瞬き移ろう薄明の中③

 夜風が流れていく音が耳元で聞こえる。

 遠くからは互いの存在を被せあうかのように蛙の鳴き声がひしめき合う。

 寂しげに揺れる背中に向けて、俺はかすかに、そうか、と頷きを返すのが精一杯だった。

 彼女は再び、背後を振り返る。


『わたしとあなたでは住む世界が違うから。それにいつまでもこうしていられるわけじゃないもの』

「やっぱり、辛いのか?」

『……うん』


 伏せた顔からは彼女の表情は窺えない。それでも固く握られた拳が、今の時間を惜しんでいることをなんとなく察した。


『わたしには戻っていく記憶があって、その実感がないのがすごく怖い。わたしっていう記憶があるはずなのに、根拠となるような身体がないの。それでも、記憶が戻るまでは自分がこの世にいない、って自覚できてなかったから、これでいいかな、って思えたけど』


 俺に向き直ったとき、彼女の頬を透明な滴が伝っていた。

 跡を残すことのない涙は地面に落ちたあと、固いアスファルトに吸い込まれるようにして消えていく。


『でも、やっと、違うんだってわかった。アキヒトの優しさに甘えちゃいけない、って思った。だって、アキヒトにはこれからがあるんだもの』


 泣きじゃくりながらも笑顔を浮かべ続ける彼女も、その決意は本意ではないはずだった。

 引き留めたかった。一緒にいた時間がかけがえのないものだったと伝えたかった。何度も救われる思いをした、と自分だけが知っている存在を主張したかった。

 だが、結局、何も口に出さなかった。

 そんな俺の考えはもう、きっと伝わっているだろうから。誰よりもはやく、俺の声を聞きつけてくれる存在であったのだから。

 だからこそ、俺は親しんだ名前を呼ぶだけにとどめた。


「――愛茉音」

『なぁに?』


 くすぐったそうに笑う表情は、いつしか俺が求めてやまないものになっていた。

 そのやりとりはいつから続けられただろう。妄想、と片付けるにとどめながら、共有する時間が色彩を帯びていったことで俺の中の部分が変容していった。


『わたしもね、アキヒトといっしょにいられたからもう一度自分を信じることができたんだよ。愛茉音、って名前をもう一度好きになることができた』

「あぁ、愛ってけっこう近くにあったんだな」


 ふと俺が口をついて出た言葉に、きょとんと彼女は小首をかしげた。すこし考える素振りを見せ、数秒後に俺の思うところに至ったようで訊ね返してくる。


『愛茉音の、愛?』

「そうそう、今気づいた」


 一瞬沈黙してから吹き出した彼女につられて、俺のほうも笑い崩れた。静かな夜に長い笑い声が響き渡った。

 その二人分の笑い声もしばらくするとやみ、気がつけば暗かった夜空も明るさを増してきた。

 愛茉音は明度が上がっていく藍色の空を見上げ、諦めたように呼気を吐き出す。


『そろそろ朝だね、楽しかった』

「ああ」


 彼女からの台詞には空白が感じられた。なにかを間に挟むような予兆をにじませる空気。

 結局かぶりを振るようにしてそれは打ち払われる。


『じつは今日、伝えたいことがあったんだけど……うん、それはちょっと卑怯だから。……だから、代わりにこれだけ伝えておきたいの』


 気恥ずかしそうに身じろぎをする彼女の姿。

 それには俺は答えずに次の言葉を待った。伝わったことも、伝わらないことも、すべてを彼女の気持ちとして受け取っておきたかった。


『アキヒトはもっと誰かの支えになってあげられる。いろんな人が孤独に閉じ込められていると思うの。その人たちのこと、わかってあげられるのはアキヒトみたいな人しかいないんだって思うの。わたしを支えてくれたみたいに、今度はその人たちを助けてあげて欲しいな。……ちょっと、ワガママかな?』

「……荷が重そうだな、でもま、考えておく」


 俺の返事にうん、と小さく頷いて彼女は後ろ手に重ねられた手を解いた。


「じゃあ、お別れだな」

『そうだね』


 彼女は立っていた俺の隣に腰掛け、空に紛れて薄くなっていく月を見上げた。俺もその隣に腰を下ろした。


『最後に、手をつなぎたい』


 隣も見ずに差し出された右手。固い地表に置かれた手はガラス細工のように透明な光をたたえていた。

 俺は同じように月を見上げる。差し出された手に重ねるようにして、そこにあるように感じながら、手を置いた。

 振り仰ぎながら空が白く染まっていくのを俺はじっと眺めていた。

 目を逸らすことなく、流れていく時間を繋ぎ止めるように、いつまでも、そうしていた。


 ――そうして、辻愛茉音という霊は消えた。

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