蝉香る夏の怪

若口一ツ

第0話 相談

「この前の夜、視線を感じたんですよ」

 

 真夏の熱気を詰め込んだ部屋の中、佐藤巡は心底暑そうに、そう言った。

 長い黒髪を質素なゴムで括りあげたその首筋には、汗が伝っている。


 汗は、そのまま流れるでもなく、その場に留まるでもなく、中途半端な速度でゆったりと皮膚を舐めるように垂れていく。


 それを眺めていた谷口トマリは、無性にそれを拭いたくなった。


 おもむろに自身の髪をいらう。佐藤と比べて短い髪を持つ私でも、この暑さは耐えられない。体中に吹き出た汗は、身体の表面を濡らし、衣服に染みつき、否応にも不快な気分にしてくる。本来、汗とは身体を冷やすための機能であり、暑さを緩和する装置そのものでもあり、身体という構造体にとって必要不可欠なものであることは、勿論承知している。しかし逆説的にこの吹き出る汗が、暑さを証明しているような気がしてならなかった。汗そのものが不快感を煽るといった逆の構図が堪らなく嫌で、そして、そんな無根拠な考えをしてしまう自分自身にも腹が立った。

 

 その余計な思考は体感する温度を、さらに上げた気がする。

 

 目の前にいる佐藤は、この6畳間で機能している唯一の冷房器具である扇風機を抱きかかえ、送り出される風を一身に受け止めている。

 

 まとまった髪が風にはためく。

 邪魔そうだな、と谷口は思った。

 

 佐藤は。


「視線です」

 と、顔だけを谷口に向け、再度言った。

 

 谷口は返答に苦した。

 佐藤が扇風機を独占しているからではない。

 

 それは日頃、佐藤が呟く冗談交じりのいつもの話題であるという一つの判断と、もしかしたら真剣な相談である可能性も捨てきれないという、二者択一の選択であったからである。  

 

 それと同時に、暑さが、そのどちらかを選ぶという行為をまた億劫にさせた。


「なにそれ怖い、家族の視線とかじゃなくて?」

 

 だから、当たり障りのないことを谷口は言ってみた。


「それは違いますね、ほらわたくし今一人暮らしじゃないですか、ここに家族は居ないんですよ。だからおかしいなあと思ってるんですよね」

 

 佐藤は辺りを見回した。


「下宿なんですよ、ここは」

 そう言った後、困ったように肩をすくめた。

 

 その言葉を受け、谷口は過去を回想する。

 

 思い出された映像には、一戸建ての家の中で家族と会話する佐藤の姿が映し出されていた。その後、映像は早送りのように流れ、一人暮らしの佐藤の生活が静止画のように浮かんで来る。同時に記憶していた日付もカレンダーのようにめくれ上がり、ある時点で停止する。その画には三月十日と表記されていた。それは京都大学の合格発表と共に佐藤が下宿を決定した最初の日だろうと、自身の記憶を予測する。


「えっ普通に怖いやつやん」

 谷口は気付いたように声を張る。

 

 視線は家族のものではないと理解すると共に、この話題は真剣な方だという、粗末で簡単な答えに、谷口は半ば強制的に行き当たる。

 

 その導き出された回答を目の当たりにした谷口は。

 

 どこか嫌な気持ちになった。

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