瀬戸さん

 スーパーの仕事が休みの日、家で家計簿をつけていると、玄関のほうから「こんちわぁ」と野太い声がかかった。慌てて出てみると、四十代くらいのジャージを着て無精ひげを生やした男性が、青いビニール袋の包みを提げて、突っ立っていた。


「どちらさまでしょうか」


 私の疑問に、男性は、顎の下をぽりぽり掻くと、低い声音で言った。


「えー、と。三治さんは、おらんがかね」


 三治とは、父の名だ。


「父はあいにく外出しておりまして」


 と言うと「あー、娘さんかね」と、その男性は納得したようにうなずいた。


「お父さんに、瀬戸っちゅう男が生わかめ持ってきた、って伝えてくれんかね。瀬戸といったら、たぶんわかってくれるわ。普段お世話になってるお礼やからね。お返しなんかいらん、っちゅうといて」


 そう言って、瀬戸さんは私の胸元に、ぐっと青いビニール袋を突き出した。


「ありがとうございます、すみません。父にも伝えておきます」


 というと、瀬戸さんは、にやりとして、


「さては、出戻りか」


 と、失礼千万なことを訊いてきた。私はむっとして、


「そうですが、何か」


 と、そっけない口調で返した。瀬戸さんは、ほほう、と言って、私を値踏みするような目をして、さらに続けた。


「わしもバツイチや。お互い、なかなか苦労しとるのう」


 またな、と笑顔で瀬戸さんが帰って行ったあと、私はよっぽど塩でも撒こうかと思ったが、掃除が面倒で思いとどまった。


 だいたい私の好みは、ジャージで髭もろくに剃らない男ではないのだ。もっとぱりっとスーツを着ていて、仕事をしっかりしていて、髭剃りを欠かさないような——でも、そういう外側の条件を揃えていた元夫の義時と、結局は離婚するはめになったのだから、人生はままならない。


 たとえいつか再婚を考えるとしても、瀬戸さんだけはないだろう。そう思って、私は、ぷりぷりしながら青いビニール袋ごと、冷蔵庫にしまった。


 郵便局から帰って来た父は、瀬戸さんが持ってきた生わかめを、大変喜んだ。


「北陸の生わかめはな、養殖なら十二月ごろからスーパーに並ぶが、天然の生わかめは春先しか食べられん。今夜は、このわかめを粕汁で食べよう」


 私は首をひねった。生わかめを、粕汁で食べる。そんなものを、この家にいた子供時代に食べたことがあっただろうか。私の疑問を察したのか、父が笑って言った。


「わかめを粕汁で、っちゅう食べ方は、数年前にあの瀬戸から教わったんや。瀬戸は、漁師をやっておってな、魚も海藻も、この漁村にあるものならなんでも、美味い食い方を知っとる。あいつはいい奴やし、お前もあいつから、スーパーの総菜のヒントなんかもらえるかもわからんぞ」


 私はなんとなくうさんくさげな思いで、瀬戸さんの顔を思い浮かべた。生わかめを、味噌汁ならわかるが、粕汁で食べて、本当にそんなに美味しいものなのか。そもそも、子どもの頃は、酒粕風味のものは苦手だった気がするし、どうも信じられない。


 玄関がガラガラと開く音が聞こえて、真人が家の中に入って来た。そのまま私と父が話をしている台所まで直行してくると、大きな声で言う。


「僕ねー、今日、すぐる君と探検ごっこしてきたよ! すっごい楽しかった!」


 そうかそうか、と父が笑い、真人の帽子の頭を撫でる。真人は新しい環境で友達もできて、しっかり学校生活を楽しんでいるらしい。子供の適応力はすごい、と私は改めて思った。


 冷蔵庫でかちかちになって、端がひび割れていた酒粕を父は取り出し、湯を沸かした鍋に、それを二かけら、三かけら、ちぎって放り込んだ。すぐに、お湯の色が白っぽく染まって行く。


「あとはダシの素と、味噌を入れたら、すぐ飲める」


 父は言った通りに味つけすると、真人と私を鍋の前に呼んだ。味噌汁椀の中に、瀬戸さんのくれた茶色い生わかめを入れると、


「見てみろ、色がさあっと変わる」


 と言って、その椀の中に、ぐらぐら煮え立つ粕汁を注いだ。椀の中のわかめが、さあっと鮮やかな緑に変わり、私と真人は感嘆の声を上げた。


 炊いておいたご飯と、昼から煮て置いたカレイの煮つけ、父のつくったきゅうり漬け、あたためた豆腐と一緒に、熱々の生わかめの粕汁を、食卓へと運んだ。


 わかめの緑を、目をまるくして眺めていた真人が、いただきますもそうそうに、粕汁の椀に口をつける。


「あちっ、あちちちっ」

「やけどするよ、気を付けて」


 そう言いながらも、私も、ふうふうとその椀をすすってみた。昔は苦手だったように思っていたが、今は粕の香りがいい香りのように思えた。甘くて深い味がする。生わかめは、本当に海の味がした。


 飲み終わった後は、体がぽかぽかと温まって来る。真人も、真っ赤な頬をしている。アルコール分は飛ばしたから、酔っぱらっているわけではないとは思うけど、きっと温まったのだろう。


(瀬戸さん、ね)


 玄関で笑われたときの嫌な印象が、現金だけど、おいしい粕汁を飲んだことで少し和らいでいる気がした。


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