瞬き移ろう薄明の中②
雨上がりの夜空は星が落ちそうなくらい瞬いていた。夕方の雨は通り雨だったのか、間の悪いときというのは重なるものらしい。
外気は涼やかで心地がいい。そうして電灯の照明に輪郭を白くにじませながら、彼女はいつものようにそこに立っていた。昨日も、今日も、明日も、いつしか変わらないと思っていた人なつっこい表情。黒い髪は夜闇にほどけて消えてしまいそうに揺られている。
俺が名を呼ぼうとすると彼女は黙して首を左右に振った。浮いた足で俺の傍らに寄り添うと誘い出すように口を開いた。
『歩かない?』
俺たちは病院の外周を回るように歩いた。関係者に見つかることを避けるため、敷地外の植木に隠れるようにしながら歩を進めた。
『怪我、痛くない?』
さっきから訊かれてばかりだな、と思い、苦笑した。だいじょうぶだよ、と俺が口の動きで返すと哀切そうな笑みを浮かべた。
『助かってよかった。本当に』
「店長から聞いたよ。助けを呼んでくれたんだろ。ありがとうな」
『ううん、わたしも必死だったから。本当に聞いてくれるって思ってなかったから』
「その店長から聞かれたよ、俺の彼女か問いただせなかったことだけが残念だ、って」
『なにそれ』
くすくす、と彼女は顔をほころばせた。
その自然な声音が手元に戻ってきたようで心地よかった。
「ぜんぜん出てきてくれなかったから無理させたんじゃないか、って思ってたんだよ。おまえはだいじょうぶなのか?」
『あ、それはうん。でもね、出てこられなかったのはべつのことがあってね……聞いてくれる?』
その表情にこちらに問いかけるような響きを帯びていたのが気になった。遠く、離れていってしまうような感覚が先ほどから拭えなかった。躊躇いながらも、俺はゆっくりとうなずいた。
『わたしね、思い出したの』
その言葉が意味するところが瞬時には理解できなかった。俺の意図を汲んでか、彼女が補足する。
『病院を見てね、なんかデジャブがあったんだ。どこかで見たような、過ごしていたことがあったような。それで病院に入ったとき、すごく居心地が悪かったの』
愛茉音はそこで息を吸って、言葉を止めた。
長い沈黙が場に降り、緊張感が空気に宿っていく。彼女が告げる、次の言葉は俺を戦慄させた。
『わたしは飛び降り自殺をしたんだ』
自分の死を告げているにもかかわらず、彼女の表情は穏やかだった。
むしろもうこれは、すでに受け入れられた結果だったのかもしれない。
『わたし、大学生だったんだよね。これでもそこそこ頭がよかったのよ? サークルにも参加してみんなと過ごしていたし。でもさ、どうしてみんな仲良くできないんだろうね?』吐き出していく声には痛切が混じる。『わたしはいつも中立に立たされていたの。サークルの中では大きく分けて二つのグループがあって、あいだに挟まれるようで居心地が悪かった。みんなのことは好きなのに、どうして極端なんだろう、っていつも感じてた』
元来相手を疑うことを知らずにいたのかもしれない。生い立ちは聞いたことはなかったが、彼女の無邪気さは疑り深さが染み着いた現代ではむしろ希少なものだったろう。
そして、現実が差し迫ったときに、彼女はなにを感じただろう。
『とある子の道具が折られていたことがあったの。そのとき、わたしは部屋に入ってたんだけど、その子が帰ってきたら突然騒いで泣き出したの。疑いをかけられたのはもうひとつのグループの子で、その子に三人がかりで詰め寄ってた。責められている子は身に覚えがないみたいだった。必死に否定しているのに周りは日に日にエスカレートしていって、その子はサークルに来なくなっちゃった。
似たようなことが何回か続いて、わたしはその場に何回か居合わせた。まるで当てこすりみたいにその子たちがすごく高い声で怒り出すの。何度も何度も。直接わたしに関わったことはないのに、なぜか耳の奥でその子たちの声がいつも聞こえるようになって、つぎはわたしじゃないか、って思うようになって、苦しくってね』
鬱蒼とした林が月夜を隠すように立ち並んでいる。右手には背の高い草が坂に対して垂直に生えている。姿の見せない鈴虫がリィンと、寂しげな音色で間を挟む。
『どうしてわたしも止めなかったんだろう。あの子たちが他の子を苛めてたのに気がついたはずなのに。そんな後悔も混じって疲れてきちゃったんだ。気がついたら学校の屋上でフェンスから下を見下ろしてた。あぁ落ち着くなぁ、って夕日を見ながらつぶやいたのを覚えてる。そこからふわって身体が浮いたみたいになって、ぼんやりと、落ちたなぁ、って思って、それから意識がなくなって、気がついたらこんな身体になって街を歩いてた』
俺たちは手も触れそうな距離に肩を並べて歩いていた。
しかし、その手が繋がることはない。繋げることはない。
誰かよりも近い距離に接しているのに。無防備な横顔に気を許してしまえるのに。俺たちのあいだには深い溝が引かれていた。
なにがしたかったんだろうね、と夜空を見上げながら問いかける声に俺は答えを持ち合わせない。その抗いようがない衝動は、俺自身にも根付いて離れることができないでいたのだから。
返す言葉もないまま、雨露に濡れたままになっている雑草を見下ろして歩いていた。
『わたしね、アキヒトと最初に会ったとき、失礼なことを言ったなぁってずっと謝りたかったんだ』
その言葉は今も覚えていた。
彼女が俺に最初に告げた言葉。冷たく見透かしたような目線の奥に見えたのは、仲間を見つけたことで安堵したとでもいうような柔らかさだった。
『透明ね、って言ったの。でもそれは違うな、ってアキヒトと接する内に気がついた。アキヒトはプリズムみたいに光を受け入れて拡散してくれたんだ』
「それはまた、大げさだな」
過剰なたとえに、買いかぶりすぎだろう、と苦笑したのだが、思いのほか強い口調で否定される。
『あなたはもっと自分を信じていいと思う。みんなからの悩みを聞いて、頼られているあなたの姿、わたしは見てきた。これでもね、アキヒトといっしょにいると安心できたのよ?』
彼女は歩く俺のまえに立ちふさがり、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
『今からすこし怖いカミングアウトをしちゃいます』
俺は何のことかわからず、首をかしげる。
『わたしね、昔から人に嫌われるの、すっごく苦手だったの。お母さんが厳しくってね。嫌われたくないから勉強もお手伝いもいろいろとやってきた。わたしが死んじゃったほうが楽かな、って思ったのも周りのいうことを聞くのが嫌になっちゃったんだろうね。
それでアキヒトと会って、こうして取り憑いた、ってことになるのかな、それでわたしは安心できたよ。だってさ……』
すとん、とステップを踏むようにその身体が俺の近くまで寄ってくる。にこやかにのぞき込んでくる裏でどこか寒気を感じた。深奥まで見透かすような瞳の輝き。執着心と依存性が混じった物乞う視線。
俺は一瞬たじろいだ。その間を詰めるようにまた一歩距離を詰めてくる。耳元に吹きかける距離から温度のない声が聞こえてくる。
『……こうしたら、せめてアキヒトとはずーっと一緒にいられるよねぇ?』
すこし平静を取り戻した思考が真意を追う。
なるほど、幽霊に取り憑かれた側は振り払うことができないわけだから、嫌われることを恐れる彼女が望む姿だったということだ。取り憑いている側にも利点があるということだったというのは及びもつかなかった。
数秒後、俺の思考を読み取った彼女が、軽く笑って離れていく。
『冗談、冗談。いまは違うよ。最初は、すがるような気持ちだったのかもしれないけど』
「聞いていてゾッとしたぞ」
『もっとはやく言っておけばよかったね』
「そうしたら妄想がどうとか考えなくてよかったな」
『あはは、たしかに。……でもま、だからってずっと依存しているわけにはいかないかなって考えてさ。だから、決めたの』
彼女はどこか吹っ切れたような表情とともに嘆息して、再び頭上に広がる星空を眺めた。
俺から距離を離すようにして、数歩の距離を歩いていく。俺の目線を背に受けながらその口元が動く。
『もうこれで最後にしよう、って思ったの』
それは、突然告げられた別れの言葉だった。
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