第1話 予感

 蝉の声が絶え間なく。

 かと思えば時折通る車の音に交じり断続的に聞こえてくる。


 猛暑日を記録した八月二日。

 

 佐藤の下宿先で二人協力し、学校の課題を終わらせる。

 

 谷口はそんな大義名分でこの佐藤の家に呼び出された。否、学力は佐藤の方が断然に上であるし、谷口自身が佐藤に対して述べることが出来る意見というのも、精々大学で専攻しているファッションやメイクのあれこれ位であり、この場では、実家と変わりない雰囲気であるこの場ではほぼ不必要な技術であるから、おそらくは課題を手伝わされる話ではなく、佐藤の会話相手になってくれという暗喩だと、谷口は予想し、それに納得し、自身の課題を持参した上で佐藤の下宿先に訪れた。

 

 到着したのは、昼前の十一時頃であった。


「暑い」

 性根尽きた呟きが佐藤の口から漏れる。

 

 谷口は汗を拭う。

 言われなくとも知っている、とは口には出さない。

 暑いのは事実なのだ。

 そこは変えられようがない。

 熱気がささくれだった精神を逆撫でしているようで、

 些細なことにまで気がたってしまう。

 そんな自分が嫌になった。

 

 どうにか落ち着こうと、部屋を物色する。

 座卓の上には日頃の怠慢の蓄積が、課題として積まれていた。

 

 ふと、部屋の隅にあるクーラーが目に入る。

 

 訳ありで動いていないのだと、先程、佐藤が言っていたことを思い出した。夏を楽に乗り超える為に開発されたはずの冷気を吐き出す現代利器は、その機能を十二分に発揮すること無く、ただの置物と化している。もはや飾りである。人の生活を快適にするはずの機械は、今や壁にかかるなんでもない白いオブジェクトに成り下がっていた。

 

 寧ろ暑くなったな、と谷口は思った。


「ごめんなさいトマリちゃん。こんな部屋に呼び出してしまって」

 申し訳なさそうに、頭を垂れながら佐藤はそう言った。

 

 意識の範囲外から来た、予想外の言葉に谷口は思考を中断する。

 

 そして何故か、心を押しつぶすような鈍い痛みが同時に湧いた。


「ううん、平気やから。大丈夫」

 思ってもいなかった言葉が、反射的に口から出る。

 

 そう言った直後、先程までの鬱憤が、嘘のようにどこかへ消えていたことに気が付いた。後に残ったのは、佐藤に対する、身勝手な愚痴と文句を言っていた自分の姿だけであった。

 

 それを、胸の奥にしまい込む。

 人間なんてそんなもんなのだろうと、諦観とも取れる考えを心中に満たす。

 

 佐藤に大丈夫だと再度告げ、何気なく、開け放たれた窓を見る。

 

 外を見れば少しは涼しくなる気がした。

 ミンミンと蝉の声が聞こえる。

 種類は、分らない。

 暑さが、蝉が鳴く毎に増している気がする。

 そんな道理はないのだけれど。

 

 ぼんやり眺めた窓の外は、ただ鬱蒼とした雑木林が広がっているだけで、風通しの良さも、何も無いように思えた。

 

 目線の直ぐそばにある木に止まった蝉が、小刻みに羽を動かし、鳴いている。

 アブラゼミなのだろうと、思ってみた。

 多分違うのだろう。


「さっきの話なんですけど、続き話してもいいですかね」

 佐藤が口を開いたのは、昼を過ぎた午後1時頃であった。


「ええよ。怖い話やろうし、暑さ紛れるわ」

 谷口はそう言い、手を振った。

 

 それを聞いた佐藤は神妙な顔をして、

 

 俗に言う、怖い話を語り始めた。


「あれは多分三日くらい前ですかね。そう、ちょうどわたくしが食中毒から復帰したあたりだったと思います。久しぶりに美味しいご飯をちゃんと食べて、よし、寝ようと思ったその夜ですよ。背中がチクチクするんですね、こうまさに誰かに見られているような気がして、視線、というんでしょうか。まぁそんなものは気の所為だと思って寝ようとするんですけど、やはり気になって寝られない。結局その日は疲れて寝てしまうまで、ずっとその違和感を覚えていたんですね。違和感というよりかは、やはり視線としか言い表せない気がしますけど。そんなことがここ最近ずっと続いているんです」


 どうですかね。

 と机に突っ伏した佐藤は、顔だけをこちらに向け、そう言った。


「オチがないと思った、かな」

 谷口は正直な感想を述べた。


「オチはありません」

 佐藤は困った顔をした。

 

 部屋の気温は先程より増して、暑くなっている。


「オチはありませんが、怖い話としては成立しています」


「怖い話よりかは、それ、ただの気持ち悪い話にならない? 怖いよりも不気味やと思うわ。ずっと見られてるんやろ。それならお化けとか幽霊が出たって話のほうがマシとちゃう」


「この世にお化けなんてものは存在しませんが、そうですね。確かにそれが幽霊だとすると、ちょっとは楽しい話になるでしょう。ただ、残念なことに、この世に幽霊や妖怪なんてものはいないのですよ」


「いないの」


「いません。いないから怖いのです。それに、いる・いないの二元論でそれらを語るのは野暮ですよトマリちゃん」


「うーん、じゃあストーカーとか」


「わたくしに、付け纏われる理由はありません」


「それは被害者の言い分で、加害者、付け纏う側にとってそれは関係ないやろ。馬鹿丁寧に止めてくださいって頼んで止めるストーカーとかおらんやろうし、巡がどう思おうと、ストーカーには一切関係ないと思うで」


「その通りです。しかし、関係はありませんが。同じです」


「同じ」


「はい、同じです。もし仮にわたくしをストーカーする方がいたとしても、それは私にとってもなんら関係の無いことなんです。だって実際にいるわけではないのですから、そんなものは。それならば」

 幽霊と同じでしょうと言い、佐藤は笑った。


「いないのならば幽霊となんら変わりないのですよ。幽霊や妖怪のように、いないものをいるとする前提で話すという暗黙の了解がそこにあるならば、納得はしましょうが、ストーカーにそれは残念ながら当てはまりません」


「いやでも、それはもしも話やろ。もしもストーカーがいなかったら、っていう前提条件があるからこそじゃないの」


「その話も、もしもの話ではありませんか。もしもいたならば、嫌だ。と思ってしまうわけでしょう」


「そうやけどさ、嫌やんか。もしもいたとしたら」


「そうですね、そこの窓の外にいたとするならば、それほどまでにゾッとする話はないでしょう」

 佐藤は振り向き、窓を指さす。


 外には暗い林が広がっていた。


「でもそれも、幽霊と同じなんですね。よくよく考えると、そのどちらも今のところ同じ土俵に立っているんですよ。いたとしたら嫌だ、と言う思いはストーカーにも幽霊にも共通しているんですね。このいたとしたら、という仮定が重要で、双方ともいないことを前提にするから怖いと思える媒体なんです」


「いや、幽霊は物理的にいないのは分るけど、ストーカーとか変質者は現実におるやろ」


「それも同じです。ストーカーは確かに現実にいます。それは事実です。しかし、行為としてストーキングを行われていないからこそ、『怖い』と思えるのですよ。今この場にはいないからこそ、目の前にいるわけでも、部屋の外にいるわけでもない。その状況でないと怖いとは思えません。それはもはや幽霊と同じなんです。いないものをいると仮定して、想像し、その先を予感して、人は恐怖する」


 ——予感こそが恐怖です。


 佐藤はそう断言した。


「わからない事象、理解出来ない事柄、未知の存在のその先を、記憶をもとに想像し予感する。これこそが恐怖です」


「わからんなあ。恐怖するのは予感するってこと。というか、そもそも予感ってなんなん。予知とか予測とは違うの」


「違います。予知は今の時点ではわからない未来の事柄を超常的に知ることです。予め知る。それが予知です。これは絶対に当たるのですね。当たらなければ予知とは呼ばれないのです。だからこそ必ず当たる。そして予測はその逆で、今の時点までに培われた経験則や情報を元に未来の事柄を知る。予め測っておく。それが予測です。天気予報なんかはまさに予測の代表例で、そしてこれは往々にして外れます。外れても良いものなんですね。予感はまた違ってきます。なんとはなしに未来の事柄を感じる。そんな曖昧なものが予感です。ですから、私が語った最初の話は、予感し恐怖する。そんなものなんですね」


「予感とか予測の話は分ったけど、やっぱり恐怖イコール予感の図は納得できひんなあ。それに気持ち悪いのに変わりないやろ」

 谷口は頭を抱える。


「気持ち悪いというのも、その嫌になる、嫌悪を抱く理由を予感し、恐怖するものなんですよ。予感は人が、人だけが抱くものです。それにわからないこと自体は怖くないのです。何故わからないのかという理由を考え予感するから怖くなるのです。例えば、そうですね。トマリちゃん、昔、家の置物を怖がってましたよね」


「ああ、あのカエルの陶器な」

 谷口は、家の玄関に置いてあったそれを思い出す。


「何故、怖いと思ったのですか」


「そりゃ、不気味やからかな。ほら今にも動き出しそうやったし」


「でも陶器ですから動きませんよ。動くはずはありません」


「でも、動くかもって思うやん」


「動くと怖いのですか? 私はかわいいと思いますよ。カエルが動いたら」

 佐藤は指を使い、跳ねるカエルを再現する。


「いやだって、何かしてくるかもしれんやん。こう飛びかかってきたり、襲ってきたり」


「でもそれはあり得ないことでしょう。子供のトマリちゃんでも分っていたはずなんです。無機物が、置物が、陶器が動くはずはないって」

 佐藤は口角を上げ、ほくそ笑んだ。


「これこそが、動くかもと思うことが、予感です」


 もう一つ例を挙げましょう。と言い佐藤は居住まいを正した。


「例えばトマリちゃんが誰かに殴られそうだとします、殴られる瞬間ですね。いや、一例ですよ他意はないです。その時トマリちゃんはどう思いますか。どんな感情を想起しますか」


「うーん。それは多分、怖い、かな」


 怖いと思う。


「ですよね。おそらく多くの人間は『怖い』という感情を想起することでしょう。だって痛いですからね、殴られると」

 佐藤は自分の頬に拳を当てた。


「それで、その後すぐに殴られたとしましょう。この時トマリちゃんはどう思いますか」


「痛い、だと思う」


「そうですね、この時点だと『痛い』が先行して表の感情、体の反射として神経を通し脳に、痛覚として現れると思います。で、ここからが肝心で、『殴られている時』怖いと思いますか」


「そりゃ怖い、いや」

 いや、違うのだろう。


 感情は。


は、痛い、しか思わないと思う」

 

 谷口は自分が殴られているところを想像し、そう言った。


「そうですね、殴られている瞬間は『怖い』を上回り『痛い』が感情の上層に出るのだと思います。そして、これが肝です。仮に相手がもう一度手を振り上げたとします。その時トマリちゃんはおそらく『痛い』よりも」


「『怖い』と思うんやろな。ああ、なるほどこれが」


「えぇ、つまり、全ての恐怖は予感によるものなんですね。相手が痛いこと、ひどいこと、害のある行為をするかもしれないと思うから、恐怖し、『怖い』と思うのです。仮に相手に手を出されなかった場合は『怖かった』になるんですね。『怖い』とはならないのです。殴られる瞬間の『死ぬかもしれない』という原初的な思考のそれも、それ自体は今起きる事ではないのです。だって死ねば怖いともなんとも思いませんから。殴られている時は次があることを予感して恐怖する。だからこそ」


「恐怖は予感なのか」


「そういうことです。先の例を挙げるならば、もし、ストーカーがいたとして、その行為が段々過激になっていき、最終的に部屋に入られ、何かされるかもしれない。そう思うから怖くなるのです。今は何もない、何も起きていない。未知の先に恐怖するのは人間だけです」


「だからこそ、嫌な話じゃなく怖い話ってことか」


「そうなります。かなり回りくどいことになってしまいましたが」

 そう言い、佐藤はすっと顔を逸らした。


 長広舌な説明はいつものことで。回り回って、元の話題に戻る。それが佐藤の話しぶりだということは谷口も随分昔から何度も体験していた。


 それが面白く、谷口はわざと話題を広げるように返事していたのも事実である。それを知ってか知らずか、佐藤も熱に浮かされたように会話を続けていたように思えた。


 部屋は、少し涼しくなっていた。

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