第29話 願い

「パパ、お風呂はいったら? またそのまま寝てしまうで」


 ソファに寝そべり、ハイボールを飲んでいたら、いつの間にやら眠っていた梅次に、妻が言った。


「ん、あぁ、はいはい」


 生返事をして、そのままの体勢で、今みた夢を思い返していた。とても長い夢だったように思えた。自分では5年間くらいの感覚でいたが、実際には、たった2年間の出来事であった。感受性の強い多感な時期に見た、あまりにも濃密な夢だった。

 あれは、幻、あるいは30年経つ間に、美しく脚色された妄想だったのだろうか。

 梅次は、やにわに立ち上がり、風呂へ行くかと思いきや、階段を駆けあがって、自分の部屋へ向かった。

 クローゼットを開け、中に入っているダンボールを開けた。中から取り出した、ボロボロになった紙袋には〝安里さゆり〟とマジックで書かれている。そこからスクラップブックを取り出し、パラパラとページをめくると、高校時代にスクラップしたさゆりの記事が、古い映画のように梅次の目に映し出される。これを見るのは何年振りであろうか。

 最後のページをめくると、1枚の絵葉書がファイルされていた。梅次の母、英子に宛てられた葉書で、差出人は、さゆりの姉、多恵であった。達筆な字で書かれた、英子が贈った花瓶に対しての礼状であった。英子は、その絵葉書を、梅次に渡していた。

 やはり、あれは夢ではなく、現実に起こったことだったのだ。

 その葉書の存在も忘れかけていたが、改めてそれを見た梅次の脳で、あの頃の鮮やかな記憶が想起された。

 蒼く広がる空。コバルトブルーの海。さゆりの家族とA&Wで食べたハンバーガーの味。

 梅次は、さゆりの家に電話をかけたい衝動に駆られた。30年以上経った、さゆりと彼女の家族は元気にしてるのだろうか。幸せに暮らしているのだろうか。それが知りたいと思った。しかし、それを知ってどうなる。万が一、不幸な人生を送っていたら、自分に何ができるというのだ。何もできない。知ったところで、ただの自己満足だ。今、自分にできることは、自分の家族が不自由なく暮らせるように働くだけだ。世の中、知らなくていいこともあるし、幸せを願うだけの優しさもある──そう思い直し、唐突な衝動を自ら抑えた。

 梅次は、感情や行動のコントロールができることは成長であり、大人であるということだと思った。しかし同時に、若さゆえ、コントロールが効かず、突っ走ってしまうことの素晴らしさも、懐かしく思い出していた。若さとは、そういうものだと。大切なのは、その時に、それをうまく諭してやる大人がそばにいるかどうか。梅次も、多恵や初枝、そして母・英子がうまく対処してくれたからこそ、ストーカーにならずに済み、今がある。自分が成長するにあたって、そして、自分の子育てにおいて、とても貴重な経験をした、そんな思いで、我が子たちを見守っていた。


「なぁなぁ、今度の連休、沖縄いく?」


 梅次が子ども達に尋ねると、子ども達は嬉しそうに答えた。


「行く行く、行きたい!」

「え? なにしに?」


 怪訝そうに聞く妻に、梅次は言った。


「ハンバーガー食べに」



 終

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アイドルと結婚しようとした男のはなし 美紀竹男 @mickey-monkey

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