隣の雨音

隣の雨音①

 見慣れない坂道をのぼる。並木道をくぐり抜けるような景観が頭上を覆っている。枝葉には生命力を感じさせるられ、行き先と同じく若々しさに満ち満ちているようだった。

 周囲には友人たちと思わしきグループが談笑している。その笑い声の中にもどこか固さが混じった。知らずうちに仲間意識のようなものが芽生えてしまう。

 俺も今朝から気分が落ち着かずにいた。もっといえば昨晩はほとんど眠れなかった。

 いざ眠ろう、と思えば余計な結果を考えてしまい、逆に目がさえてしまう結果になっていた。脈拍がはやく、気分が落ち着かない。ここまで気が昂ぶるのは高校受験以来かもしれない。状況は似たようなものだ。


 緩やかな坂道を上がりきると先に白い壁と鉄門扉が見えてきた。開いた門扉から奥に見える、なにかを象徴するような一本の大木。その周囲にはいろいろな建物が見える。

 円筒状の屋根の上で風見鶏が回る校舎。逆に直線だけで構成されている画一的な研究センター。想像していたよりよっぽど広く多様さにあふれた空間だった。


 すでに人だかりができている場所があるようだ。遠目に見てもそびえ立つ風格を持った木の下、そこに即席の掲示板が作られていた。

 その張り紙に群がってさまざまな感情を表に出している人々。泣き、笑い、拳を上げ、そこには合否という無慈悲な結果が大口を開いて待っている。


 思い勇んでから一年以上が経過した。自分でもこの分野に興味があったというのは新鮮だった。かつて体験したこともない集中力を発揮し続けられたのには自分でも驚いたし、自分が進もうと思っていた道は知れば知るほど袋小路に迷い込もうものだった。だがそれが興味という琴線に触れて、共振していくようだった。

 そんな調子で臨んだ大学院への入試だったから出来は悪くなかった。一年かけて方向性を整えていったのも功を奏した。目標を明確化することができたからこそ孤独に打ち込んでこれたのだと思う。


 人の波をより分け、右手に持った試験表と照らし合わせて番号を探す。残暑厳しいこの時期には人の密度によって蒸し上がるような心地を味わう。

 掲示板は若い番号が左手からはじまる。順々に繰り上がっていくので、右側の最後から数えていった方が俺の番号ははやい。逸る気持ちを抑えながら自分の番号を探していく。



 大学からの帰り道、駅に向かう途中で河川がある。アスファルトで舗装された川は景観としてはどこか寂しい。川沿いの道はランニングコースとして開放されているらしく、トレーニングに励む年若い男たちが遠くを走っていく。俺は立ち止まってNeDiからメッセージを送信する。


 NeDiはこの一年、男女間の争いごとが傷害事件などに発展する事例が増えたため規制化を受けていた。

 発生した事件の中には未成年によるものも増えていたため、青少年の情操教育への妨げとなるということらしい。いつの世も政府の対策というのは、邪魔な大木は切り倒してしまおうという方向性を持つ。共生、なんて概念は持たないに違いない。

 そのこともあって一年前と比較すると近くの人とコミュニケーションを、という理念には必ずしも結びつかなくなった。検索する対象を他府県も含めてなるべく遠くの情報も拾うようになった。

 そうしてNeDiでは一時に流行した勢いは冷めてきたが、それでもこうしたSNSの存在は増えてくるだろう。たとえ幻想でも誰かと時間を過ごすことを希求するものたちが支持する限りは。


 合否の結果を一通り境遇を知る人に簡単にメッセージを返したあと、次に番号を打ち込んで電話をかける。連絡先は調べものや参考書の提供を買って出てくれていた春間だ。心理的な不安に押しつぶされそうなときにも、彼からなにかとフォローを受けていた。

 ただ電話越しに聞こえた激励の言葉は『つまらん用事でかけてくるな』、『血反吐を吐くまで努力しろ』などとにべもない返事ばかりだったが。それでも時間を作って差し入れを持ってきたりと根は真面目なのだろうと思う。本人に伝えたところで苦み走った表情で返されるので伝えることはないだろうが。

 そんな彼も今日ばかりは喜びの言葉を述べていた。


『まぁ当然だろう、スリルがなくてつまらんくらいだ』


 こんな言葉でも賞賛されている。すくなくとも俺はそう思っている。

 春間は若干にでも浮ついた俺の気持ちを見定め、気を引き締めさせる役割をになってくれていた。


『喜ぶ暇もないだろう。ただスタートラインに立っただけだ』

「そうだな、まだこれからだ」


 大学院へは単なる経過点にすぎない。ここから二年の研究生活を送り、ようやく試験を受けられる資格を得られるのだ。資格試験に受かってから、はじめて臨床心理士の資格が得られる。まだまだ道は長い。

 長い道のりになることが予見されたが、俺は後悔はしていなかった。


「せっかく受かったんだし、これからもがんばってみる」

『なにを言う。ここで降りるといったらおまえの家まで上がり込んでぶん殴るところだ』


 本気ともつかない声音で春間がいう。こいつの言葉は冗句か真剣なのか判断に困ることがある。


『近いうちにツラを貸せ、今後の抱負でも聞いてやる』

「おごりか?」

『入学と卒業に人生の門出に、全部祝い金の前借りでな』

「……これから祝い事は期待できないな」


 もしそうなったら一生分の酒を一晩で飲んでやるところだ。



 駅の購買で遅い昼飯を買って電車を待つ傍らカツサンドを貪っていた。

 あれから店長にも電話をかけた。昼時ということもあり、あまり長くは話せなかったが我が事のように喜んでくれているのが電話越しに聞こえた。むず痒い気持ちを覚えたが、悪い気はしなかった。

 店長はバイトのシフトを軽いものに替えてくれたり、人員を増やしたりと負担を軽くしてくれていた。私生活に関しても夕飯をご相伴に預かったりなどして金銭面でも世話になっていた部分がある。

 いろいろな人が協力してくれたからこそ、今があるということのありがたさが身にしみてわかる。


 昼食を食べ終え、手持ち無沙汰に感じているとスマフォに通知が入った。振動のバリエーションからしてNeDiからメッセージを受け取ったのだろう。腰元のポケットから端末を取り出して差出人を確認する。

 メッセージを寄越したのは里絵だった。先ほど連絡を入れておいても不在だったので今になって余裕ができたのだろう。


“電話できる?”


 まずはそう短いメッセージが入っていた。ちらりと駅の時計を一瞥する。もう数分で電車が来る時間になっていた。

 もうすぐ電車に乗る、と返信するとすぐに、じゃあここで、と返ってきた。


“合格おめでとぉ~っ。このリエちゃんがほめてあげよう! ありがたく思うがいい!”


 顔文字入りで俺への祝辞とクラッカーの絵文字。なぜ俺の周りには微妙に上から目線を寄越すのだろうな、と苦笑する。


“サンキュー、でもまだこれからだし、喜んでもいられない”

“伊鈴君はマジメすぎだよぉ~……。喜べるときに喜んでおかないと身が持たないよ~”

“俺の友人と真逆のことをいってくれるな”


 俺は苦笑する。

 里絵はあれから自分の生い立ちなどを含めて彼氏に洗いざらい話していた。直前まで不安そうに声を震わせていたが、俺が何度か励ましてやると勢い込んで電話が切られた。

 生い立ちを知った彼氏の反応は劇的だったそうだが、打ち明けてからしばらくすると、里絵を家族に紹介したいのだ、という誘いが来た。今まで恥ずかしがって渋っていたそうだが、どんな心境の変化だろう、と里絵も警戒心を抱きながらも誘いに応じた。


 そこで待っていたのは彼の家族による温かな出迎えだった。押しの強い母親、控えめだが穏やかな風貌の父親、生意気だが努力家の弟。憧れていた食卓を囲みながら里絵は救われる思いがしたらしい。彼女を支えたい、という気持ちが形式的な付き合いに止まっていた彼氏の気持ちを動かしたのだろう。

 どこか危なっかしい里絵の振る舞いにも、彼の家族に笑って受け入れられ、自分がそこの一員になったような幸福を味わえたという。

 それからは目に見えて明るくなった。そして、俺に連絡を寄越す頻度も減った。安心はしたが、自分の手が及ばないということを実感できるとかすかな寂しさも募るので、気持ちというのは複雑だ。兄離れされた心境とでもいうのだろうか。


 だが、絶望視しかなかった未来像が里絵の境遇のおかげで上向きになったように感じるのも事実だ。彼女には末永く幸せになって欲しい。今どこにいるのかわからないが、孤児院の仲間たちにもいつか伝えられる日が来るのではないかと思っている。きっと報われる日が来るのだと。

 俺の受験に関する苦労話を披露しながら、彼女の近況を交えて文章での談笑は続いた。

 そうして降車駅までもうしばらくというところで、唐突に里絵は気になることを告げてきた。

 

“そういえば伝えたいことがあったんだよ~。聞きたい?”

“なんだ、俺が聞いて嬉しいことならいいぞ”

“どうかなぁ。飛び跳ねちゃうんじゃないかなぁ?”


 里絵の答えに疑問符を抱く。

 こういってはなんだが、今日まさに喜べる事態には遭遇したわけだが、それを上回る出来事がなにかあったのだろうか。

 不可思議な間のあとに里絵はすこし残念がるような文章を送ってくる。


“あーあ、これでも昔は伊鈴君に憧れたのになぁ~。彼に不満はないけど、もうちょっと頼りがいある人になってもいいのになぁ、なんて”


 なかなか辛口なコメントだ。

 里絵の彼氏には会ったことはないが同情する。


“おまえなぁ、高望みすると嫌われるぞ?”

“じょうだんですよ~。でもちょびっとは寂しい気もするかも?”

“俺が引っ越してもそっちに影響はないだろ?”

“う~ん……、まあ、そーゆー意味にしておいてあげる”


 大学院に進学するにあたって居住場所を移そうと思っていたのは事実だった。

 しかし里絵は他府県に住んでいるし、実際の場所まではお互いにわかっていない。里絵の意味深な発言が俺には理解が及ばなかった。


“そっち、雨降ってない? 今日は傘持ってるよねぇ~?”


 里絵の指摘を聞いてから空模様を眺めてみた。

 いつの間にやら厚い雲が日を覆っている。気を付けてはいるのだが、なぜか傘を持ってくるのを忘れてしまうのが昔からの癖だった。どうもこれは俺の性質らしい。

 

“……忘れたな、まぁ持つだろ”

“えぇえ~、またぁ? もう、そうだと思ったよぉ。駅で雨宿りしてたほうがいいんじゃない”

“そうするかなあ”


 そうやりとりいるうちにぱらついてきた。窓に水滴がついてくる。どうも一雨来そうだ。


“すこし待ってたら来てくれると思うからね。ちゃんと待っててねぇ?”

“来てくれる、ってなにがだ?”

“あー、ううん、なんでもないよぉ。そろそろわたし出掛けないといけないから、切るよぉ?”

“いや、だからなんのことか……”


 里絵は突然ログアウトして会話を抜けてしまった。何度かメッセージを送るが反応がない。NeDi自体から抜けたのだろう。ため息をひとつついて再び窓の外を眺める。

 水滴が窓に降りかかり、しずくが流れ落ちてくる。電車の規則的な音とあわせて揺れていく車内。最寄りの駅に近づいたことを知らせる放送が流れ出す。

 遠い思いで聞き流すようにしながら、筆で流したように流れていく風景を眺めている。


 はじまる予兆。終わりの予感。降り注ぐ雨粒が世界をさらっていく光景。

 雨が降るとなにかを期待してしまう癖は、いつから身についたのだろう。

 そのなにかは、もう満たされるものではないとわかっているのに。

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