硝子の砕ける音②

 一ヶ月に一度ほど定期的に通話する仲がいる。思い出した頃にメッセージが入っていて、何度かのやりとりのあとに一時間ほど話し込む。

 タオルを頭にかぶって頭を乾かしていると、そのタイミングで発信音が聞こえてきた。画面表示の赤い電話アイコンに触れ、スピーカーを耳に向けて持ってくる。


『もしもし』

「よう、一ヶ月ぶり」


 俺の気の抜けた返し方に通話の相手はくすくすと笑う。


『もう、それ毎回いってるじゃない』

「まえは三週間くらいだったぞ」

『細かいよぉ』


 何回かのやりとりで相手の久々に聞いた固い声がすこしほぐれる。すこしおっとりとした間延びした声音が特徴的だった。

 里絵とはNeDiを使っているときに『再会』した。前に面識があってから八年も経過した。住んでいた孤児院で別れたうちのひとりだった。

 彼女は現在大学へと通っているらしい。奨学金を使い、バイトで生活費を稼いでいる身ではなかなか苦心しているようだ。

 俺は高校を卒業した途端に働くしか道がないと思っていたからこそ、その選択には驚いた。だからこそ彼女にはどんな思いをしてでもがんばって欲しいと思っていた。自分たちの身の境遇に、失望以上の思いを抱けなかったからだ。

 里絵への将来の期待は、暗い未来しか想像できない自分の境遇を、すこしでも晴らしてくれるものだと勝手に期待をしていたのだ。

 俺はそういった期待を込めた感情を里絵にさとられないように振る舞うことに努めていた。何気ない口調で彼女の様子を聞き出すことを常としていた。


「大学はどうだ?」

『やっぱついていくのが大変。でも夏休みは長いし、友達とどこ行こうか、って話でも盛り上がってる。ていうか伊鈴君、父親みたいな訊き方しないでよぉ』

「おまえみたいな娘だったら学費も入れてやらねぇよ」

『ちょっと、それどういう意味よぉ』


 怒ったような声音を出す里絵に俺は意地悪く対処する。

 こうしたやりとりで近しい存在だと認知できるのは俺にとっては貴重なことだ。最近はバイト仲間や顔見知りと挨拶程度にしか声を交わすことがなかったので俺の声も弾んだ。

 里絵と話していることはとりとめもないことなのだが、昔の様子を知っていた人がどんなふうに過ごしているか、と聞いているのは悪い心地じゃない。

 ただ、話すうちに里絵の口数が減っているのに気がかかった。反応もどこか上の空といった様子で短い機械的な返事しか返ってこなかった。


「なぁ里絵、具合悪いなら早く寝ろよ?」

『えっ、いやそんなことっ……』


 突如、しゃくり上げるような声が電話口から聞こえてきたことに、俺は動転した。


「お、おい、どうした? 俺悪いことでも言ったか?」

『ち、ちがっ……ごめん、っく、ごめんなさ……!』


 必死にとどめようとする声とは裏腹に、徐々に呼気が荒くなってくる。


『こんなっ、つもり、……なか、たのにっ……ちが、……っく、そうじゃ、なくて……!』

「おい、とにかく落ち着けって……!」


 突然泣き出した里絵の姿にただ俺は翻弄されていた。

 部屋の隅でテレビを眺めていた愛茉音は不安そうに俺の方向を見つめている。

 息も続かない里絵の調子が落ち着くまで声をかけ続けた。一〇分ほどしてなんとか話ができる程度には平静さを取り戻す。突然態度を変えた彼女の心理に何があったのか、俺には検討の余地すら見つからずにいた。要因を知りたい欲求に駆られるが、泣き声を交えて理由を答えてもらうわけにもいかない。

 俺がそうして声をかけそびれていると、里絵自らおずおずと会話を切り出した。


『ごめんなさい、こんなつもりじゃなかったんだけど……』

「気にするなよ。つらかったなら話聞いてやるよ。……なにか、あったんだろ?」

『……うん』


 スピーカーからのノイズ混じりの沈黙が彼女が逡巡している様子を伝えていた。数十秒の静かに波をさらう音の間のあと、水泡が浮かんでは消えていくように、たどたどしい声が訊ねてくる。


『伊鈴君、は……彼女、いる?』


 思ってもみなかった方向からの問いに反射的に口を開きそうになったが、里絵が息もつかせぬ沈黙を守っていることが直前でわかった。このことは里絵の真摯な態度の証明だった。

 疎意にするわけにもいかず、俺はなるべく素直に答える。


「いない。今のところは持とうとも考えたことはないな」

『そっか……』


 どこか安堵した吐息が聞こえてきたのはどういう意図を経た結果だったのだろう。胸がざわつくような、なんらかの予兆が俺の体内を駆け巡った。


『私、彼氏いるんだけどね。付き合って一年くらいになるんだ。私なんかを選んでくれたこと、今でも感謝しきれなくって。性格はちょっと頼りないけど、優しいし、いつも気を遣ってくれるし。ね、不満があるわけじゃないの。彼といる時間が楽しくて、愛おしいの。なのに、私――』


 ――昨日、ほかの男の人と寝ちゃったの。


 里絵が告げ知らせたその内容が俺の頭を激しく揺さぶった。雷鳴のように行き渡るその内容が俺の脳内をかき乱していく。動揺から危うく携帯電話を取り落としそうになった。

 響いてくる乾いた笑い声は諦めきったような、やるせなさを抱えたものだった。それきり堰を切ったように彼女の言葉が流れ出しては俺の鼓膜を揺れ動かしてくる。


『ねぇ伊鈴君はわたしのこと軽いって思うよね。思うよね? わかってるの、わかってるのに、そういわれること。でもわからないの、なんで、わたし、あんな、あんなこと……! 自分でもわからない、わからないの!』


 彼女の感情の奔流は思案を試みる俺の内面さえ、焼き焦がして塗りつぶしていく。慰めの言葉も、打開するための気概も、すべては燃え落ちて焼け残ることもなく灰となっていく。

 彼女の悲痛な叫びを、良心の呵責と罪悪感に板挟みに遭う彼女の救いを求める様を、俺は呆然と聞き流していた。


『彼のこと、好きで、大切なのに、ちがう、私、そんなつもりなかった。でも、ひとりだって思って、まわりに人がいるのに、誰もいない、どこにもいない、私しかいない、って思ったら、もう、止められなかった。そうなの、昨日の人は悪くない、悪いのは私で、でも、誰か、そばにいてほしかった、そうしないと、押しつぶされそうで、怖かった……怖かった! 怖かったの!』


 再び嗚咽を漏らしながら吐き出される言葉は、彼女の欠落を訴えるものだった。埋められない欠損が彼女の実像にひびを入れていく。恐れ、怯えて泣き崩れる彼女の目には、きっと直視することができない孤独が大きく牙を剥いて待ち受けているのだ。

 泣きじゃくりながら、ぽつりと漏らしたその言葉は彼女の偽らざる本心だったのかもしれない。台風の目のように、ふっと掻き消えた悲嘆の声のあいだ。『伊鈴君』とその間に俺を呼ぶ声には、先ほどまでの情緒に満ちた温度は感じられない。


『……ねぇ、私たちって、呪われてるのかなぁ?』


 彼女の冷たい独白は、淡い期待を抱いていた俺を押さえつけ、縫い止めていくのだった。細い糸のように注いでいた淡い光さえも見失い、俺の視界は暗く閉ざされていく。 

 思い起こされるのは風の便りで知った孤児院の仲間たち。彼らはまっとうな人生を歩めることはなかった。

 二年前、俺と新しい孤児院にやってきた過去の少年は、暴力沙汰を起こして職場を追われた。ほかの仲間たちは、薬物乱用や傷害事件を起こしてしまい、警察に取り押さえられたと聞いた。


 俺たちは自らどうしようもない孤独さを抱えている。それは欠けたパズルのようなもので埋め合わせられないピースをいつも探している。いくら求めても、探しても、型にはめることができないピースを。当然だ、俺たちはそのピースがどんな形をしているのかがわからない。

 両親のいない俺たちは愛情がどんな形をしているのかがわからない。それはどう求めれば手に入るのかがわからない。里絵のように寄り添う相手を見つけても、その孤独さは牙を剥くようにふとした瞬間に俺たちを覆い尽くし、貪っていくのをやめない。

 俺はその瞬間を恐怖し、だからこそ誰かから求められることをやめられない。そうだ、きっと母親の愛情を知らずに育ったものたちは普通という枠組みからあぶれる道理なのだろう。

 きっと俺たちは……。


(――生まれてきたことが間違いだった)


 世に絶望し、病床に伏せたまま希望を持つことができなかった彼女。今になってその気持ちが痛いほどに身に沁みていた。

 いや、本当は目を背けていただけなのだ。

 世に認められず、足並みを揃えられず、廃絶されるだけの俺たちは、どうして醜く足掻いてまでして生き延びなければならないのだろう。


 今まで目をそらしてきた事実に打ちのめされていた俺は、泣きじゃくる里絵に声をかけるすべを持たなかった。それは里絵より長く生きてきたとしても、値する答えを見いだすことができなかったからだ。

 無力な自分の歯がゆさを、悔しさを押さえることができずに、近くの壁に向けて勢いよく拳を叩きつけた。震える拳の上に砂粒のような小片が舞い落ちる。

 その音が引き金となり、電話越しから聞こえていたむせび泣く声が押し黙る。


『ごめんなさい、こんな話して……もう、切る、ね。おやすみ』


 不自然に明るい声音を作って、里絵は早口で言い残す。間の抜けた電子音が部屋に反響し、その音がテレビの安っぽい笑い声でかき消される。今の心境のまま耳障りなタレントの笑い声を聞くことに抵抗があったため、俺はリモコンでテレビの電源を腹立たしげに切った。

 リモコンとスマフォを振り落とすようにして机の上に置くと、どっと脱力感が押し寄せてくる。先の黒ずんだ蛍光管を見ながら俺はやるせなさを感じていた。

 テレビの前にいた愛茉音は、通話が切れたことを契機に俺の近くへと歩み寄ってきた。


『ゴメン……見え、ちゃった……』


 愛茉音は申し訳なさそうに面持ちを沈めている。侵してはいけない一歩を進んでしまったかのような表情だった。

 見えた、というのはふとした拍子に俺の考えていることが共有されてしまったということだろう。里絵の感情に飲み込まれるようにして抱いた激情は、思考を共有する彼女に隠しても隠しきれるものではなかった。

 今まで愛茉音は、かたくなに俺の思考の深層まで読み取ろうとしたことはなかった。俺の考えを読もうとするとき、独特のむずがゆさのようなものを覚えるのを知っている。しかし、先ほどの出来事は衝動的な力量に押し流され、さながら土砂が崩れたように彼女に注がれたに違いなかった。

 不可抗力であるとはいえ、俺のひた隠しにしていた傷を覗いてしまったことに対し、罪の意識に苛まれていたのが彼女の表情から窺えた。

 それももちろん理由のひとつだが、別のわけから彼女を責める気にならなかった。

 それは同時に俺の側へと流れ込んできた、押し隠していた彼女の苦悩が感じられたからだ。


『アキヒトは……その……』


 彼女は突然知った俺の境遇になんと告げていいか思い迷っている様子だった。俺は助け船を出す要領で彼女に声をかける。今さら隠し通せるものでもない。


「親はいない。顔も覚えてない。俺は孤児院で育てられたからな」


 俺の端的な告白を受け、愛茉音の表情に苦いものが混ざる。

 そんな俺に投げられる言葉は、同情とは違う婉曲的な物言いだった。


『昔の孤児院で育てられた子たちって死亡率がとても高かったんだ。聞いた話なんだけどね。それを改善したのは保育士がタッチするように赤ちゃんの身体に触ってあげるってだけだったんだ。……逆に言うとね、母親との触れ合いの時間が育つ上でとても大事なんだ』


 物心ついたときには俺は孤児院に預けられていて、面倒を見てくれたのは老夫婦のふたりだった。普通の幼児のように甘えたり駄々をこねることがないためなんとかみんなを育てられた、と聞かされた。

 しかし今の話によれば、俺たちはただ、甘えても結果が変わらないことを知っていたのだ。呼んでも誰も来ないことを。泣いても誰も来てくれないことを。それらを直感で感じ取っていたからこそ、誰も騒ぎ散らすことはなかったのだ。

 浮かない表情を浮かべる愛茉音は自ら触れられないローテーブルに腰を下ろす。


『でね。わたしも、さ。たまにこのままでいいのかなって思う。身体を動かしていても、昔のことを思い出しても全部、実感がない。……わたしはどこにいるのかな』


 俺が愛茉音から感じ取ったのは、俺たちと起源を同じくする圧倒的な『孤独』だった。


『わたしが見渡す風景はただ見えるだけ、すぐそばにあることがわかってるのに、届かないの。なにをしても、なにも手に取ることができなくて。自分で手に取ることができないなんて、もの悲しくなってきちゃうの』


 いつしか、ぼろぼろとその双眸から大粒の滴がこぼれ落ちていく。水滴は不自然にも、絨毯の上に落ちても濡れた形跡もなく、悲しみの跡を残さなかった。彼女は涙を拭おうともせず、透明な結晶が流されるままになっていく。

 愛茉音は自分の身体を抱き寄せるように腕を組んだ。曖昧な輪郭を持つ細い肩が震えていた。


『わたし、今のアキヒトがすごく、傷ついてるってわかる。考えるだけで胸が、痛い。痛くて、つらい。なのに、なのに……、なんで、わたし、抱きしめてあげることもできないのかなぁ……?』


 互いにすぐそばにいるのに、誰よりも近い距離にいるはずなのに。俺たちの心の距離は埋められないままだった。遮断する見えない壁が、手を伸ばしても触れられない距離に形作られていた。

 俺たちの願いは、ただ、誰かに認められる、それだけでよかった。

 どうして、こんなことになったのだろう、と。俺は自問する。

 俺たちは誰の恨みを買って、里絵が嘆き、苦しんだ、呪いという戒めを引き受けなければいけないのだろうか。


 ――どうして俺は、泣いている人に手を差し伸べることもできないのだろう。


 どうしようもない無力感にさいなまれ、自嘲げに俺は顔を歪ませる。それから、更けていく夜を呆然と過ごしていた。

 自責の念からようやく理性を取り戻しかけたとき、愛茉音の姿はすでに視界から消えていた。

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