初夏のはじまり
開店時刻が過ぎて、人が入り始めたスーパーで、時計を気にしながら急いで品出しをしていると、背後から声をかけられた。
「三治さんの娘さん、あんたここで働いとるんやな。ちょっと教えてや」
振り向くと、瀬戸さんがそこに居た。内心の動揺を隠して、聞く。
「はい、何でしょうか?」
「このスーパーは、線香と仏花はどこに置いてあるんかな。こないだと、場所変えたやろ」
そういえば、ついこないだ、リニューアルと称して、たしかに商品の配置を変えていたのを思いだし、私は瀬戸さんに線香と仏花の新しい位置を、それぞれ教えた。
「どうもありがとう」
こないだの失礼な態度とは少し違う雰囲気を感じて、私はつい聞いてしまった。
「お墓参りですか」
「うん、そうや」
季節は四月の終わりで、お彼岸でもお盆でもない。誰の墓に行くのかと思ったのだが、詳しいことを突っ込むような仲では全然なかったので、私は黙っていた。すると瀬戸さんが、
「三治さんに、今年も筍を掘りにいこう、って言っといてくれんか。なんならあんたと息子も、来てかまわんぞ」
「筍、ですか」
「ああ、俺の親父が、山持っとるから、その山で採れるんや。三治さんと、一緒に、この頃は毎年行っとるから、あんたと息子さんも、せっかくやし一緒に行かんかなって」
どう返事をすべきか考えた。この男はいったい何を考えているのだろうか。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
「考えておきます」
そう言うと、瀬戸さんはにやっと笑って指摘した。
「あんたの着とる上着、裏返しになっとるよ。気を付けえ」
一気に顔に血が上った。確かめてみると、確かに羽織っていた黒のカーディガンが裏表になっていた。どうして出がけに気付かなかったのか。
笑いながら瀬戸さんは去って行き、私は、やっぱりどうも瀬戸さんのことが苦手かもしれないと思った。
スーパーの仕事を四時に終えて家に帰り、金魚に餌をやっていた父に、筍掘りに誘われたことと、瀬戸さんが線香を買って言ったことを伝えると、父はしばらく無言でいたのちに、
「そうか」
と一言だけ言った。けげんな顔でいた私に、父は言った。
「瀬戸は、奥さんと息子を、だいぶ前にいっぺんに亡くしとるんや。今日はもしかしたら、月命日やったかもしらん」
「え、でも、バツイチだって、言ってたのに」
「バツイチじゃなくて、あいつは寡夫なんやけど、きっとバツイチって言った方が、心のハードルが低くて言いやすかったんやろな」
あまりのことに絶句していると、父は言った。
「ま、あんまり気にするな。筍掘りはみんなで行こうや。きっとその後、瀬戸がいろいろ料理してくれるだろうし、ただ千香子は楽しみにしとけ」
すっきりとしない気持ちのまま、私は父と並んで、家の庭にある金魚池を眺めた。すいすいと並んで泳ぐ金魚を、何分もただ見つめていた。
見事な五月晴れの日曜日、瀬戸さんの車に乗って、真人と父も一緒に、みなで筍掘りに出かけた。山道の途中に車を停めて降りると、山の中腹に続く小径を、草をかきわけながら登って行く。目当ての竹林は、二十分ほど登ったところにあり、柔らかい土や斜面に足をとられつつ、その場所に着くと、瀬戸さんが、「ようし、このあたりや」とドラ声を上げた。
「まず俺が掘ってみるから、見とらし。ここに筍の先がちょっと出とるやろ」
たしかに、土から、筍の頭らしき先っぽが5センチほど見えていた。瀬戸さんは自宅から持ってきたクワを振り下ろし、筍の周りから徐々に土を掘り起こした。三度、四度と、掘り起こすと、筍の本体がどんどん見えてきて、ぐっと傾いた。
「ほうら、掘れたぞ。坊主も、やってみんか」
瀬戸さんはそう言って、真人にクワを渡した。真人は、目をきらきらさせながら、別の筍の頭を見つけ、クワを振り下ろす。
「筍本体は傷つけたらだめやぞ、注意して、ほら、そう、そうや」
真人の後ろから、真人の身体を支え、一緒にクワを操ってあげる瀬戸さんの目が優しくて、私はいたたまれない気持ちになった。
同時に、元夫だった義時が、真人とこんな時間を持っていたときがあっただろうか、と私は思い返した。義時は、仕事仕事で、ほとんど家に寄りつかなかった。休日、寝ているところを真人に「遊ぼう」と邪魔されて、ひどく激昂していたときもあった。
でも、義時だけが悪かったんじゃない。私自身、自分が何を大切に人生を生きていきたかったか、それが曖昧なのがいけなかったのだ。
ぴしっとスーツを着て、仕事をばりばりやっている夫が、理想だと昔は思っていた。けれど、義時は、常に家では苛々し、私と真人をひどく怒鳴りつけ、王様のように振る舞った。私は義時の召使だった。
義時と離れて、故郷でゆっくりと流れる時間に体を馴染ませると、どれだけ自分が痛めつけられていたのか、よくわかった。
筍を五つも掘り、車に乗って私たちは、父の家へと帰った。瀬戸さんも、家に上がりこんできて「台所借りるよ、三治さん」と言って、シンクで手を洗い始めた。
「何か手伝うことはありますか」
私もエプロンをしめて、瀬戸さんのとなりに並んだ。
「筍、縦に切ってや。そんで、中身だけ取り出す」
言われた通りにやっていると、瀬戸さんは大鍋にお湯を沸かして、ガーゼの袋に米ぬかをつめたものを放り込んだ。
「これで灰汁ぬきできる」
そのまま一時間ほど茹でることになった。鍋の中を見ている瀬戸さんに、私は声をかけた。
「ご家族を、亡くされたと聞きました」
瀬戸さんは「ああ」というと、
「こないだは線香ありがとう」とぽつりと言った。
「だいぶ昔の話や。八年ほど前に、この辺大雨で土砂崩れが起きたやろ、そのとき」
「そうでしたか」
そのニュースを、私も思いだした。あの頃は真人がまだ小さくて、私の実家の近くの災害のテレビニュースを食い入るように見ていた私に、義時が「市の対応の初動が悪い」だの「警報が鳴っていたのに、どうして避難しないんだ」などと、さんざん勝手に毒舌を吐いていたのだった。自分が突っ込んで聞いてしまったことと、あの日の義時の悪口を思いだして、なんとなく申し訳ない気分になり、謝った。
「思いださせてしまって、ごめんなさい」
「いや、いいんやって。今日は楽しかった。千香子さんと、真人くん見てると、ちょっと俺も、楽しかったわ。昔に戻ったみたいやった」
茹で上がった筍は、先端の柔らかい部分を刺身に、残りを炊き込みご飯にすることにした。
「筍の刺身は、だし醤油とわさびで食べても、酢味噌で食べても、美味いから」
私も瀬戸さんも、それ以上今話した話題に突っ込むことはなかった。ただ、私にいろいろ事情があるように、人にも、見た目からではわからない、いろいろな事情を抱えているのだ、ということがわかった日だった。
筍尽くしの食卓に、真人は大喜びで、刺身も、筍ご飯も、生わかめと一緒につくった若竹汁も、きれいに残さず平らげてしまった。あの食の細かった真人が、こっちの食生活に慣れて、こんなにたくさん食べてくれるようになったと思うと、私の感激もひとしおだった。
瀬戸さんも、大柄な体躯にふさわしく、筍ご飯を三杯もおかわりして食べ、父が勧めた日本酒を、美味しそうに飲んでいた。とても、楽しい晩だった。
五月の終わり、風邪を引いた。少し暑くなってきたので、布団を脱いで寝てしまっていたらしかった。朝熱を測ると、七度四分あり、でも大丈夫だから、と無理を押してスーパーの仕事へ行き、帰ってきてみたら、熱は八度二分に上がっていた。
ふらふらしながら布団に倒れ込み、うんうんいいながら寝込んだ。感染るといけないから、と真人をそばに置かないようにし、水分だけ補給して、ずっと寝ていた。
やっと起き上がれるようになったとき、父がたまごがゆをつくってくれていた。その傍には、小皿に乗せた梅干しが二つ、並んでいた。
「ありがとう、父さん」
まだ熱の残る声でそう言うと、父は言った。
「これ、ばあさんが元気だったころ、二人で漬けた梅干しなんや。今年も、もう少しで梅の季節だから、もし千香子さえ手伝ってくれるなら、また漬け始めようかと思ってな。青梅を買ってもいいか?」
「うん、手伝うし、漬けようよ」
優しい味のおかゆに、深みのある味の梅干しは、よく合った。父と母は、長年連れ添った、良い夫婦だったのだな、としみじみした。
長年連れ添った夫婦に、私と義時もなれなかったし、瀬戸さんと奥さんも、それが叶わなかった。夫婦という、わかっているようで、全然わかっていない、その道。その道を、この先また誰かと歩むことになるのか、そうでないのか、今はわからない。
けれど、こうして、誰かと美味しいごはんを食べたり、誰かに美味しいごはんをつくったり、その繰り返しをする関係が、家族という営みなのだろう。
「ママ、元気になった? おじいちゃんと一緒に、僕がママのために剥いたんだよ」
真人がそう言って、小さなガラス皿を持ってきた。その中には黄金色に光る、枇杷が二つ並んでいた。その光をはなつ小さな丸い果物を見て、私は真人を抱きよせた。
「ありがとう、ママはもう大丈夫だよ」
開け放った網戸の前に吊るした風鈴が、ちりりんと鳴って初夏を知らせる。みんなで迎えることになる、この町での夏が、ただ楽しみだと思った。
春をいただく ほしちか(上田 聡子) @hoshichika87
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