隣の雨音②
電車が速度を落としはじめ、乗客たちがそろそろと席を立ちはじめる。その中に俺も混じって扉の前に立った。ガタン、という縦揺れのあと、扉が左右に開いていく。
反対の路線に視線を向けると徐々に雨足が強くなっていた。ため息を重ねてタラップを上っていく。
改札口を出るとおもむろに傘を出しはじめる人たちが立ち並んでいる。中には迎えを寄越しているのであろう、携帯電話で連絡を取っているものもいる。
里絵のいうとおり、すこし時間をつぶして様子を見てみることにした。手頃な壁にもたれかかって遠目に外の様子をながめてみる。
手持ち無沙汰さを感じ、ブラウジングで暇をつぶしていると五分程度が経った。反対路線から客が降りてきたらしく、また改札手前で人が混雑してくる。
雨足は先ほどよりすこしは緩んだようだ。東側の出口に歩を向けた俺は、雨が降りかからない程度に顔をのぞかせて確認する。今のうちに駆け抜けてしまえば被害も少なそうだ。
そんな思案をしていると、不意に背後から声をかけられた。
「よかったら、傘を貸しましょうか?」
他人に傘を貸す、という珍しい申し出に思わず振り返って姿を確認した。
そこに立っていた姿はなにか見覚えのある姿。傘を持つ女性の姿を既視感が覆い、俺は驚きのあまり目を見開いた。たっぷり一〇秒ほど息を詰めてその立ち姿を眺めていた。
「……といっても、傘一本しか持ってないんだ、わたしも。それでも、よければ」
俺の懐疑的な視線をよそに、女性は照れを隠すように微笑する。
髪は後ろで結ばれて左の肩に緩やかにかかっている。雨で気温が落ちているからだろうか、薄手の白いチュニックを着て、淡いブルーのスキニーデニム。そしてなにより、耳の奥に浸透するような自然な声音が彼女の存在を告げ知らせていた。
ポンッと雨粒をはじく軽やかな音が鳴って水玉模様をあしらった傘が開かれる。彼女は傘を手に俺の脇を通り過ぎて雨の中へ躍り出る。
呆気にとられている俺の姿をくすくすと口元を隠しながらひとしきり笑うと、持っていた傘の空間を差し出しながら微笑みかけてくる。
その名前は、俺がもう二度と聞くことがないと思っていた名前。手に入れることのない時間だと思っていた、彼女の名前だった。
「はじめまして、辻愛茉音、です」
口を開いてなにを問うべきか悩む俺の姿を見かねて、愛茉音は俺を自分の傘の下に入れた。歩かない、と問いかける声が懐かしさを帯びて俺の胸に落ちていく思いをした。かつてのやりとりが思い出されるようだった。
彼女が歩を向けた方向は俺がいつも駅からの帰路に使う道だ。彼女の足並みは自然そのもので街の景観に慣れ親しんでいるようだった。
訊きたいことはたくさんあった。だが、なにを訊けばいいのかわからず、俺たちは傘を共有しながらしばらく黙って歩いていた。その雨音を背に歩く静寂は穏やかなものだった。
「試験、受かったんだって? おめでとう。すごく、うれしい」
声に反応すると彼女の視線とぶつかった。我がごとのように屈託のない表情を向けてくる。
「最初、資格のこと聞いたときもうれしかったよ。覚えててくれたんだね、わたしの言ったこと」そして懇願するような視線を向けて付け足す。「……あと、そろそろ傘持って欲しい、な」
その目線が傘を持った右手を誇示するように動いていたところで俺はようやく気がつく。差し出された傘を受け取り、左手で手に持った。彼女の背丈にあわせて多少低めに差してやる。
俺は彼女の言葉を反芻しながらようやく疑問に思っていたことを訊ねた。
「そうだよ、よく俺が試験を受けるってわかったな? 今日が発表日だって知ってたのか」
「試験のことを聞いたのは里絵ちゃんからだよ。今日のことをセッティングしてくれたのも里絵ちゃんだし。わたし、あれから里絵ちゃんからアキヒトのこと聞いてたんだ。NeDiの名前は知ってたしね」
「里絵から? あいつなにもいってなかったのに……」
「わたしが黙ってくれるように頼んだの。あの子、気遣いのできるいい子だね。ぜんぜん知らないはずのわたしのこと心配して助けてくれてたから」
彼女は俺がNeDiを操作しているところを見ていたから、里絵の名前は知っていてもおかしくはなかった。
ただし今見ている姿が、本当に過去に過ごした存在と一緒だとすればの話だが。
「そうだよ、おまえあのとき消えて……だいたい、幽霊だっただろうが」
「あー……、それ訊いちゃう、よね? やっぱり?」
当たり前だろう、と過去のやりとりとそのときの胸の痛みを思い出した。
霊体だった彼女の身体は側で掻き消えてしまい、かれこれ一年以上経過していたのだ。それが、いま実体を伴って俺のすぐ隣を歩いている。困惑しないわけがなかった。
しかし俺が堆積する疑問を抱いているあいだ、なぜか彼女は恥ずかしさに堪えるように口元を手で覆っていた。
「えーっとさ……あのときは、あれでお別れだと思ってたんだよね……わたしも」
「それがどうしてこうなったんだよ?」
「だから、ね。ほら、幽霊っていうのにもいっぱいある、じゃない?」
幽霊の種類、と聞いてもあまり意識はしないものだ。とりあえず記憶から指折り数えて並べてみる。
「怨霊、悪霊、地縛霊……あんまり思いつかないな。それが?」
「ほら、その中に生き霊って、あったじゃない。だから、死んでなかったなんて、自分でも思いもよらなかったわけで……」
「じゃあおまえ、幽体離脱みたいなものだったって、いいたいのか?」
こくり、と黙って首を下ろす動作。それでこうやって悶えているわけか、と納得した。
たしかにあれだけ演出しておいてじつは死んでませんでした、というとこみ上げてくるものもあるかもしれない。自分でもまったく予想していない結末だったのだろう。
俺は恥ずかしさから頬を真っ赤に染めている彼女をひとしきり笑ってやった。むくれた顔の愛茉音は罵る言葉を浴びせてくるが、表情の奥からは本当に機嫌を悪くした様子はなかった。
彼女の雑言も尽きた頃、愛茉音は俺が気になっていた経緯を訥々と語りはじめた。
「最初気がついたら病院で横たわってたんだよね。天国って現代的だなぁ、ってぼんやり思ったくらい実感なかった。でも、隣でお母さんが目を閉じてて、すごく久しぶりに会えたことに涙が出てきたの。頬を拭ったらちゃんと身体があって、またそれで泣いちゃって止まらなかった」
俺たちは横断歩道の手前で足を止める。しぶきをあげながら車が行き交うのを見過ごす。長く足止めを食らうことで愛茉音がよく文句を言っていた道路だ。
「飛び降りたときの怪我はうまく木がクッションになってくれたみたいだけど。ありきたりすぎて笑っちゃうよね。でも、病院に運ばれてからは怪我が治ってからも、ずっと寝てたみたい。あとから聞くと心因性のものだったって。起きてもいいことないと思ってたから、ずっと寝ていたかったんだろうって。あ、青、青」
車が停止し信号は青色に変わる。隣の急かす声に再び歩みを再開する。
「それからしばらくはリハビリばっかだったねぇ。ずっと寝てたからすっかりなまっちゃって。でもちゃんと身体が動いてくれる、って思ったらすっごく楽しかった。そう! 学校は留年しちゃったんだよ、もう、恥ずかしいったら……」
悔しそうに顔を歪める彼女の顔を見て俺は吹き出した。どうも彼女の優先順位はよくわからない。これにも笑い事じゃない、となじられたが。
彼女から話を聞き終え、それでも腑に落ちない部分があったのはたしかだった。贅沢といってしまえばそれまでの、かすかな嫉妬。
「じゃあもっとはやくに連絡は取れたんだろ? おまえがいなくなってから俺一応がんばってたんだぞ?」
意地の悪い質問だった、そう思いつつもやはり口に出さずにいられなかった。こうして出会えたことだけを喜べばいいのに、俺が感じてきた喪失感を思い出すと胸を刺す痛みがあった。
だが、彼女は隣の俺に向き直ると、語調を強めて痛ましい表情で述べた。
「わたしだって……わたしだって、会いたかったよ……! すぐにでも顔を見せたかったけど、ずっと我慢してたの!」
愛茉音は左胸を押さえていた。そこにかつて失った欠片がひそめていたかのように。
「だって、がんばってるってわかったから、NeDiから里絵ちゃんに連絡を取って、いろいろと教えてもらったから。だから、邪魔はしたくないなって」
もし、愛茉音が生きているとはやくにわかったらどうだっただろう。俺はそこで安堵してしまっていて、今の俺はなかったかもしれない。なりたいものを目指したい、と希求する気持ちは生まれなかったかもしれない。
それでもすこしばかり納得のいかない気持ちはあった。身を焼くような断裂から逃れたかったのは一度や二度ではなかった。
それでも、雨のせいではない、うるませた目元が愛茉音も同じ思いを抱いて今日までを過ごしてきたのだと、言外に告げていた。
その互いの覚悟を受け入れて俺たちはここに立っている。その気持ちを蔑ろにはしたくはなかった。過去、半年にわたって時間を共有した仲だからこそ、愛茉音の気持ちが今でも伝わってきた。
「離れてても、会えなくても、ちゃんと繋がってるんだ、って思えたから」
瞳の縁に涙を揺らしながらも、そう語りかける彼女の笑顔には強い輝きが宿っていた。
「わたし、子供の頃はずっと自分の名前が好きじゃなかったんだ」
彼女は唐突に自分の名前の由来を語り出す。
話の転換に俺が首を傾げるが、黙って話を促した。
「あまね、って名の由来はね、雨音から来てるんだよ。でも子供のときって、雨って暗いイメージしかなかったから、それを聞いたときはショックだったなぁ」
「普通はいいイメージはないよな。それで、いつから雨が好きになったんだ?」
愛茉音は考え込むような仕種を見せた。
「いつだろう、わかんない。でも雨が好きになれたのはきっと、アキヒトと出会えてからだった。雨が降るたび、なにかがはじまるんじゃないかな、って期待が生まれるようになったの」
「俺たちが出会ったときもこんな雨だったよな」
「雨に縁があるのかもね、わたしたちって」
つい先ほど俺も同じ考えを抱いただけに、不思議な縁を感じてしまった。
すこしむずがゆさを感じ、俺はごまかすように告げる。
「なんか、じめじめしたきっかけだよな」
「あ、それ言わないようにしてたのに」
脳内で雨男と雨女、という語彙が浮かんだ俺は、こみ上げてきた笑いを堪える。その態度を見て愛茉音は小さく角を立てて怒った。
緩やかな時間だった。こんなにも満ち足りた心地を過ごせたのはいつぶりだろう。そうやって俺が遠くを見つめていると、彼女が傘を奪って数歩前を歩いていく。
突然秋はじめの冷たい雨を浴びる結果になった俺は、すぐに頭上から降り注いでいる雨粒によって、服が重く水浸しになっていった。
無言の抗議のあと、俺が歩を詰めようとすると、傘を回す愛茉音の悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
「ねぇ、ずっとまえ言ったこと、覚えてる?」
記憶を掘り起こそうとする思考の前に、愛茉音のわずかな不安をにじませた声が先駆ける。
「言っておきたかったことがあるって。ずっと、伝えたかったことがあるって」
身をしたたらせる俺に向けて差し出される、彼女の空間。
「何度も諦めようとしてた、夢だったんだって、思うようにしてた。でも、どうしても、諦められなかったの」
彼女は泣きそうになりながらも、それでも俺に微笑みかけてくる。
いつもそうだ。涙もろいくせしてそれでも彼女は笑顔を絶やそうとはしなかった。それに、何度救われたか、思い返せないほどだった。
「あのとき、寂しそうに笑ったアキヒトに、ずっと手を差し伸べたい、って思ったの」
「……俺もだよ」
口をついて出た言葉が、彼女との距離を縮める。俺は二度と手放したくはなかった。この、距離感を。
「誰かに助けを求めてた。それを自分でも認めたくなかった。それが、愛茉音に会ってから変わったんだ」
誰かから温かさを受けるということは、気がつけないくらいに穏やかなものだった。その気持ちは次第に育ってきて、誰かを支えたいという思いがいつしか芽生えてきた。
俺は再び愛茉音の眼前に立った。傘の陰に隠れて見上げる視線が交錯する。
「二度と誰も信じたくないと思ってたとき、アキヒトに出会って、すごく寂しそうな人だなって思った」
思い出すのははじめて彼女と会ったときのこと。
空虚さを宿す表情が表していたのは、信じることに裏切られたからだった。
「だから、最後に信じたいと思ったんだ。わたしと同じ、苦しさを抱える人を」
彼女の視線が、今、目の前にある俺を見据える。
「わたしを繋ぎ止めてくれたのは、あなたなんだよ。……ありがとう」
囁かれるようにして紡がれた言葉が雨の中でほぐれていった。
俺はそれに答える代わりに短く名前を呼んだ。
「――愛茉音」
弾かれるようにして顔を上げて、すぐに目を伏せてしまう。すこしくすぐったそうな顔をしながら。
たとえ聞こえなくても伝わる気持ちがあった。黙っていてもその時間が裏切らないとわかっていた。
降りしきる雨の中、世界から隔絶されて静寂に包まれる。それは重苦しいものではなく、通じ合えることは瞬間ではない。繋がりあうということが、片時も時間を共有しなければ得られないものではないのだ。
たったひとりで雨に打たれ、孤独の中に置き去りにあっても雨音が告げ知らせてくれる。そこに自分が立っていることを。
雨に打たれることは孤独ではない。孤立することは自分を見つめる余裕を持つことだ。いつか晴れ間が覗くその時間は決して無駄ではない。
真に孤独なのは、雨の足音すらかき消してしまう生き急ぐ気持ちなのだと、孤独を恐怖するその気持ちなのだと、雨に包まれながら俺は思う。
傘を持ったその右手を、俺は包み込むように握った。
長い時間を経てはじめて触れた彼女の手。すこし冷えた白い手のひらは滑るような感触だった。彼女の体温が染み出すように伝わってくるのを感じる。
掻き消えてしまうほどささやかな、不確かな気持ちをたぐり寄せること。
繋がりとはきっと、雨音のようなものなのだ。
覆われた右手を握り返すように、彼女の手が包み込んでくる。
これからを、祈るように。
降り注ぐ雨の中、柔らかな微笑が鮮やかな色彩をまとっている。
雨上がりに描かれる、虹のように。
隣の雨音 碧靄 @Bluemist
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