第2話 視線

「で、視線の元はなんやろな」


 谷口はペンを鼻先で咥え、ぼやっとした意識の中、興味本意で問うてみた。


「先程言ったじゃないですか。わからないから怖いって」


 その話はそれで終わりです。と言いながら佐藤は携帯に何かを打ち込んでいる。


「いや、だからこそ、知りたいやん? 未知の事象は余すとこなく知識として還元する。それが私の本懐よ」


「初めて聞きましたよそれ」


「初めて言ったもん」


 日は、ようやく沈みかけていた。


「わたくしは『わからない恐怖』はそのままで良いタイプの人間なんです。だからこの話はここでおしまいです」


「そんなんやから、変人なんて呼ばれるんやで」


「それはあんまりでしょう」

 佐藤は困ったような笑顔を作った。


「普通は、わからん事あったら知りたいってなるやろ。私がそうやし、多分周りの凡人もそう思う人が大半やと思うけど」


 この質問は何度か繰り返している。その度に、


「いいんです。わたくしはわたくし。トマリちゃんはトマリちゃん。他人は他人です。あくまで介入なく、わたくしは過ごしているのです。それに普通を定義し出すと堂々巡りになりますよ」


 と、躱される。


「加えて、他人に対して自分の普通を押しつけるのは、あなたが辛くなるだけです」


「まあ、そうやろな、その通りやと思う。でも私はやっぱり気になる。なんで視線を感じるのか、何故夜眠れなくなったのか、それに対する何かしらのタネや仕掛け、トリックはあるのか」


 蝉はまだ鳴いている。


「視線とは、なんなのでしょうね」


 佐藤は窓を見つめてそう言った。


「視線かあ。言われてみれば難しいな、視線って物理的なものではないやろ、それも感覚的なレベルで言語として使っているだけで、多分実際に他人からの目線なんてものは感じないはずやし」


「でもトマリちゃんも感じたことあるはずですよ。視線」


 誰かに見られているという感覚は谷口自身にも身に覚えがあった。


「口語的な問題になるのですけれども、視線はやはり感じるものなんですね。だから、これは視線を向ける側の問題では無く、視線を受け取る側の問題になるんです」


「視線っていう感覚は、そう感じる自分だけの問題ってこと」


「そうなります」


「でも、相手に強くずっと見られていたからこそ、初めて感じ、気付いた視線もこの世にはあると思うで」


「それもまた否です。人間というのは思っているより賢くはないのですよ、賢く振る舞ってそれらしく見せかけているだけで、つまり『相手に見られたから気付いた視線』というのも自身で把握していない無意識レベルでの植え付けられた情報を元に作り上げられた、所謂刷り込みなんですね。だって気付かなければそれは無かったことになるのですから。まず、見られると視線を感じるという幼い頃から培われた固定概念と先入観が自身の中にあって、初めて『視線を感じた、つまり見られた』という思考が成り立ちます。その刷り込まれた考え方が前提にあってこそ、『私が相手に気付いたのは、相手が視線を向けたからだ』という発想になるのであり、それらの考え方を持たない、幼児等は視線を感じないのですね。思い返してみてください。自分自身気付かない中、相手が強く視線を向けていたケースはこの世に大量にあるはずですよ。それを考えると、視線を感じるという感覚や体験は全て嘘ということになるのですよ。けれどもこの世には視線という紛らわしい言葉が社会の中に散在していますし、その体験は往々にして存在しています。それもそのはずで、視線は存在しないものではなく、受け取る側が勝手に感じるものだからなんです」


「全ては、自分がたまたまそう思っただけで、視線は元々感じていないってことなん」


 佐藤は首を振った。


「いいえ、感じていない訳では無く、感じたように『思った』こと。それが視線の正体です。それに他人の視線を全て感じるといった知覚的能力が仮に人間に備わっていたとすれば、まともな日常生活なんか送れないはずなんですよ。外に出ると常に誰かに見られている状態になるわけですから、それは」


 耐えられないでしょう。


 と言い、佐藤は谷口の目を見つめた。

 とっさに目をそらす。


「ほら、人間はたった一人の視線すら受け取りがたいものなんです。視線は本能的に忌避すべきもので、自然の中で動物同士、目が合うということはつまり闘争と喧嘩の開始を意味しますから。もちろん私たち人間は目が合っただけで殴り合ったりはしないわけですが、しかしあまり良い気持ちにはならないことが多いのもまた事実です。それは私たちの中にほんの微かに残った野生の本能が経験的に無駄な怪我を避けようとするからなんですね。これはまあ視線そのものに関係はありませんが。そうですね」


 少し試してみましょうか。と言い、佐藤は谷口に指さした。


「トマリちゃん、今から私が良いと言うまで目を瞑ってください」


「いいけど、何するの」


「今から、トマリちゃんのことを私が見つめてみます。それで視線を感じるか否かの、実験みたいなものです」


「成る程、わかったわ」

 そう言い、谷口は目を閉じる。


 照明の光と窓から指す太陽の鈍い光が薄い瞼を貫通し、

 包み込まれた目に淡い暗闇を作り出す。

 今は何も見えてはいない。


 しかし、こめかみに、何か違和感を覚えた。

 集中するような、萎縮するような、居心地の悪い、なにか分らない、

 そんな感覚が目と目の間に焦点を当てて、刺しているようだった。


 どうにも、これが、視線なのだと思ってしまいそうになる。

 先程の佐藤の言葉を借りるならば、受け取る側の問題だと言うことになるが。

 やはり、視線のように思ってしまう。


「いいですよ」


 佐藤の声を聞き、ゆっくりと目を開ける。

 きつい光が目に飛び込み、ぼやけた眼光に風景が映し出される。

 その風景の中に、後ろを向いた佐藤の姿が映写されていた。


「これが、視線というやつです。わたくしはトマリちゃんのことをじっと見ていたわけでは無いんですよ。それでも何か感じましたか」


 振り返った佐藤は意地悪そうに、そう言った。


「なるほどなあ、これが視線か。まあ勘違いって事はわかったわ」


「いいえ、勘違いではありません。確かに目は向けてませんが、気持ちはトマリちゃんに向けていましたよ。それこそ一心に」


「それは、私が巡の心を感じていたってこと」


「それもいいえです。心なんてものは誰にも感じられず理解出来ないものなんですよ。心が通うなんて言葉は大嘘です。心が通ったように思い込んでいるだけなんですね。でも、この思い込みが大事で、先程の視線も、トマリちゃんの中で、私が視線を向けていたと『思う』ことが、トマリちゃんに視線を感じさせてしまった原因です。そして、わたくしの中では視線を向けていないことが真実になりますが、トマリちゃんの中ではわたくしが視線を向けたことこそが真実になりうるんです。世界は見る者感じる者の数だけ存在し、真実もまた同じ数だけ存在します。真実はいつも一つではなく、真実はそれぞれの人の中に一つずつあるものであり。視線は物理摂理の中にはなく、己の中にあるもの。ということになります」


 少し講釈が過ぎましたかね。と言い佐藤は、反省したように笑った。


「視線は他者にあらず、自己の中で生まれるもの。ってことか。そうなるとつまり最初の話題の視線は、巡の中で生まれたことになるな」


「ええ、そうなります。だからこそ、外部の存在はあまり関係ないのですね。ストーカーも幽霊もそう思ったことの理由にされるだけの、ただの説明事項になっちゃうわけです」


「幽霊もストーカーも巡の中では一緒か」


 そんな谷口の言葉を受けて、佐藤は微笑みながら立ち上がり、部屋にある窓の外を覗いた。

 その窓から気まぐれに入ってくる生ぬるい風が谷口を撫でる。

 鼻孔が刺激されひくひくと蠢く。

 土とコンクリートの香りが混ざり合った、

 むせ返るような空気が部屋に充満する。


 なぞるように外を見ると、夕暮れが終わりかけていた。

 太陽は傾き、地平線のその先に身を隠しているのだろう。


 蝉が鳴いてる。

 昼とは違う鳴き声を発して沢山、鳴いていた。

 窓の外の林は、相変わらず暗い。

 木に止まっていたはずの、あの蝉はもう見えなかった。

 帰ったのだろう、とそう思ってみた。

 帰る場所などあるのだろうか。

 ないのだろう。


 どこかでカラスが、喧しく忙しなく、誰かを呼ぶように鳴いている。


 何故か。


 嫌な気持ちになった。


「今は彼岸と此岸が繋がる時間、逢魔時です。かの鳥山石燕なんかは、自身の著書である『今昔画図続百鬼・雨』の冒頭を、逢魔時から書き始めています。『黄昏をいふ。百魅の生ずる時なり』です。つまり、ここからは妖怪変化、あちら側の世界の住人が跋扈し始める時間、ということです」


 ——妖怪が見れるかもしれません。

   薄暗闇の世界が広がる窓の外を指さし。

     黄昏の瘴気を吸い込んだ谷口に、佐藤はそう呟いた。

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