硝子の砕ける音③

 昨晩から気持ちを引きずったまま、朝からバイトに出勤する。

 まともに眠ることができず、よしんば意識が落ちても、すぐに追い立てられるような恐怖心から目が覚めてしまう。体調も芳しくなかった。呼吸が浅く、頭痛が鳴り止まなかった。

 玄関から外に出ると横降りの強い雨が降り続いていた。風も強く、今の体調で自転車に乗れば転倒する恐れがあったため、乗るのを避けたかった。傘立てから黒い無地の一本を引き出して逆風に向けて傘を開く。強風に煽られながら重い足取りで職場に向かった。


 来るのにも苦労したが、バイト中も散々だった。

 始終注意力が散漫な状態で、品出しをすると物品を取り違え、商品棚の整理をすると雪崩れ落ち、レジに立てば釣り銭の額を間違えた。顔見知りの年配の女性から逆に指摘される始末だ。おまけに気遣わしげに声をかけられ、いたたまれない気持ちになった。

 見かねた様子の店長が奥から出張ってきて、今日はもう上がっていいと宣告してきた。事実上の戦力外通告だった。内心で悔しい気持ちはあったものの、自分でも役立たずに思えたので黙って従った。

 店の奥のロッカーに引っ込む直前、店長が背後から引き留めた。


「どうせこんな天気だ。客なんて来ねぇから気にすんなよ。それより、明日は身体治してこいよ、お疲れさん」


 髭に埋もれた口元を大きく湾曲させた店長は、俺に労いの言葉を吐くと棚の整理をはじめだした。俺はその大きな背中に感謝を捧げつつ、同時に声も出すこともできないほど疲労している自分を自覚した。

 店の裏口から傘を持って外に出ると、いまだ悪天候は続いている。家までたどり着けるか若干不安を抱きつつ、風雨の中を進んだ。


 昨日のやり取りのあとから愛茉音は姿を消したままだ。仕事からようやく解放されて疲弊しているとき、傍らからかけられる柔らかな声が心に染み渡るように聞こえていたことを思い出した。

 過去の偉人の格言で『愛とは失ってから気付くもの』と称していた人物がいた。案外、世の中で至上とされている恋愛観は、誰かが勝手に理想像を押しつけているだけなんじゃないだろうか。

 真実の恋愛なんて所詮絵空事に過ぎず、ほとんどの愛情が報われぬものだと、実際は誰もが感じているのではないだろうか。だからこそ、自分たちで到達できないその境地を美談化して流布しているだけじゃないのか。


 疲れていては上昇志向すら抱けなくものだ。俺は鉛のような身体を引きずるようにして歩道を歩く。

 通り過ぎる車が水をはね飛ばしてこないことに気を揉みつつ、進んでいく。周囲に人影はほとんどいない。数少ない通行人は傘に身を操られながらふらふらと歩いている。こんなことなら外に出るべきではなかった、と遅まきながら後悔した。

 降り注ぐ雨はまるで滝のようだった。街が洗い流されているような感覚を覚える。強風に乗せられて降り続く豪雨が足下を深く濡らしていく。踏み込むたびに靴の中敷きから水が出てきて気持ちが悪い。


 俺は交差点を曲がり、突き当たりの角を曲がった。

 そこで不意に背後から掴まれた腕によって視界をふさがれ、たたらを踏んだ。

 とっさのことで傘を落としてしまい、建物の隙間に抜け道のように続いていた薄暗い路地に連れ込まれた。俺を羽交い締めにしている腕の感触は鍛えた男の腕だ。背後に立つ気配からしてとても友好的とはいえない。そこまで考えたところで脇腹に衝撃を受けた。痛みからたまらず身体を折った。

 男は身動きの取れない俺をかついで、唐突に放り投げるようにして手を離した。濡れたアスファルトに転ばされる結果になる。身体全身を打ちつけてくる雨の重圧がのし掛かる。服が水を吸い取って重く感じる。


 俺はようやく背後から襲いかかってきた男の顔を拝むことができた。視界の悪い中、目立ったのは人相の悪い表情だ。目にはどこか狂気じみた色をたたえており、その身なりには記憶があった。

 過去の依頼で別れたあともなおも付きまとってくる元彼氏をどうにかして欲しい、という内容だった。そのとき出鱈目を並べてなんとか押しとどめることができたのだが、こうして帰り道を狙って報復してくるとは露ほども思っていなかった。


「よぉ。会いたかったぜぇ」


 頭上から投げかけられる声はまとわりつくような粘度がある。


「……こんなところで会うなんて奇遇ですね」


 俺は苦い顔をしながら精一杯の減らず口を吐く。

 その言い分を苦言だと思ってやまない男は余裕を崩さない。


「そうだなぁ、つい知っている顔に合ったから話したくなってなぁ。ふたりで、な」


 以前から俺のバイト先を知っていたのだろう。それともいつから背後をつけられていたか。普段は自転車を使っていたから強襲に遭わずにすんでいたのかもしれない。いずれにしても好ましい状況ではない。


「どうよ、ミサトとはよく会うんだろう、おまえに奪われてから俺はずっとひとりでなぁ。あいつとは何回ヤったんだ? 顔はいまいちだがいい身体してんだろ?」


 男の関心は別れた女との関係を取り戻すことに注がれていた。

 下卑た発言にめまいを感じながらも、声を落としてなるべく平静を装った。


「あれきり一度も会ってませんよ。前にあなたと会ったきりあなたたちとは関わってません」

「嘘つけよぉ。まぁ捨てられてもおかしくないかもなぁ。誰彼かまわず尻を振りやがるのさ、あの女は。ちょっと優しくしたらきゃんきゃんとメス犬みてぇに吠えるんだよ。どうせてめぇも捨てられた口だろ?」


 男は妄想癖なのか。こちらの言い分には耳を貸そうとしない。


「てめぇの家に上がり込んでやろうと思ってたんだけどなぁ。しかたねぇ、あいつが今どこにいるかだけで勘弁しておいてやるよ。なぁおい、知ってるんだろぉ?」

「だからあなたから加賀さんを奪ったつもりなんてないんですよ。今どこでなにをしているかなんて……」


 俺がそう言い欠けた瞬間、男の身体が接近してきた。先ほどまでの緩慢な動作からは思いもつかない素早い動作。相手の拳が腹部に打ち込まれる直前に身体をひねって直撃は免れたが、体勢を崩して膝をついてしまう。男は立て続いて右足を振り上げる。鎌のように円弧状の運動を伴って俺の左肩に突き刺さった。アスファルトの上を転がされた格好から腹部に靴底を押しつけられる。それで完全に姿勢を封じられた。

 地べたで見上げた男の顔は蔑んだように笑っていた。その表情は不自然に歪みを帯び、焦点が合っていない。これ以上、男を刺激するのはまずい。


「おぉい、そんなはずねぇだろ? 会ったことあるんなら番号くらいわかるだろ?」

「……番号は消しました。二度と、関わることは……ないと思ったので」


 俺の言葉を聞いた瞬間、男の右足は強くめり込んでくる。たまらず苦悶の声を漏らした俺を見て、男のにやついた笑みは度合いを増す。


「うそはいけねぇな、なぁ番号を教えるだけだぜ? べつに難しいことじゃないだろぉ? あのアマ、俺が外から電話かけてやっても取りやがらねぇんだよ。携帯の番号はつながらねぇし。なぁどう思うよ? カワイソーな俺に同情してくれない?」

「身から、出た錆だろ……」


 俺の腹いせまぎれの言葉は男には通じなかったようだ。怪訝な面持ちで俺を見返してくる。


「まぁいい。なぁ、どうする? 教えてくれるなら家にこのまま帰してやんだけどなぁ?」


 男の言葉には今も軋みをあげている腹部の痛覚を思うと飛びつきたいほど魅力的だった。その裏腹、単なる口車だという可能性が拭えない。

 依頼者の連絡先を消去しているのは本当だ。保存データ内でも、NeDiでも痕跡を余さず消しておくようにしている。個人情報ということもあるが、なにより二度と関わりあいになりたくないと思っていたからだった。

 その上でどうやって男から逃げ出すか、情報をだしにして隙を見て逃げ出すほかないように思われた。

 俺は寝そべったまま、まず足を避けてくれるように男に懇願した。男は案外と素直に俺の提案を受け入れた。


「まず……携帯から、連絡を取る……電話番号がわかればいいんだろ……」

「最初からそういってくれりゃあいいんだよ」


 男は愉悦そうな笑みを浮かべている。俺は上半身を起こし、ポケットから携帯を取り出そうと視線を腰元にそらした。そこで視界の隅で男の足が持ち上がったのが見えたと思うと、つま先で胸を蹴りあげられた。

 再び濡れた地面に転がった俺の脇腹を容赦なく蹴り続ける。重い痛みが断続的に身体を揺さぶってくる。声にならない叫び声をあげる俺に、視線をあわせるたびに男の笑みは深まっていく。


「ハハハッハハハハ!! ただですむと思っていたわけじゃないだろぉ!? 安心しろよ、ちょっと痛い目を見てもらうだけだからよぉ!」


 男は蹴られてうつぶせになった俺をさらに蹴り返して引っ繰り返す。

 口から押し出された空気に赤いものが混じり、雨水が気管に入る。たまらず身体を曲げて咳き込む俺に注がれる視線は嘲るような態度。もはや男の目からは俺が人間として映されていないように思えた。


(殺される――)


 転がされた拍子に頭を切ったらしい。血が片目の視界を塞ぎ、なおも続く痛みが意識さえも塗りつぶしていく。おぼろげに浮かぶ思考で考えたのは愛茉音のことだった。こんなことで最期になるのならまともな別れ方をしたかった。半年間とはいえ、彼女の存在はいつしか心の支えとなっていたのだ。

 それまでより強い勢いを伴って男の足が鳩尾に突き刺さる。もはや抵抗する気力を持ち合わせていない俺は、一回分横転をしたあとコンクリートの壁にぶつかり動きを止めた。男はわずかな時間のあいだにぼろくずのようになった俺の胸ぐらをつかみ、身体を持ち上げると顔を寄せて話しかけてきた。


「なぁ、おまえって女はいるの? 彼女に電話かけてくれない? おまえの目の前で犯してやるからよぉ。そしたらこのくらいで勘弁しておいてやるよ! どうよ、ひゃはは! そそられるだろぉ!?」


 男は自分の考えているプランがよほどお気に召したらしい。甲高い笑い声を響かせて、ひとり悦に入っている。


「おまえは俺の女を奪ったんだからその権利はあるよなぁ? おまえの女を目の前で犯してやるくらいわけないだろぉ? なぁ?」


 醜悪だ。

 目の前の男が狂った笑い声を雨空に向けてあげるのを靄がかっていく思考で聞く。それでも沸々と沸き上がってくる怒りが男の表情を見据える。こんな男のために人が蔑ろにされていい道理があるわけがなかった。それこそ不条理に違いなかった。

 俺が暗い怒りをこめた感情を目に宿していると、その表情が癇に障ったらしい。男が気に食わなさそうに口の端を曲げた。右手の拳が振り上げられていくのを妙にスローモーションになった視界で眺めた。

 路地の入り口から声が聞こえたのはそのときだった。


「てめぇっ! 俺の息子になにしてやがる!!」


 怒号をはらんだ音声には聞き覚えがあった。つい先ほど、去り際で聞いた声だと思ったとき、幻聴だろうか、と一瞬疑いを持ってしまったほどだ。だが、異変を察知した目の前の男の態度からそれが現実らしいと判断できた。

 噴煙さえ立ち上らせそうな憤怒の表情が男に迫っていく。幻覚かと思われた店長の姿はすぐそばまで近づいてきた。


「あんだよてめぇ! 引っ込んでろよ!」

「自分のガキをんな目に遭わされて黙ってられると思うなよたわけがぁッ!!」


 突如現れた店長の気迫は楯突いた男を半歩引き下がらせた。いつもの気のいい笑顔ではない。その目は燃え上がり、隆々とした肉体は威圧感を隠そうともしない。まるで、般若のような恐ろしさを秘めていた。

 店長の鋭い威圧に押されてしまい、形勢が悪いと悟った男は脇につばを吐き捨ててから背を向けて走って行った。


「二度と来んじゃねぇ! このボケナスがぁあッ!!」


 路地を曲がって消えていく姿に最後まで睨みを利かせ、鼓膜に響く大音声が男を追い立てた。

 一拍置いて気を落ち着かせるように深呼吸をすると、傍らでうずくまっている俺に視線を移した。その表情は打って変わって切なげに歪んでいた。


「伊鈴、だいじょうぶか? しゃべれるか? すぐに救急車呼ぶからもうすこし辛抱してくれ」

「救急、車……」


 揺れ動く視界がすぐそばにあるらしい店長の輪郭すらたどることができなかった。

 ただ、そのいつもの頼れる姿を見つけてからは安堵感が一挙に押し寄せ、俺は繋ぎ止めていた意識を失っていた。

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