硝子の砕ける音

硝子の砕ける音①

 この手の悩みを何度か引き受けていると簡単な統計が取れるものがある。明確に数えたことはないが、早々に切り上げられるケースか、長引くかがそれだ。

 前者は双方がこの先関係を維持していくことは不可能だろうとおぼろげにでも察している場合。以前彼氏とともに彼女のマンションに訪れ、喫茶店に連れ出して和解したケースがあったがそれに当たる。

 後者ははす向かいに位置した男女が口論を続けており、それがいっこうに終結しなさそうなケースだ。

 今日この日、そんな目に遭いそうな予感を抱えている。まさに今起こっている事態がそうなのだが。


 場所はチェーンの系列である喫茶店だ。四方にはテーブルを埋めて談笑する若者たちが座っている。対面の相手と会話する傍ら、ちらちらと店内中央で高い声を上げる女性とその相手側の男性に視線が注がれている。

 公共空間ということを意識できるものは自然と声のトーンと気分を抑制しようとする理性がはたらく。どちらかの家ということになると慣れているのと、誰にも見られていないという気持ちも手伝い、感情的になりがちな場合が多い。

 今日もその心理的な抑制を見越し、彼女の家から離れた位置にあるこの喫茶店を指定した。

 俺は先に入店を済ませ、店内奥の窓際の席に陣取った。あとから入ってくる二人の話し合いを離れた位置から観察するためだ。介入するのは充分情報を得てからにしようと考えた。

 ただそれも、別の意味で期待を裏切られることになったのだが。


『一方的、っていえばいいのか、な……』


 俺の隣席に腰掛ける愛茉音の指摘はそれでも穏やかなものである。椅子など必要のないはずなのだが、人間的な振る舞いを好む彼女には、すでに疑念も持たないようになってきた。俺は改めて彼女の視線を追う。

 相手の言い分を封じ、息をする暇も惜しいというほどに放たれる罵詈雑言。人間性を完全に否定するようなその態度からは、彼女のほうが男性を飼い殺しているような風景に映った。

 男性側は俺の知り合いのひとりで寺島という。以前念願の彼女ができた、ということで喜んでいた彼の姿が思い起こされた。

 それが先日の電話では、必死に助けてくれ、と訴える声が聞こえる始末である。だからなぜ人は計画性がなく付き合うことを選んでしまうのか、俺は呆れて二の句が継げなくなる。


『計画性っていわれると、なんか冷めちゃうなぁ』


 唇を尖らせる愛茉音とは意見の相違があるらしい。俺には好きになったら一直線、などという熱情を味わったことはないから理解できないだけかもしれない。


『ふぅん。ま、そのことはあとで話すとして。どっちが悪いと思う、あれ』


 彼女がテーブルに肘をつきながら指を差す。善悪の基準で考えることはあまり好まないが、見ていて釣り合いが取れていないという判断はできた。

 寺島は今まで彼女という存在がいたことはなかった。そのことについて最近焦りを覚えはじめ、知り合いを介してNeDiからいまの彼女と交流をはじめた。そのうちに彼女のほうからも肯定的な意見が返るようになり、何度か会うようになってから告白を受けたという話だった。

 そのときは天にも昇る気持ちだったというが、彼女の棘のある言葉に身を震わせている姿を見ていると、どちらかといえば魂が天に昇ってしまったかのように見えた。友人というバイアスがかかっていても、正直気の毒に思う。


 俺は寺島から女性側に意識を向ける。

 女性の第一印象は派手だ。素足を晒したショートパンツ、脇に置かれているブランド物の鞄。グラスに添えられた手にはラメが散りばめられた複雑な文様のマニキュアが塗られている。すぐそばにはディープレッドのサングラス。明るい茶色の髪型は毛先がカールしていてさぞセットに時間がかかるだろうと推測する。顔立ちについても手は抜かれていない。扇情的な色の口紅、長い睫毛にくっきりとしたアイラインが引かれて目元の強さを強調している。

 一通り外見の観察を終え、俺から女性の身なりについて一言付け加えるとすると、趣味じゃない、というところだった。


『アキヒトの好みはどうでもいいんだけど。たしかに派手だね。あと、気が強そう』


 先ほどから繰り返されている一方的な会話を聞いていると、彼女は男にも負けないくらい気が強い。感情に引っ張られて視野が狭くなっているのか、周囲に気をかけられない余裕のなさはどこから来るのだろう。下手に徒手空拳で介入したところで俺もその餌食になることは見えていた。

 その場にいる寺島の様子はというと、先ほどから落ち着きなく視線を彷徨わせている。まるで誰かを探しているかのようだったが、もうしばらく堪え忍んでもらうことにした。俺は椅子に深く座り直して腰を落ち着け、それとなくメニューの陰に身を隠した。

 多少不憫だが、かれこれ二〇分ほど経過したあとだ。もう一度そのくらい堪えてもらっても変わらないだろう。傍らから半眼で睨まれるような視線を感じるがきっと幻想に違いない。

 その幻想様は俺を見てこれ見よがしに嘆息したあと、例の彼女について感想を述べはじめる。


『わたしは完璧主義な人に見えるかな。ファッションとか、お化粧とか、力はいってるし』


 愛茉音の見解は彼女を妥協しないタイプだと想定したものだった。

 俺はどうだろう。わだかまった思考を一度整理する。

 自分をよく見せるためには時間を惜しまない、それならたしかに完璧主義に見える。しかし彼女が見せる表情はどこか差し迫っていて感情的だ。ヒステリックにも聞こえる。

 完璧主義な人物は神経質な性格でもある。自分で置いたものがすこしでも位置がずれていると気になってしまう。自分が関与したものが失われることを恐怖する、そんな性質。

 サングラスにも共通点はある。一時期インフルエンザが流行ったとき、マスクの売り上げがコンビニで急増したことがある。それからしばらく経ち、流行も去ったとテレビで報道されたあともなお、マスクを外さない同僚を不思議に思って訊ねてみたことがある。


「今まで着けたことなかったけど、マスクを着けているとなんか安心するんだよね」


 同僚はそれから一月近く、気温が上がるまで着け続けたままだった。

 外気を遮断することで得られる安心感。それがマスクが果たす心地よさの要因としたら、サングラスは光を遮断する。外の空間から遮蔽されることで精神に安寧をもたらせるのだ。

 華美な化粧もそうだ。化粧が果たす役割は魅力を引き立てることだと思う。それなら人から見れば行き過ぎだとも思える化粧は、自分の本心を覆い隠すものだともいえるのではないだろうか。


『なるほど? じつは彼女さんが臆病かもしれないってこと?』


 愛茉音が感嘆するようなため息をついて訊ねてくる。少なくとも、俺にはあの女性が外交的な性格をしており、精神的に安定しているとは思えない。彼女はそうそう、と耳打ちするように顔を寄せてきた。そんなことをしなくても声は聞こえないはずなのだが。


『聞いた話だけど、女性って物への執着が高い気がするんだよねぇ。それにブランド物のお高い鞄って、他人に見せるためにあると思うんだ。ステイタス、っていえばいいかな』


 ステイタスといえば、自己顕示欲を物で代理することだ。

 あまり褒められたたとえではないが、昔のモテる男性像というのはステイタスで成り立っていたと聞く。簡単な論理だ。金を稼ぐ。良い車が買える。女にモテる。物はときに自分の身分を主張するための代替となる。


 愛茉音の意見も手伝って、彼女に対する予備知識もできた。気がつけば男性を放っておいてから一五分ほどが過ぎた。そろそろ助け船を出してもいい頃合いだろう。俺はスマフォを取りだして簡素なメールを打って送信ボタンを押す。

 少し待つと男性のポケットから音声が流れ出す。喫茶店に入る前、電話とわからないようにマナーモードから長い着信音に変えておくように指示していたからだ。

 寺島は慌てた素振りを見せたあと、鳴り止まない端末を片手に人気の少ない店の隅に歩み去っていった。

 残された女性を見ると、はけ口がいなくなってから憮然とした表情を浮かべていた。今にも席を立ちそうな雰囲気を立ち上らせている。


 俺は軽く肩をほぐしてから、一度気を引き締めるようにしてから椅子を引いた。

 本当に肩が凝るのはこれからだろう。



 依頼者である寺島と別れ、俺は駅でひとり時間を潰していた。

 男は礼がてら車で送っていくと申し出てくれたのだが、他人と関わったあとはどうにも精神的に消耗する。寄るところがあるから、という言い訳を使って辞退することにした。

 時刻は夕暮れ。梅雨時の厚い雲が薄暗さを助長する。今日は傘を鞄に忍ばせてきたが、なるべくなら降られる前に帰りたかった。

 時間を確認するためにポケットからスマフォを取り出したが、電子音とアナウンスが今し方電車がやってきたことを告げ知らせてきた。塗装のはげた樹脂製の椅子から腰を上げると、長い車体が滑るようにしてホームに入っていく。

 空気を噴射するような音とともに目の前でドアが左右に分かたれて開いていく。残念ながら座椅子は満席らしく、俺はそのまま背後で閉まったドアにもたれかかった。


 車内を見回すとみな思い思いの空間を広げている。少年誌を広げる人、ヘッドフォンを着ける人、新聞を広げる人、隣の人にもたれ掛かって眠る人、スマフォを必死に操作する人。

 俺の視界の先から見える座席では学生と思われる男女の四人組が対面して座っていた。それぞれスマフォを抱えながら、時折周囲に画面を向けてのぞき込んでは歓声を上げる。そしてまたぽつぽつと会話を交えながら自分の端末の画面へと視線を戻す作業を繰り返す。


『あれっておもしろいのかなぁ?』


 過ぎ去っていく田園風景を背後に、彼女の姿が現出する。愛茉音の視線はその学生たちに注がれた。

 

『なんか、みんな自分の画面を見てるのに中途半端に声を掛け合ってる。いっしょに帰らなきゃいいのにね』


 常識からすれば集まっているときには談笑に興じ、ひとりになるときには携帯の操作に没頭する、という場面が一般的だった。

 そして最近でよく見かけるようになったのは、誰かと過ごしながらも、端末を操作する場面。器用な真似ができるな、と感心する反面どこか薄気味の悪い気持ちも覚える。

 愛茉音にはスマフォをはじめとする携帯機器の知識はあったのだろうか。俺は脳内で問いかける。


『スマフォは知ってたよ。どうやって使うか、なにができるか、っていうのはある程度。ただやっぱりわたしがそれを使ってた実感みたいなのがないんだよね』


 愛茉音の記憶は知識だけが先行して記憶や思い出といった実感が伴わないことがたびたびある。今の場合でもそうだ。

 ただ、スマフォを使用していた、というのなら彼女が最近になって出現したらしい、ということがわかった。愛茉音は少なくともスマフォが一般的な時代にいたらしい。

 

 携帯電話というと、使用者のプライベートが詰まっている印象を与える。

 自分で操る端末の画面は私的領域だ。たとえ一時でも相手に画面を見せることはあっても、そこに潜むプライベートな情報を、なんの躊躇いもなくおいそれと渡したりはできるはずがない。画面を覗いているあいだは私的な空間を広げているのと同じで、言い換えれば自分の部屋を持ち込んでいるのと何ら変わりはないのだ。

 いつから、電車の中などの『他人がいる場所』で『自分の空間』を持ち込めるようになったのだろう。その流れは日に日に加速していっているようにも思える。

 隣で友人と会話に興じているとき、友人はその傍らNeDiでメッセージをやりとりしている。別の他人と、意思疎通を図っている。もちろんこの場合は俺が隣にいることを考慮しながらだ。だから時折思いついたように俺に声をかけてくる。俺は、彼の私的な領域にいる『ひとり』なのだから。


『わたしがアキヒトに話しかけているのに、声をかけられてからやっと気づいた、ってことをされるとムッとしちゃうよね。すぐ近くにいるのに、遠くの人の方が大事なの? ってさ』

(たぶん、それが普通の反応なんだろうな)


 俺は顔を寄せてくる姿に振り向かないまま小声で答える。時折忘れそうになるが周囲は愛茉音がここにいることを知らないのだ。

 俺たちは距離が離れていてもすぐにメッセージが到達する環境にいる。近所にいようと、海外にいようと言葉さえ通じればほとんど距離感を感じないほどに。だれかから送られたメッセージがどこから送られた、などとほとんど意にも介さない。重要なのはなんにしても誰から送られたのか。そして、親密さはどの程度なのか。

 送られたメッセージは相手が返信ができる環境にいるとすればすぐに返信が得られると想定する。そうして俺たちが画面の向こうにいるであろう相手との交流はどの場にいたとしても保証される。自分の私的領域は、たとえ近くに知り合いがいたとしても保証されている。

 こんなにも近くにいるのに孤立感は拭えない。彼らは時々公的な空間に目を向けてはまた関心を手元に戻してしまう。そこに広がっているのは希薄で、それでいて気楽なつながり。

 もはや俺たちは、連絡を取り合うためにメッセージを送受信するのではなく、ただ希薄で満たされない気持ちを埋め合わせるために端末を使用する。

 誰かと、どこでも、同じことを考え、共有する。どこかにいる誰かと体験を共有し、つながりを強固なものにしようとする。SNSが登場し、俺たちはそのような関係下に置かれているのではないだろうか。


――愛茉音は?


 そこまで考えてみて傍らの彼女との関係性に思い当たる。

 特別な関係というのは自分の覆い隠されていた部分を打ち明けられる誰かのことだと思う。深刻な悩みを相談できるような仲なら特別だといえるのだろう。だから親密な距離というのは会って近くで対等に話せ、悩みを打ち明けられる関係こそをいった。

 愛茉音はたいていの場合はすぐそばにいる。出来事のたいていは彼女と経験する。会話がほしいとき、彼女はすぐにそばに立っている。

 これを現代に生きる人が餓えている『つながっている』常態といわずして、なんといえばいいのだろう。

 だが実際の彼女とは、乖離している関係性があるのも事実だ。すぐそばに立っているのに、彼女の実体は存在しない。目の前にいるのに愛茉音とは完全に隔たる空間に立っている。

 今の時代、人と親しくなるにはいったいどうしたらいいのだろうか。誰が近くにいても孤独を感じてしまうこの世の中で。


 深層に至った俺の思考へは愛茉音は深く関与はしてこない。

 彼女は、応えない。

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