瞬き移ろう薄明の中
瞬き移ろう薄明の中①
目が覚めたとき、最初に印象に残ったのは白だった。天井、壁、カーテン、あらゆるものが白色に塗りつぶされ、照明を照り返す眩しさに目を細めた。
背中の感触は柔らかい弾力がある。どうやらベッドで自分が横たわっているらしいと自覚ができた。首を伸ばして周囲をつぶさに観察してみるが、側頭部をこすったときに痛みを覚えたため、あきらめた。
どうやら自分は生きているようだった。男の急襲から一転、路地裏で暴行を受けてからどこかの病室へと運ばれたらしいと思えると、ようやく気を抜くことができた。
おそらくあの場で店長が介入していなければ俺はあの男にさらにひどく痛めつけられたか、さもなくば殺されていただろう。それを思うと改めて背筋が寒くなる。
あの狂気と形容するほかない、歪んだ表情が脳裏から離れて消えなかった。目を閉じれば高い笑い声と加虐的な口元が思い起こされ、反射的に腹部の傷口に痛みをおぼえた。
昨晩は生きていることこそが苦痛に感じていたというのに、こうして命からがら逃げ延びてみると、途端に生に執着しているのがわかった。死にたくない、と脳裏から訴えが聞こえるようだった。どうしようもなく俺は臆病だ。
身体を動かすほどの気力もなく、自己嫌悪だけがかろうじて思考と呼べる形をなしていた。それが快復に向かう手立てだとは到底思えなかったが。
泥のように沈んでいく思考をさらい、観念して再び目蓋を閉じようと思ったときだった。廊下側から多少賑やかな話し声が聞こえ、耳をそばだてさせた。
ドアを開けて姿を現したのは、病状を説く看護師をともなった店長の姿だ。その顔には苦い物が混じっていたが、俺が起き出しているのを見てつかつかと歩み寄ってきた。
「おう起きたか、身体は大丈夫か? こっぴどくやられちまったな、ハッハハ!」
店長の快活な笑い声は病室の中でも健在だった。その声を聞いた看護師が傍らまで近づていくると「病院では静かにお願いします」と表情も変えずに耳打ちしていた。申し訳なさそうに頭を掻く店長がどこかおかしかった。
看護師は俺に怪我の具合と体調を尋ね、俺が特に問題はない旨を告げると会釈を残して立ち去っていった。あとには側の椅子に腰掛ける店長が残される。体格の良い店長が座ると椅子も小さく見えるものだ。
「えー……まぁ、なんだ。災難だったな。あの男は呼んだ警察に捕まったみたいだから安心しろ。とにかく怪我が治るまでゆっくりしとけ」
身に沁みるような優しい言葉を受け、逆に俺はどこか後ろめたい気持ちになった。もとはといえば俺が原因なのかもしれない。男の行為はストーカーまがいのものだったとはいえ、それに俺が関わってどうこうできる問題ではなかったのだ。
俺の浮かない表情を見た店長は怪訝そうな顔を見せていた。
その顔に、俺はいつしか贖罪をしているような気分で今回起きた事件の全容を語りはじめていた。
話の中では『依頼』と称して他人の別れ話に介入していたことも俺は打ち明けた。店長は話中、目を見開いたり眉をひそめたりしていたが、俺の話を黙って聞いていた。やはり罪悪感を感じていたのだろうか。それとも自分でも限界だったのか。出てくる言葉は用意されていたように次々とあふれ出してきた。
一方的に話し続けて二〇分ほどが経った。一通り区切りがついたところで俺が一息つくと、場に沈黙が訪れる。
誰かに自分が間違っていることを指摘してもらいたかったのだろう。そうした上では俺が店長に対して抱いていた正義感には打ってつけだったともいえる。俺は店長からの口から厳しい叱責が飛ぶことを期待していた節がある。
細く長いため息のあと、店長はやおらに立ち上がった。俺の頭を見下ろすと、右の拳を持ち上げたのが見えた。俺はやがて起こるだろう衝撃に歯を食いしばり、顔を伏せる。
しかし待っていたのは緩やかな手の感触だった。ごつごつとした無骨な手が頭頂部に乗せられるのに、唖然とした。
「誰かのために動くっていうのはいいことだ。その結果が普通には褒められたものじゃなくてもな。けどな、俺から言わせてもらえば、おまえを頼ってくるほうがよっぽど悪いな」
手を離し、再びどっしりと腰を構える。パイプ椅子が窮屈そうな声を上げて鳴く。その上で両腕を組んで回顧するように天井を振り仰いだ。
「俺は昔都会で働いていたって話をしただろ?」
俺が首肯を返すと店長はにっと白い歯を見せて得意げに笑った。
「これでもけっこう仕事はできたんだよ。業績はほとんどトップだったしな。そのうち、誰からも頼られるようになってな。俺も頼られるのは悪くなかったから酒を飲みながら周囲の悩みを聞いたりしていた。問題事が起これば俺にお鉢が回ってきたし、自然と仕事の量も増えてな」
遠い目をした店長は昔の自分の姿を思い返しているようだった。
ただそこに浮かんでいたのは懐古の気持ちではなく、かつてその場所で大切な何かを失ってきてしまったような虚ろな表情だった。
「誰かのために仕事をした。俺がやるほうが周囲が効率的に仕事ができる。毎晩遅くまで残って仕事を片付けて、家に帰って仕事のことを考えて寝る。そんな生活が毎日続いて、ある日空咳が止まらなくなった。風邪だな、と思ったが、薬を飲んでいればじきに収まるだろうと高をくくっていたから大事に考えなかったんだな。だが、いくら日が過ぎても治りもしないし、そのうち頭痛もするようになって来た」
流れにはびこった風向きの悪さに、俺は意図せずつばを飲み込んだ。
「朝起きてから気がついたら身体が全身痙攣してその場から動けなくなった。吐き気と頭痛がガンガン響いて俺はのたうち回った。気が動転してて気付かなかったんだろうな、俺が叫び声を上げ続けていたのを聞いた、隣の部屋に住んでいるおばさんが救急車を呼んでくれて病院に運ばれちまった。面白くもなんともねぇ、過労だってよ」
見た目の頑強さが取り柄でもある店長が倒れるほどだ。相当心身ともに酷使させたに違いなかった。
話の息継ぎの代わりに、店長は自嘲げにため息をついた。
「ほどなくして職場に戻って、わかったのは周囲のぎくしゃくとした空気だったな。前みたいに気軽に声をかけられることもなくなった。表向きは身体を心配してくれているんだが、本当は違うんだよ。俺はそれが理解できた。貼り付いた笑顔に潜んでいたのは、蔑み、だ」
「……どうして、ですか?」
俺はその店長の言葉に同意することができなかった。
会社に尽くし、周囲に尽くし、誇られるべき存在だった店長がどうしてそのような目に遭うのかが理解できなかった。
「周囲は俺が遅くまで会社に残って仕事をしていたのが気にくわなかったんだよ。勝手に仕事をして、勝手に倒れて、すごすごと戻ってきた。よっぽど俺が滑稽に映っていたんだろうな。だから、俺はおふくろの介護と銘打って会社をやめた。もう前みたいにいられなくなったんだよ」
そんな理不尽なことがあるだろうか。店長はただ周囲を思って仕事に精を出していたに過ぎないだろう。俺は店長の見かけからは想像できない素早くも細かな仕事ぶりを知っていた。尊敬の念を抱くことはあれ、それを恨みこそしたことはなかった。
俺の歪めた表情に気がついたか、店長はふっと「若いな」と呟いて笑った。
「けどな、今の仕事もまんざらじゃねぇよ。近くの知った顔から話を聞くのは楽しいしな。帰ってきて俺の顔を見てほっとする、って聞くのも悪くない。お前みたいな若い連中はよく働いてくれる。業績、売り上げ、って飛び交っていた職場なんかよりずっと気楽だ。やっぱり俺にはこういう仕事のほうが性に合ってるな」
神妙な顔からいつもの気安い笑顔に戻った。見ていて気を惹きつける無邪気な笑顔。みな、店長のこの子どものような笑い声に惹かれていく。
一拍置いて、店長はさらに驚くようなことをいった。
「俺、おまえが帰ってから無事に帰れるか心配だったんだよ。だけどおまえのことだから余計な気を回されるのも好かねぇだろうと思ってな。そうしているうちに女性の声が聞こえたんだよ」
「……声?」
「あぁ、でも店内でそんな姿は見えないし、幻聴かと思ったんだがな。その声が真に迫っていて『助けて、助けて!』ってずっと叫んでたんだ」
思い浮かぶのはいつも傍らで笑いかけてくれていたあの姿だった。昨晩、泣いて別れたきりずっと姿を見せることがなく、心の隅で気にかけていた。
「そのうちいても立ってもいられなくなってな。バイクに跨がっておまえの姿を探すことにした。その間もずっと声が聞こえてきた。その声が一番大きく聞こえた交差路で俺はバイクを降りた。建物の死角になりそうな小道に違和感があったからな。覗いてみたらお前が殺されかかってるじゃねぇか。それを見た途端頭に血が昇ってよ。あのときほど、人を殺したいと思ったことはねぇな」
「……迫力ありましたよ。店長ってわからなかったらあの場で俺のほうが逃げ出してたかもしれません」
そのときに店長が男に向けて発していた言葉には突っ込むのは野暮だと思った。こうしてごわついた手に触れてから、その真意を疑うのは気が引けるし、気恥ずかしい気がした。
実をいえば、すこし嬉しかったのだ。男に浴びせた怒号の中『息子』、と俺を呼んでくれたことが。それがたとえ事実ではなかったとしても、信頼する店長と近しい存在になれた気がしたのだった。
そんな想像を巡らせる俺の傍ら、店長は低速のギアが回転を続けるような声を出しながら考え込んでいた。俺がその様子に疑問視していると、そこで顔を上げた。
「結局あの声の正体はわからなかったなぁ……俺の知り合いにはいなさそうだ。その子から話さえ聞ければおまえの彼女か問いただしたかったんだが。なぁ、なんか知ってんだろ?」
「……いいえ。っていうか店長、それを訊きたかっただけなんですか……」
きっと尊敬はしているはずだ、と言い聞かせる俺だった。
ほどなくして店長は仕事場に帰り、ひとり夜を過ごすことになる。それを機に薄い存在感と味付けを持った病院食が室内に運ばれてくる。
食事をすませると気だるい感覚に支配される。脱力感に身を任せて意識を落とすと、気がつけば手元のデジタル時計が二三時を指し示していた。過ぎた時間になにを思い浮かべるでもなく、低い回転力の頭で呆然と思考を巡らせていた。
俺を襲ってきた男について聞いた話だと、過去何度かストーカーや恫喝を行っていた経歴があったが、今回のように事件性を帯びたのははじめてだった。薬物による酩酊状態も確認されたということで正式に逮捕に踏み切ったそうだ。
いずれにせよもう俺には関わりのないことだ。『依頼』と称して別れ話を引き受けてきたのももう終わりになると感じていた。もともと引き際を心得なかった俺にも原因があるのだ。
恋愛とはなんだったのだろう。愛情という片鱗を見たくて俺は誰かと誰かが別れるところに付き添いたかったのかもしれなかった。ろうそくは最後に大きく燃え上がるものだ。恋愛の終末に、すれ違い続けてきた互いの優しさが結実するあの瞬間だけは、別離の悲しさと相まって希少に思えた。
だが、どうしてその優しさは維持することができなかったのだろう。ここにきて俺は根本的な問いに突き当たったのだ。誰かと愛し合えばいつかは矛先が相手の裏面に向く。すれ違い、別れあうことから逃れられないのに、そのうえで誰かに思いを寄せるということがひどく空虚なものに見えて仕方がなかった。
愛するということは自分を誰かの中に見いだすことではないだろうか。片時も離れたくないと思える存在がいること。それを維持すること。それは肉体的接触によって果たされるものだと誰もが信じている。
親密な距離感とは傍らに誰かが寄り添っていることだ、世間の論理ではそうなっている。誰かの秘め事を引き受け、自分の秘め事を打ち明け、身体を抱き合うことが恋愛の証明になるのだと。
本当に、そうだろうか。俺は腑に落ちない部分を抱えていた。
以前読んだ小説の中で自分の愛していた夫を殺していた女の供述があった。周りから糾弾されても自分は夫を愛していた、と確固たる自覚を持ち、周囲の非難する視線におののきながら涙ながらに訴えた。
『あの人が愛しているって知っていたけど、夫がいつ死ぬか考えると不安でならなかった。だから、私は彼を永遠なものにしたかったの。私の中でずっと生き続けて欲しかったの。会えなくても、私はずっとあの人と寄り添い続けられる。あの人の遺したものを愛し続けられるの』
俺たちはこの道理を覆せるだろうか。
自分を愛することで傷ついていく妻のことを思うなら、夫は殺されてやるのが一番の愛の証明になるのではないだろうか。事件後にそれが客観的に証明することができなくても。自分を犠牲にすることで誰かの愛を証明できるのなら、彼はすべてを捨てて愛を選んだことになる。なんとも美談ではないか。これこそ人を永遠に愛するということだろう。
ただ、美談はそれが真理とわかっていても果たされることができないから美談ですまされるのだろう。俺はこの話はただ気を違えてしまった妻に殺されてしまった夫、という場面にしか映らないのが一般的な反応ではないか。
妻によって存在を消失させられることが、真実愛の証明になるというなら愛は一方通行のものでしかない。夫の身体は妻には必要ではなく、夫と過ごしたという自身の記憶だけが彼女の心に残り続ける。
夫との出会いはただの火種でしかないのだ。過ごした時間を燃焼材に、記憶と妄執で補充し、愛の炎は彼女の中で内燃を続ける。その傍らに夫の姿は、ない。
その小説で描かれた夫人と、俺とを比べるとなにかが決定的に足りなかった。
それは空いてしまった心の隙間を埋め立てる『なにか』だった。誰かからの承認を、生への執着を繋ぎ止めてくれるなにかを、俺は求め続けることをやめられなかった。
この『歪み』はどうしたら矯正できるのだろうか。
背中を浮かせ、身体にかかっていた布の重石を足下に寄せのけると、夜中にもかかわらず、窓辺からの明かりが目を瞬かせた。窓から見上げた景色は爛々と輝く青銀の月。差し込む月明かりは、すでに消灯を終えた病室を淡く照らしていた。雨上がりの涼しげな風は薄いカーテンを揺らし、俺の肌を撫でていく。
知らずうちに誰かの名前を口ずさんでいた。
独白のように、誰に向けられることもわからぬ
気にかかっているのは、今まで他人が見聞きすることができなかった愛茉音の存在が、第三者である店長に知ることができたという点だ。その行為を通じて疲弊しているだけというなら、時間を置けばまたあの姿を見ることができるのだろう。
そんな楽観的な考えを抱く傍ら、これがなんらかの予兆を思わせるものではないかという想像も同時に浮かんでいた。
醒めない夢を見ながら、かき抱いていた空想を拭えないでいた。
声が聞こえた気がしたのはそんな、不安を拭いきれずにいるときだった。
勘違いだとは思いたくはなかった。何度も交わしたあの声を忘れることはなかった。俺は飛び起きて彼女の姿を探した。
医者から安静を告げられていたが、いても立ってもいられなかった。腹部には治りきっていない傷口があり、激しい運動をすると傷が開くと聞いていた。それを思いだして最低限気を払いつつ、重い足を引きずりながら彼女の姿を探す。
声は遠くから聞こえたようだった。いつもとは違う、脳裏に囁かれるような、傍らから語りかけてくるような、声は遠さが感じられた。病院の内部ではないだろう。これまで彼女とは離れた経験があまりない。距離を離しているというのははじめての出来事だった。
一階のカウンターまで階段で下った。ただ二階層分を下りたというだけなのに疲労が激しい。カウンターには電灯が灯っており、夜勤の看護師がいるのだろうと想定した。扉が開けばさすがに感づかれそうだったが、幸運にも人の気配を感じなかった。病室の見回りにでもいっているのだろう。俺は日頃祈ったこともない神に感謝しつつ、スリッパのまま外に出た。
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