瞬き移ろう薄明の中④
早朝になってから病院に帰るとこっぴどく叱られた。
無事でよかった、と医者からほっとした声を聞かされ、やけに罪状が軽いな、と思って素直に病室に帰った途端、待っていたのは監視体制の強化とくどくどと外気に負けない湿度の高い説教だった。きっと病院に携わる身分の人々は人心掌握術を身につけているに違いない。
元来身体を動かす方が好きな俺は、寝転がるだけの生活というのがひどく退屈に思えて仕方がなかった。退院までに寝転がり二回転半分のベッドを優に百回は往復した。途中左足の傷口に落下防止の柵が当たって悶絶していたこともあったかもしれない。
入院中バイトの仲間と店長が見舞いにきてくれた。
店長はどうやらこの前の愛茉音の声を霊感のたぐいと考えていたらしく、パーソナリティがひとつ増えたことになっていた。
俺は、霊感がある人間と呼ぶことはあるが人感がある霊というのはふつう想定がつかないな、とひとり納得していた。
得意げに披露する店長の新しい個性に対し、俺たちの乾いた拍手が信用として捧げられるにとどまった。
入院中は携帯電話の使用を制限はされていたが、使えないわけではなかった。一階のロビーまで歩き、たまにNeDiを使ってメッセージのやりとりを続けていた。
俺の怪我については限られた友人にだけ告げるにとどまった。里絵は相当驚いていたが、最後には無事でよかった、と絵文字付きでメッセージを寄越してきた。
もうひとりの人物である春間は住所をかぎつけて見舞いにまで到来した。ついでに聞いてもらいたい話もあったから助かったともいえる。
退院まで数日に迫っていたが、寝台の上でできることをやり尽くして暇を持てあましていた。そんなときに春間はやってきた。
「入るぞ」
すこし無機質な声とともに仏頂面の彼が病室に顔を出した。
別段機嫌が悪いわけではなく、感情の濃淡が緩やかなだけだ。差し出された紙包みを受け取り、感謝の言葉を並べた。
「珍しいな、伊鈴が本なんて」
背もたれのないパイプ椅子を引き出して彼が腰掛ける。黒のブルゾンにベージュのカーゴパンツ、日に焼けた肌に大きな文字盤を持った腕時計がはめられている。いつ見ても隙のない男だと思う。
「ちょくちょく読んでたんだけど暇なんだよ。金は?」
「いらん。フリーターから取るほど金に執着はしてない」
「……おまえは無職だろ?」
「いや、働いてるよ。まだ研修中だけどな」
心の中で感嘆の声を上げておく。いつの間にやら春間は就職活動をしていたようだ。
そうやって感心する俺をよそに、まだ包帯の巻かれた左手に視線を留めながら彼から疑いの眼差しを向けられる。
「いったい、なにしでかしたんだ?」
「……だから襲われた側だって」
なぜか春間は俺の負傷を一被害者のものとは認めてくれないのだった。
前々から怪しいとは思っていた、と自分の直感に信頼を寄せている様子だったが、そう犯罪者予備軍呼ばわりされていると居心地が悪い。
互いの近況を話したあと、俺は改めて本題を切り出した。
「話があるんだけど、聞いてくれるか?」
真剣味を持った俺の声に春間も茶化すのをやめたらしい。肘を膝の上に載せて手を組み合わせ、前かがみになって俺の話を聞く体勢に移した。
「俺、もう一度勉強がしたい」
春間は片方の眉を持ち上げたが、首の動きで先を促した。
「目指したいものができたんだ」
「いちおう目標を聞いておこうか」
「心理カウンセラーとか、その手の職業だな」
ほう、とはじめて春間の顔に感情らしきものが浮かんだ。
「おまえが心理学に興味を持っていたなんて知らなかったな。きっかけは?」
「まぁ大した動機じゃないんだけどさ」
改めて問われると羞恥が勝り、頬を掻いた。
「俺が孤児だったってことは話したか?」
「知らん、初耳だ。興味もないから続きを話せ」
「……おまえ、これでも結構悩んだんだぞ?」
ため息をひとつ挟んで俺はいきさつを話しはじめた。
孤児だった俺たちには仲間がいたこと。その仲間たちは平常な人生を送ることに何度も苦しんでいること。世の中にそういった人たちへの受け皿ができているとは思えないこと。
「俺はさ、こうしてネットが広がってきて、だれもが同じものを見るようになってきたと思うんだ。でも、そのなかで俺みたいな出自を持ったり、相容れない人っていうのは必ず出てくると思うんだ」
どれだけ回線が速くなっても、瞬く間に誰かとつながることができても、それはきっと幸福ではないのだろう。世間に流布され、周知されている他人との平坦な接続。縦横無尽に縫われた、編み物のような不可視の繋がりが張り巡らされている現代。そうした糸に絡め取られ、身動きを許さなくなっていく。
これは、本当に繋がりというのだろうか。
同じものを見て、同じものを感じ取って、いつしか『良いもの』という価値観は単なる人数比によって推しはかられるようになった。そうしたとき、相手にしている他人という存在は、自分と違う好みを持っている存在だと、違う考え方をする存在だといえるのだろうか。
そうやって他人との境界線が消え失せていく中で、俺は俺が思う、人との繋がりを大切にしたいと願う。
「人の歪みを受け止めるには、今の時代は均質的にすぎるんだ。俺はそうやって悩みながら孤独感を味わっている人がいることを知っているから。だからこうして、自分で誰かを支えられたら、と思った」
口に出してみるとあいまいだった方向性が定まったような気がした。俺を支えてくれた存在の最後のワガママに、自分なりの答えを見つけたかったのだ。この道が正しいのかはわからないが、多少なりとも自分から一歩を踏み出そうと思えた。
俺の話を聞き終え、春間から表情らしい表情は窺えなかった。その沈黙に不安を感じた頃、彼が考え込む仕種から復帰した。
「トラウマを抱えたやつは、他人のトラウマに対して寛容になれるそうだ」
春間の口の端がふっと歪み、俺の顔を捉えてくる。
「案外、おまえみたいなやつが一番向いているのかもしれないな」
「そうかな」
俺は気恥ずかしくなって彼から顔を背けた。
「おまえからそういう話が聞けたのは意外だったな。せいぜい気張るといいさ」
突き放したその言い方も彼にとっては格別な激励だった。
俺は改めて気のいい友人を持ったことに感謝した。
退院してからバイトへの復帰を待っている期間、調べてみると臨床心理士という職業が今俺が目指すものに一番見合っていると思われた。
しかしそのためには指定の大学院を卒業し、勉学と実践を積んだ上で取得資格を得られるということだ。
大学院の入学のためには心理学の学問ももちろんだが、それ以上に英語が必要とされるらしい。心理学の先達というべきは欧州や欧米だからだ。このため論文も英語で書かれていることが多く、大学院の入学試験でも英語の論文が出題される。
高校を中退した身としては非常にブランクが祟った。勉強方法としてはひたすらに必須の英単語を覚えるのが肝心だという。毎日英単語と向き合って覚える日々が続いた。
ただ、それだけでは専門知識が深まるわけではない。春間に電話で呼び出され、勧められたのは所定の学院で勉学を積むことだった。
『臨床心理士になるための一通りのコースがある。通信講座もやっているが、そのへんは自分で決めるといい。見れば仕事の傍ら通って合格している人たちもいる。一度調べてみろ』
その日のうちに場所を調べた。ネットから資料を申し込んだり、電話での相談をおこなった。二週間ほど経ってバイトの傍ら、通信講座で勉強することが決まった。
資格の勉強はたまにやっていたが、今回はすくなくとも自分が目指したい方向性だった。今までなにかを目指すという強い願望を抱いたことはなかった。だが、目標があるということは不安を抱く傍ら、着実に近づいているという確信に変わって清々しいものだった。
人を愛するにはなにが必要だろう。心理学を志しているとその問いかけが頭を何度もよぎる。俺にまだ明確な答えはないが、たぶんその答えには人によってさまざまだ。
しかしまずは自分を受け入れるところからはじめなくてはならない。だれかを受け入れるのに、自分がどんな受け皿をしているかを知らないと相手を受け容れることもできない。
もっとはやくにスタートを切っておけば、そう悔やむことも多かった。だが歩を進めるには足がかりが必要だ。起こってしまったことを悔やみ、過去に責任を見つけようとすることはただの逃げにすぎない。現実という時間はそれでも流れていく。その流れから目を背けようとすることは逃避行動になる。
もし、俺は愛茉音に出会ってなければこんな職業には目も向けなかったのだろうと思う。俺は、俺を肯定することができたからこそ、こうして自分の可能性を信じられる。自分を受容するには誰かから肯定されるのが一番早い。
自分を愛するため、誰かから肯定されるのが近道だとはどこか矛盾するだろうか。俺はそうは思わない。自分を見つめる努力をするものは傍目に魅力的に映るのだ。他人に見えて自分に見えないものを知ることができるからこそ、自分を知る道筋になる。
私たちはひとりではない、と崇高な言説を振りかざす専門家がいる。
その問いに、すこし天の邪鬼になった俺はこう突き返すだろう。「愛された立場から物事を言うべきじゃない」と。
誰かが繋がっている、だから安心だ、そうではないのだと思う。人は誰しもひとりだと自覚することからすべてははじまる。誰かが繋ぎ止めてくれる、そんな幻想はまず打ち払った方がいい。『それから』はまた次の話だ。
「こんなことで答えになるのかね」
テキストを紐解きながら、俺は誰彼ともなくつぶやいた。
夕暮れ時の涼しさが窓から入り込み、夏が過去のものになったことを示していた。
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