第3話 覗く
「レトルトって」
太陽が完全に沈み、月明かりの中と部屋の照明が照らす中、谷口は座卓に出された皿を見て、思わずそう呟いた。
積み上がっていた課題は半分ほど片付けられ、今は強制的に、床の上に放棄されている。
先程までガスコンロが稼働していたようで、その残り香として、少し焦げ臭いガスの燃焼された匂いが廊下に漂っていた。
「仕方ないじゃないですか。わたくしに料理スキルを求めないでください」
谷口の零れた本心を耳ざとく拾った佐藤は、ぞんざいに自身の皿を置いた。
「彼氏に甘えてるから、そうなるんとちゃう」
畳み掛けるように、そう言う。
それを聞いた佐藤は、心底嫌な顔をした。
佐藤がこの顔をするときは決まって自分の都合の悪い時であり、更に言うならば、自身は自覚したくない嫌な部分を指摘された場合のみ、この苦虫を噛み潰し、中から出てきた苦汁を啜ったような表情になる。
これが面白く、時たまからかってしまう。
半分冗談、半分本心の台詞である。
「それは関係ないでしょう。一切甘えてなどいませんし、更に言うなら、彼に世話を焼いてくれなんて一言も言っていません。それこそ勝手に世話を焼くのだから、それに甘んじているだけです」
わたくしに非はないでしょう、と言い佐藤はカレーを口に運んだ。
ルックスは良いのに、こんな理屈、屁理屈、あること、ないこと関係なくこね回すのが三度の飯より大好きな変人という属性がそれを邪魔している人間にも、恋人は出来るらしい。
世の中そんなもんだろう、と佐藤は諦観した。
「今、何かとてつもなく失礼なこと思ってませんでした」
「いや、別に」
悟られる前に、急いでカレーを頬張り、心情を誤魔化す。
佐藤をからかうのは面白いが、しつこくしてしまうと後が面倒である。
かつての苦い経験を元に学習した谷口の持論である。
もう二度と、社会的に真綿で首を絞められるような思いはしたくない。
小学生時代の出来事を思い出し、背筋がぞぞ毛立つ。
少し、涼しくなったような気がした。
否、こんなことで暑さが緩和されて欲しくはないのだが。
携帯に表示されている気温は二十八度であった。
十分暑い。
ふと、先程、佐藤が長広舌を振るっていた時、
誰かにメールを送っていたことを思い出す。
「巡、さっきの」
「彼氏宛ですよ。気になりますか」
これはまずい、と谷口は自信の危機を察した。
「いや、ううん。大丈夫」
慌てて取り繕う。心を読むのかこいつ、なんて台詞は絶対に吐けない。佐藤が短文で返答し、そこで会話を区切ろうとする行動のそれは、怒りという感情にメーターを用いたとしたならば、臨界点の二歩手前である。迂闊にあと二歩進めばメルトダウンである。そうなれば谷口に未来はない、残されるのは草木も生えない荒野である。それは比喩でもあり、しかし比喩ではないのだ。因みに一歩手前は、語彙が無くなる。かつて体験した行為は、その一切話さなくなった状態であった。
段階があるのだ。
それが今、かなりの上位に来ていることは明白であった。
話を逸らすのが無難だろう。それが身を守ることに繋がると谷口はそう思った。
「まあ、頼み事をしていたんですよ。今の今まで、トマリちゃんの部屋に少しばかり寄って貰っていたんです」
谷口が何かを言う前に佐藤が携帯を確認し、口を開いた。
「なにそれ、聞いてないけど」
「言っていないですから」
そう言い、盛られた皿の半分ほどを平らげる。
話題を広げた、ということは、限りなく機嫌が悪いという程ではないらしい。
少し、胸をなで下ろす。
しかし、
「なんでまた、自分の部屋に松前君が来るの。用事があるならここに呼べば良かったのに」
当然の疑問を投げかける。
佐藤は、少し考えた後、
「トマリちゃん自身に用があったわけで無く、トマリちゃんを取り巻く環境に用があったわけで、ここに、このわたくしの部屋に、その求める背景と環境はありませんから」
呼んでも仕方がないんです、と言った。
「それは、どういう」
「ねえ、トマリちゃん。トマリちゃんは妖怪ってどういうものかを知っていますか」
言葉を無理矢理遮り、佐藤は谷口にそう尋ねてきた。
「先程の黄昏の話に戻るのですけれど、トマリちゃんは妖怪という装置をどう思っていますか。楽しいものですか。不気味なものですか。それとも恐怖の対象ですか」
「怖いもの、かな。いや実際は良く分らんわ。でも怪談とかに取り上げられてるし、恐怖の対象なんじゃないかな。というより、その言い分やと妖怪はいるみたいに聞こえるけど」
谷口はプラスチックのスプーンを置き、頭をひねる。
「先程も言っていたように、妖怪なんてものはこの世にいないのですよ。幽霊も狐火も天狗も河童もそんなものはいません。しかしながら、それを『いるもの』として楽しむのが妖怪なんです。よく言われるのが河童は『ゆるキャラ』の原点だという説ですね。トマリちゃんくまモンとか知ってますか」
「そら知ってるよ。熊本の宣伝とかようテレビでやってるし」
「あれの中に、実は人がいることも、知っていますか」
「馬鹿にしてるやろ、子供じゃないねんから中に人がいることぐらい知ってるわ」
それを聞いた佐藤は、微笑んだ。
「同じなんですよ、その思考と」
「何が」
「いいですか。そのゆるキャラの中に人が潜んでいるという常識は存在しています。これは絶対です。中に人がいないそれは今の技術では、ほぼありえません。しかしです、人が中にいることを誰も触れないのは何故ですか。何故、テレビのキャスターや、世間の皆様はそこに触れないのでしょうか」
「いや、それは中に人がいることはお約束やし、言ってしまえば夢がなくなる。それに、何より言うのは野暮ってもんやろ」
「その通りです。妖怪はそのお約束なんです。そして追求することは野暮になるんですよ」
そう言い佐藤は一冊の本を取り出した。
「この竹原春泉齋が集め描いた『桃山人夜話』に出てくる化け物、妖怪には、そのお約束が適用されています。いいえ、この本に登場する妖怪だけではありません。全ての妖怪にそれは当てはまるのです。いいですか、妖怪はいなくて当たり前なんですよ。そしてそのお約束を守った上で楽しむのは妖怪なんです。だからこそいる・いないで妖怪を語るのは野暮なんです。彼らはいなくて当たり前なのですから、そこは目を瞑って楽しみましょう。と言うのがかつての、江戸の妖怪像だったわけですね」
「けれども今は、って話か」
「そうです。別にそれが悪いこととは言いませんが、明治期に活躍していた柳田國男なんかも『妖怪談義』で肯定・否定の二元論でそれらを語ることを憂いていたりします。そして今になってその思考は、確固たる位置を得つつある、のかもしれません」
佐藤はそう言い、本を元の位置に直した。
「妖怪は怖いもの、という思考もその煽りを受けているせいなのかも知れないですね。怖くないと思う者は妖怪を鼻で笑い、怖いと感じる者は妖怪はいると信じ怯える。現代での妖怪の立ち位置はおおむね恐怖を煽るものとして機能してしまっているんです。けれども、二百年前の江戸時代ではそうではなかったのです。妖怪は妖怪という名称ではなかった頃、俗に『化け物』と呼ばれていた時、鳥山石燕や四代目鶴屋南北が生きていた時代では、妖怪、いいえ『化け物』達は娯楽の対象だったのです。黄表紙や絵双紙に描かれる、人々が楽しむ為の娯楽装置である面が強かったのです」
「妖怪は怖いものではない、ということになるんか」
「怖いように使えば怪談になってしまうんです。逆に怖くないように使えば面白おかしい話になるということです。例えば昨日の夜、誰もいないのに視線を感じてさ、怖かったよね。とここで終われば怪談の一種になりますが、それは「屏風覗」のせいだよ。と付け加えると一気にそれがおかしな話になってくるわけです。妖怪は」
理解出来ない物事をわかりやすくするための文化装置なんですよ。
そう言い、佐藤ははにかんだ。
「理解出来ないことが減ってしまった今その妖怪達は行き場をなくして、怖い話、いわゆる怪談に使われるようになったんです。それにもし妖怪を怖く思ったのなら」
退治してしまえばいいんです。
「例を挙げましょう。ある男性が村で一生懸命働いています。それはそれは寝る暇もなく只ひたすらに、一生懸命働いています。それでも実りは少なく、終いには仲間ににすら馬鹿にされてしまうんです。心身共に辟易してしまった男は、自身の異変に気付きます。怒鳴られ叱咤されている時に体中が痒くなってしまうのです。もう、どうしようもなく痒くなってしまう。男はそれが我慢できず、ついには仕事を辞めてしまいました。それでも、怒られていないのにも関わらず、身体が痒くなってしまうんです。そんなある日、その痒みが耐えられなくなり川で身体を洗い流そうと思ったその日です。先客が、一人の女性がいたんです。男は慌てて身を隠し、いなくなることを覗きながらじっと待ちます。木陰に隠れながら、じっと。しばらくすると、痒みがスッとなくなっていることに気がつくんですね。それを知った男は毎晩毎晩同じ事を繰り返し、痒みを抑えるようにしてしまうんです。しかしその行為が他の村人にバレてしまい、男は『女性の裸体を覗く化け物』として殺されてしまう。という話です」
そう言うや否や、佐藤は窓の方に向かっていった。
反射的に谷口は目で追う。
「聞いていましたか。いえ、聞こえなくてもいいです。後、一分で警察がやってきます。それまでに自身の身の振り方、あり方をどうするか決定してください。あなたのしたことは到底許されるべきものではありません。しかし選択する余地はある。道は二つに一つです。大人しく自分から投降するか、今持ってるメモの場所に行くか」
——後は貴方次第です。
窓の奥の雑木林に向かってそう言い。
佐藤は自身の来ていたTシャツを脱ぎ去ると、
窓の外に放り投げた。
汗を吸った服は。
白い服は。
暗い夜に舞い。
木々の間を通り抜け。
すうっと落ちて逝く。
谷口はそれを目で追う。
白い服は。
暗闇に穿たれた。
より濃い闇の前に。
黒い外套を来た人物の双眸の前に。
音もなく落ちた。
白く剥かれた瞳の中にある黒い瞳孔が開かれる。
闇より濃い人物は。
その服を拾い上げると。
木々の奥に消えていった。
「屏風もなしに、覗く相手を間違えるな」
佐藤はそう呟くと、勢いよく窓を閉めた。
部屋には下着姿の佐藤と、呆気に取られた谷口と。
窓が出した残響の、その静寂だけが残っていた。
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