに、彼が弟を貶めようとしたのではないかという疑念が晴れていない。漠然と、彼は悪い人なのではないかと身構えて考えてしまう。
病院の手配をしたことや「弟を傷つける奴は許さない」という発言からは、彼が弟を想う偽りのない心が滲みでているのだろう。しかし、それが彼の中でどれだけの部分を占めているのか想像するに、ビジネスのために見栄よくしようとしているだけではないかと、さらに疑いが募る。
おそらく、彼を肯定的にみることはもうできないのだろう。
赤石さんの近況報告も送っていない。赤石さんの入院を知らせてくれたこともあって、受信拒否までは思いきれなかったけれど。
「どういう心境の変化?」
「気にしないでください」
ふうん、とお金の探偵はへらへらと薄ら笑いを浮かべ、わたしをからかう切り口を考えているようだった。まったく、子どもっぽい人だ。
ため息をついてコーヒーに手を伸ばしたとき、「あ!」と赤石さんが声を上げた。
「びっくりした、あやうくひっくり返すところでした」
「ああ、驚かせたね、ごめんよ。……いやね、ついでにもうひとつ謝ってもらいたいことを思い出したんだ」
なんだろう?
「遙、僕が引き留めるのを聞かずに、最後まで話を聞かなかったね?」
「ああ、征吾さんが首謀者だって言いたかったんですよね?」
わたしが赤石さんの話を遮ったとき、確か彼は「原因も大方見当が――」と言っていた。おそらく続きは、「見当がついている、征吾が裏で脅していたんだ」ということだろう。
しかし、赤石さんは首を横に振った。
「違う、違う。遙が出ていったときだよ」
「……そういえば」
赤石さんが何か言おうとしていたのを振り切っていた気がする。
「あのとき、僕は遙に警告しようとしていたんだ。遙にも身の危険があるかもしれない、と」
「えっ」
「浦上は交渉にあたって遙を退席させなかった。つまり遙についても知っている。知らない人間ならふつう追い出すからね。僕はたまたま襲われただけなのかもしれないけれど、この先も口封じに狙われる可能性があった。となれば、盗聴で僕との関係がバレていた遙も危険だった。
それなのにどうして、洋館に行くかな? 唯野が偽札を探しに来ると予想できなかったのかい? しかも、あろうことか征吾を呼び出して」
言われてみると、わたしは危険なことをしていた。
いま考えてみれば、唯野が洋館に侵入する可能性は極めて高く、少し考えればわかることだ。唯野にしてみれば、浦上が失敗して逮捕されてしまい、ビジネスも大損害を受けて後がない――自分が洋館から偽札を持ち出そうと覚悟を決めることもありそうだ。
征吾さんと話がしたいという気持ちが強すぎた。そして、彼と会うために彼の洋館を一番に指定したわたしの感覚もちょっとおかしかった。
「危険だという自覚がなかったようだね」
「あ……はい」
大きな嘆息がこぼれる。
「ま、まあ……この家もちょっと気に入ってきたので」
ああ、ダメだ。これではからかわれる。面白がられる。赤石さんの口角がぐっと角度をつけていくのが見える!
何か誤魔化すことを言おう。こういうとき、彼の単純で、自信過剰で、見栄っ張りな性格が役に立つ。
「そ、そうだ赤石さん。お金の探偵と見込んでお願いがあります。実に難しい状況に追い込まれてしまっていて」
「お、何だって? 僕はカネ専門の探偵だ、カネに関係することだったら何でも相談に乗ろう」
「ええ、実はですね――」
ステキな街のおカネの探偵 大和麻也 @maya-yamato
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