ひとくち和菓子

 父の家からすぐそこの坂道の、桜が八分咲きになった頃、父が私におつかいを頼んだ。


「今日はばあさんの見舞いに行こう。連れ出して桜を見せてやりたい。千香子、ばあさんに、ついそこの『村中』で何か買ってきてくれんか」

 

 『村中』というのは近所の老舗の和菓子屋だ。


「この時期なら、桜餅とか、いちご大福かな? 母さん、何が好きだったっけ?」


「ばあさんは、ここの家に居た頃は、年中『村中』で菓子を買っておったからなあ。ばあさんの好みは、わしより、『村中』の奥さんが知っとるかもしれんなあ」


「じゃあ、聞いてみるよ」


 財布だけ持って、家を出た。カレンダーは弥生から卯月に変わり、外はうらうらと陽射しが暖かい。『村中』まですぐの距離を、すぐそこの春を確かめるように、ゆっくり、ゆっくりと歩いた。


 町屋風のショーウインドウには、かわいいうさぎの人形が、年中飾ってあり、それを見て頬をゆるませると、「こんにちはー」と中に声をかけた。


「はいはい」


 中から、白髪になった奥さんがにこにこと出てきて、私の顔を見つめる。思いだせそうで、思いだせない、というような表情をしているので、自ら言った。


「千香子です。あの、高山三治の娘の」


「ああーっ、千香ちゃん! あれあれ、もうこんな大人になって。帰省しとるんかね」

 

 やっとわかった、という風情の奥さんに、苦笑して答えた。


「いえ、ついこの間離婚して。こっちに息子連れて帰ってきちゃいました」

「そうだったんやね。大変やったねえ」


 眉をへの字にして、同情の声を寄せる奥さんを見て、私はやっと本来の目的を思いだした。


「あの、老人ホームの母に、何か和菓子を買ってこい、と父に言われたんですけど、うちの母、村中さんのお菓子で何が好きだったんでしょうか。私も父も知らなくて。でも、母は、元気だったころは、ここの常連だったみたいですから」


「そう、梅子さんのお見舞いに行くのね。梅子さんが、好きだったのはね、これ」

 

 奥さんは、ショーウィンドウの中の一角を指さす。格子状に仕切られた小箱の中に、うす黄色のまるい餅が並んでいた。


「……ひとくち柚餅子(ゆべし)」


 和菓子の前に置いてあるプレートにはそう書いてあり、読み上げると、奥さんは笑った。


「梅子さん、これがいっとうごひいきだったのよ。柚餅子というのは、そもそもまるまる一個の柚子の中身をくりぬいて、餅をつめて蒸して乾燥させたものだけど、このひとくち柚餅子は、それよりも食べやすくてね。こっちは、柔らかい求肥に、柚子を混ぜ込んで、まるめたものなの。梅子さん、年中買いに来ていたわ」 


「お花見を家族でするので、じゃあ、二箱ください」

 

 十個入りのひとくち柚餅子の箱を、二つ包んでもらうと、私は奥さんに御礼を言って外へ出た。どこかで、鴬のまだ下手な鳴き声がした。 


 真人も連れて、三人で老人ホームに向かい、玄関で面会の手続きをする。母はまだ七十代半ばだというのに、認知症になってしまい、考えた結果、老人ホームに入所させたのだと、離婚の結果私が実家に帰ることになったと報告したときに父から聞いた。


 今年四十歳になる私は、母が三十七歳のときの、遅く産まれた子どもだった。老人ホームの廊下を歩き、母の個室へと向かう。真人はずっと私にくっついている。

 

 個室に入ると、母は寝椅子で、すやすやと眠っていた。


「梅子。梅子」


 父が声を掛ける。うっすら目を開けた母に、私も声をかける。


「母さん、ただいま。千香子だよ。孫の真人もいるよ。今日は、ホームの外の桜を見ようね」


「ちか、こ? さく、ら?」


 目を開けた母のまなざしはぼんやりとして、焦点を結んでいない。私を見ても、真人を見ても、娘や孫だと、理解ができないのだ。

 

 父は老人ホームの介護スタッフさんにお願いして、車椅子を用意してもらうと、スタッフさんと一緒に、母をそこに乗せた。


「梅子さん、桜を見にいくぞ。さあ、出発だ」

 

 まだぼんやりして、ともすれば、車椅子に乗ったまま、また船をこぎそうになっている母にかまわず、父は私たちを連れて、車椅子を押してホームの外へ出た。


 ホームの庭には、立派な枝ぶりの大きな桜があり、薄ピンクの花があふれるように咲いていた。ひらひらと花びらが舞い散るその下で、ひとくち柚餅子の箱を開けた。


 まっさきに手を伸ばす真人に、ひとつ楊枝にさして渡したあと、私は母によく見えるように、ひとくち柚餅子を彼女の目の前に見せてみた。


「母さん、ひとくち柚餅子だよ。好きだったんでしょう」


 そう言っても、母の反応は薄く、まだぼうっと、宙を見つめたままだ。

「うーん、好きだった村中の菓子なら、食べると思ったんだがなあ」

  

 父はそう言って肩を落とした。


 ほんのりと、柚子の香りがあたりに漂う。清冽で、爽やかな香り。もっとちょうだいと騒ぐ真人に、二つ、三つとやり、私自身も、ひとつ口の中に入れてみた。


 やわらかい口当たりと、ほんのりとした柚子の芳香が、口の中で噛むうちに溶けていく。父も、もう一つ箱を開け、楊枝で指すと、食べ始めた。


 三人で食べていると、母が、急に、「ひとつ、ひとつくだぁ」と言いだして、私たちは顔を見合わせる。


「みんなで食べてたから、おばあちゃんも欲しくなったんだ」


 真人がそう訳知り顔で言って、みんな笑った。春の木漏れ日の下、柔らかで穏やかな時間が過ぎていく。


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