第4話 後日
二日後、佐藤の家に来た谷口はその快適さに思わずため息を吐いた。
どうやら訳ありであったクーラーが復旧したらしい。
一昨日とは違う心地よさを味わい、いつもの六畳間の座卓の前に腰を据える。
夏場の空気を散々吸いながら歩いてきた谷口にとって、六道地獄の灼熱地獄のような三十度を超える気温から安全に隔離されたこの場所は、天国に最も近い場所だと思えるほどに、極楽であった。
「天国やな」
思わず本音を漏らしてしまう。
「また面白いこと言ってますね、谷口さん」
ゆったりとした低い声がした。
座卓から向かって窓側の本棚の陰から、青年が顔を覗かせる。
こんにちは。と顔だけを見せた青年は、
松前春秋は軽く会釈をした。
「あの世はこの世にしかありませんから、それはそうでしょうね」
間を割るように佐藤はそう言い、麦茶を三杯分座卓に並べる。
「どうしました、トマリちゃん。ここは極楽ではなかったのですか。そんな目を剥いて大丈夫ですか」
佐藤は覗きこむように谷口を見て、呆れた顔でそう言った。
「いやいや、松前君来るなら先に言っててや。ほんま吃驚したわ」
「すみません、佐藤にそう連絡しておけと言ったんですけれど」
松前は心底申し訳なさそうにしながら佐藤を横目で見る。
「わたくしのせいにしないでください。ちゃんと話を聞かなかったトマリちゃんにも責任はあるんですから。それにそんな端っこの陰から声がしたら誰だって驚きます。まるで妖怪みたいじゃないですか。屏風覗は二人もいらないですよ」
はよこっち来い。と言いたげに佐藤は松前を一睨みする。
「毎回、尻に敷かれてるくない松前君。無理に巡に付き合うことはないんやで」
谷口はこの二人が揃う度に、そう言い茶化している。まだ谷口達が中学の制服をきちんと着こなしていた時期に、馴れ初めなんて話は一生聞かせて貰えないだろうが、付き合い初めた彼らの腐れ縁は、もうすでに六年も経過している。腐れ縁としか言い表せない全くもって妙な関係性は年少の頃から続く、長年の付き合いがある谷口でも、その全貌を全く掴めなないままである。
「ほんま不思議やな、二人とも」
この台詞も不思議としか言いようのない二人に対する最大の皮肉である。
お決まりのように、毎度の如く言っている気がした。
「不思議と言えば、今日は二日前の説明を谷口さんにする段取りのはずだったような」
のっそりと本棚の陰から出てきた松前は座卓の角に腰を下ろし、促すようにそう言った。
「谷口さんには特に語るべきでしょう。諸々の説明を」
所在なさげに佐藤はコップを弄ぶ。
「ごめん、話の筋が見えへんねんけど」
「ええまあ、松前の言う通りですね。トマリちゃん良く聞いていてください。これから語る話は二週間前から二日前までにあった出来事、起った事を一から説明するという筋です」
何故か佐藤はそう言うと、苦しそうに眉を寄せた。
「僕が代わりに話しましょうか」
そんな佐藤の様子を受けて、松前が提案する。
「いいえ、ここはわたくしがきちんと話さないといけないところですから」
大丈夫です。と言い、佐藤は軽く息を整えた。
わかりました。と松前は答える。
「待って、何これ、まさか分かってないの自分だけなん」
「そうなります」
佐藤と松前の綺麗にハモった台詞が放たれる。
「単刀直入に言うと、トマリちゃんにストーカーがいたんです。いつからかは把握していませんが、わたくしが知る限り、最低でも二週間前からということは確実です。それを二日前にわたくしが勝手な判断で、相談なしに片付けてしまったという話なんです」
大筋はわかりましたか。と松前が確認を取る。
「いや、突飛すぎてなにがなにやら。つまり自分はストーカーの被害に遭っていたって話なん」
「そうなってしまいます」
「いや、全然、気付かんかったんやけど、いや、待って。それ、ほんまの事なん」
「本当です。本人に自覚がないのも、わたくしが真正面から言っていなかったのが一つの理由としてあります。加えてこの場合、被害者が自覚するのは難しいんです。この前、口うるさく言っていたでしょう。視線なんてものは本来感じないものであると。トマリちゃんも自身の口からストーキングも被害者に取ってみれば、される謂われがないのが殆どだと言っていましたから。そして、恐怖は予感であると。逆説的に予感を感じなければ、恐怖もまた感じにくいんです。だからこそ、それを知って欲しくて、迂遠で遠回しにですけれど、ずっと言っていたんですよ。暗にトマリちゃんはストーキングされていますよ、と」
「あの話は、つまり自分がストーキングされていることを伝えたかったってことなん」
谷口は自身の置かれていた所在を理解し始める。
それと共に、いや、わかるかそんなもん。と谷口は内心毒づいた。
「気持ちはわかります。しかし、これはわかってはいけないのですよ」
谷口の心を読むように佐藤は話を続けた。
「直接わかるように言ってしまえば、困るでしょうトマリちゃん。そして、おそらく相手にバレる。そうすると二週間分のお膳立てが水泡に帰してしまうんです。そうなればもう望んだ解決は出来ない。だからこそこんな遠回しな方法をとったんです」
「勿論警察に連絡する手段も考えました。それが谷口さんにとってベターであることは明白でしたから。しかし僕がストーカーをしている人物を調べていく内に色々判明してしまいまして」
「無駄にこの男が優秀なのが悪いんです」
そう言い佐藤は悪態をつく。
どうにも彼氏がいると腹の居所と態度が悪くなってしまうらしい。
「調べるって、ああそうか、松前君の仕事は探偵業やったな」
「僕の場合は真似事に近いですが、概ねそうですね。佐藤に頼まれるままっていうのが正しいです。それでまあ1つ勘違いしていたことが分かりまして、それが」
「ストーカーしていた人物の目的は、ストーキングのそれ自体ではなかったんですよ」
松前の言葉を受け継ぎ、佐藤はそう言った。
「彼もまた勘違いしていたんです」
「勘違いってどういう」
松前は佐藤をちらと見て、話を続けた。
「ストーカーは、本来覗くこと自体に興奮を覚えると、僕が勝手に思っていたんです」
「それが一つの大きな勘違いなんです。ストーカーは覗きではなく、自身が覗いている状態を求めていたんです。それが自分を救う唯一の手段だと」
そう勘違いしていたんです。
苦虫を噛み潰したような表情をした佐藤は、それを流し込むように麦茶を一気に口に入れた。
「目的は自分の姿や私生活を見たいが為ってことではないってこと」
「そうなります。だから苦心したんです。純粋な覗き魔なら即刻通報しますが、これはどうにも納得がいかない。いえ、行為自体は同じですから、決して許されるべきではないです。ですが、その後の処遇は変わって来ます」
「その後処理を、佐藤が考えた、というわけです」
「待って、その行為やらの目的の違いは買ったけど、理由がわからんし、処遇が何故変わるのかも」
「アレルギー疾患を持った病人だったんです。ストーカーの正体は。それも汗アレルギーとかいうあるのかないのかわからない代物です」
谷口の疑問を遮り、佐藤がそう言った。
「その話も、二日前にわたくしから言っていたんです。ほら覚えていませんか、妖怪の云々を長々と話していた時です。妖怪は退治できるとかなんとか言って、その例を出したでしょう。あのまんまが現実で起っていたんです」
谷口は記憶を辿る。
「ああ、あの殺された覗き男の話か」
「それです。あれは、わたくしが仮にストーカーを通報した場合の、if的な男の話なんです。物語中の死は、物理的な死ですが。現実ではあれを社会的な死と捉えてください。彼は、ストーカーは会社の環境による極度のストレスでアレルギーを発症し苦しんでいた。そして、ここからはわたくしの推論になるのですが。ストーカーは偶々見かけたトマリちゃんの姿を覗いてしまい、『汗が引いたんです』そして一瞬、発作が治まった。それを勘違いしたんだと思います、ストーカー犯は。彼は『自分は女性の姿を覗くと楽になるのだと』そしてそれが自分自身を救うのだと、そう思ってしまったんでしょう。到底まともな判断ではないことは重々承知です。しかし、精神衰弱を患っていた彼にとって、もはや何が正しくて何が間違っているのかの判断は出来なかったんですよ。その結果が」
トマリちゃん、あなたのストーキングです。
佐藤はとても厭な顔をし、そう伝えた。
「仮にわたくしがトマリちゃんを思う余り、何も考えず通報すれば名目上トマリちゃんの尊厳は救われますが、ストーカーはこの先、一生覗き魔の烙印を押されることになるでしょう。他人がそれをするなら問題はありませんでしたが、それをする立場にわたくしがいたんです。それに調べていく内にストーカーが疾患を持っている事も分かってしまった」
「だから佐藤は、僕に二日前、谷口さんの家に行って、ストーカーをここにおびき寄せるように苦心しろ、とそう言ってきたんです。それと、メモ用紙をストーカーが覗いていたポイントに置いておくようにと。あれには僕の知り合いの精神科の住所が書かれていたんです。もちろん原因はアレルギー疾患ですから専門とする科ではありません。しかし融通が利く場所と医者がそこしかなかったんです。その知り合いに『外套を着た男が来たら、知り合いに斡旋して、かつ警察に引き渡す連絡を入れておいてくれ』と、それに加えて、佐藤が導き出した推察も述べておきました」
松前は、そう言い横目で佐藤の様子を伺っている。
「ってことは、あのとき窓の外に巡が何か言ってたんって。いやまさか」
「そのまさかです。あの場所に犯人がいたんですよ。窓の直ぐ木の裏手に」
漸く、谷口は状況を理解した。
それと共に。
ゾッとした。
「二択を迫ったのは、私が通報するか、ストーカー自らその場所に行くか。そのどちからを選択させたんです。いや、選択と言うよりもほぼほぼ誘導ですね。彼にはまともな思考能力は残っていなかったようですから。わたくしの服を抱えて消えたのがその証拠です」
「彼は共に、『汗の染みついた香り』にも機敏に反応していたんです」
「だから、この暑さの中、わざわざクーラーを使わなかったんですよ」
「えっ、あれ故障じゃなかったん」
谷口は思い出し、驚いた。
「違います。故意です、わざとです。汗が出る状況を作って置きたかったんです。そうすれば、ストーカーを引き寄せる確立が上がりますから。まあ思い通りいってくれてよかったです。本当に」
「昨日の夜、僕の書いたメモにあった住所の精神科の先生から『黒い外套を着た男が来た』という一報がありまして。後はそっちの方で処理しておいてくれと、事情を説明しておいた上で、一任してきました」
「それを知って、まあ、漸く終わったなと思い。急遽二人に集まって貰ったわけですよ」
そう言い、力が抜けたように佐藤は机に突っ伏した。
よく見ると、かなり憔悴しているように思えた。
「彼女、二週間前から色々頑張ってまして、その食中毒というのも、谷口さんから離れ、ストーカーの目から逸れる言い分みたいなものでして。その諸々の疲れが今、纏めて来たんでしょう」
勝手に無理をするのが性分みたいなものですから。
そう言い、佐藤は言葉通り、満身創痍の身体を抑え無理に姿勢を正した。
「自体の収束に時間を掛けてしまい、本当に申し訳ありません。その時間、ストーカーに奪われたトマリちゃんの尊厳はわたくしには計り知れません。わたくしはある意味友達より、犯人を選んだことになります。犯人に謝罪の言葉を求めることも、もう、ほぼ叶いません。わたくしは友達と言うべき存在ではないんです。どんな言葉も、どんな態度も、きちんと受け入れます」
謝罪の言葉を言い、佐藤と松前は深く低頭した。
一間置いて、谷口は大きく深呼吸をした。
その後、ゆっくりと口を開き言葉を紡ぐ。
「まず一つ。自分に相談もなしに実行したことについては納得できひんかった。事情が分かれば、協力できるとも思ったよ。自分が巡達の足を引っ張る枷にはなりたくなかった。二つ。過ぎたことはもう良いと思う。起きた出来事も理解したし、そこについては何も言わない。犯人に対しても、それに気付かない自分の過失でもあるから、もう何も求めない。傷ついてもいない。だからそこは謝らないで欲しい。自分が被害者の立場として、巡達に言いたいことは、この二つだけ」
そう言い谷口は、
「三つ。巡はこの前妖怪はいる・いないの二元論で語れないって言ってたやろ。あれ、自分は友達は肯定・否定の二元論では語れないって意味で勝手に受け止めてた。それに視線も相手の思い次第だって。だから、簡単に、友達じゃないとか、言わんといて。それで簡単に、否定しやんといて。私は、厭なとこも、良いとこも全部含めて、ずっと、友達やと、ずっと、勝手に、思ってるから」
谷口も二人に倣い頭を下げた。
「でも、ごめん。私のために、ありがとう」
そう言った谷口の声は自分でも分かるほど震えていた。
全てはそこにある。
室内は快適な気温を保ちながら、夏の重く湿った空気を纏っている。
外部から切り離され、けれども同時に接続しているこの空間は、
この部屋は、確かにこの世に存在している。
お約束があり、触れると野暮で、それでいて不気味で、怖くて、恐ろしく、けれども少し楽しい妖怪達のように、あやふやで盤石な足場なんてものはないけれども、確かにこの世界は全て繋がり、存在している。
空高く昇った太陽は背の高い入道雲よりもっと遠い座標で追い越して、
天空より遙かに遠い宇宙から綺羅綺羅と照りつけるように窓から入り、
六畳間を、畳を、座卓を、この部屋を。
三人を隔てなく、照らして往く。
太陽光のスポットライトは時に不快だけれども決して何事も否定はせず、その熱を持つ穏和な光は全てを内包し覆い尽くさんが如く、この世界に降り注ぐ。
あの世もこの世も、妖怪も幽霊も、ストーカーも病人も、友情も絶交も、黄昏も朝焼けも、世界の全てを取り込む余地も隙間も、全部全部伴って。
夏の香りを思わせるそれは、この狭くも広くもない空間をずっと、
ずっと満たしていく。
一つの予感という垣根を越えた夏の出来事に呼応するように。
蝉の鳴き声を共に連れ。
妖怪の夏がそこに訪れていた。
蝉香る夏の怪 若口一ツ @warabegawa1
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