7.月光

 十和を家まで送り届け、自室のベッドに横たわらせても彼女が目覚めることはなかった。

 耳に届く規則的な呼吸だけを聞き、明日、彼女が目覚めた時にそれがいつもと変わないものであることだけを願う。

 五軒先の自宅に戻るととりあえず風呂場で身体を洗い、ついでに大量の傷口も洗い、それを終えると台所で湯を入れたカップラーメンを手に自室にこっそりと向かう。これらの間に外出を快く思ってなかった祖母に出会さなかったことが、非常に幸いだった。


 小腹を満たして布団に横になった時は、深夜二時を回っていた。

 両腕を真上に伸ばし、そこにある怪我の様子を確かめてみる。

 切り傷は癒着を始め、打撲は痣を薄くし始めている。

 怪我の回復力は人のそれを大きく上回っていた。すぐさま完治に至りはしないが朝になれば、僅かな痣と疵痕を残すぐらいになるはずだった。

「人にも為り切れない、か」

 消え行かないあの男の言葉が脳裏を巡る。

 今夜のことを思い返せば、自分の全ての行動を顧みることを止められそうになかった。目を閉じようとしても、気が昂ぶってそれすら為せそうもない。

 その時こつんと何かが窓ガラスに当たり、身を起こす。

 歩み寄って外を見下ろすと、そこには十和の姿があった。


「吟爾」

「十和? 一体どうしたんだ、何かあったのか? いや、いい、今そっちに行く。待ってろ」

 そのように告げてすぐに部屋を出て、玄関に向かう。祖母のサンダルを引っかけて、明かりの消えた喫茶店の前に立つ十和の元に駆け寄った。

「どうした、十和」

「どうしたって……吟爾こそどうしたのその顔?」

 つい焦って何も考えずに行動してしまったが、自分の有様を完全に忘れていた。こんな怪我だらけの姿を見て彼女が心配するのは、冷静であれば予測できたことだった。

「あ、ああ、これか?」

 でもこうなった以上、どうにか誤魔化すしか道はなかった。

 語るべきでない真実は、後ろ手に持ち替えることも可能なはずだった。

 嘘は好きではないが必要な時もある。そう自分に言い聞かせて、慣れない笑みを浮かべてみせた。

「ああ、こんなの何でもない。今晩うっかりして家の階段で転んだだけだ。怪我だってほら、大したことない」

 しかし下手すぎる嘘は何の効果もなく、相手は無言で俯く。

 彼女に向ける正解が何であるのか思い巡らすが、放った嘘以上に何も浮かばなかった。

「そんなことよりどうしたんだ十和、こんな夜中に」

「私……」


 訊ねてみるが、今度はその顔に惑いしかない。まだ怪我を気にしているのも伝わるが、沈黙の後にためらいを残す声が届いた。

「やっぱり今晩、何かあったんだよね……私、あの時止めるべきだったんだ……それにあの久坂って人もなんだか……」

 彼女の表情に、今夜の出来事を思わせる影は見えない。

 けれど記憶はなくとも、漠然とした不安が彼女の中に居残るようだった。

 彼女の不安を払拭するためには、どんなことでもしたかった。

 だがそれならばそのために自分がすることは、誤魔化しをいつまでも繰り返すことではなかった。

「そうだな十和……何もなかったことにするのは間違ってる。おれには十和に話す義務がある。だけどごめん……今夜何も起きなかったとは言わない、でも今はまだ聞かない方がいい……けどいつか絶対話す。必ず約束する」

 暗がりにある彼女の表情は滲んで見える。

 しかし耳にははっきりした声が届いた。

「……うん、分かった吟爾、待ってる……」


 答える十和が空を見上げ、おれもつられて見上げる。

 夜空には美しく輝く星と月がある。

 本物の蒼い月の下で、おれと十和はしばらく何も言わずに立っていた。

「吟爾、学校に来られるのは来週末からだったよね」

「ああ」

「早くまた一緒に学校に行きたいよ」

「おれもだよ」

「本当に? だけどそれなら努力が必要だよ」

「努力?」

 その言葉におれは隣を見る。

 そこにいる幼馴染みの少女はそれに微か表情を変えると、言葉を繋げた。

「吟爾、私は吟爾が思うよりいろんなことが平気だよ。どんなことがあっても心を強く持っていられる。だから吟爾はもっと自分のことを考えて。私も自分にそう思わせてくれる吟爾のことを、いつも考えてるから」

 おれはその言葉に何も答えられず、彼女の顔をもう一度見る。

 何かを口にしようとしたが、言葉はまた何も浮かばなかった。


「私、そろそろ戻るね」

「……ああ」

 何も言わずにいると、十和は背を向けて自宅に足を向ける。

 しかし数歩歩いた足を止めて踵を返すと、目の前に立って軽く背伸びをした。

 唇が触れ、離れる。

 それは一秒もなかったが、それ以上に思う一瞬だった。

「なんだかこういうの照れるね……いつもは吟爾からだから」

 俯く頬は桃色に色味を帯びている。

 夜の闇にあっても、彼女の居場所は惑いもなく見つけることができる。その思いはこれからもずっと変わらなかった。

「……えっと、あんまり見ないで、ちょっと恥ずかしいよ」

 おれの視線を避けるように十和は呟き、また去ろうとするがその手を引き寄せる。

 胸元に収まった相手の背を抱き、互いの鼓動を感じていると深い安堵の波に乗る。

 永遠にこの時が続けばいいが、それが現実にあるはずもないことは分かっている。


「吟爾……」

「なんだ?」

「私、吟爾と会えてよかった。私の周りには運のないことばかり起きるけど、吟爾と出会えたことは、私にとってすごく運に恵まれたことだと思ってる」

 ここにいる彼女の体温を間近に感じる。

 だが脳裏には祖母の言葉が過ぎる。


『吟爾、分かってるよね』

 人と言い切ることのできない自分と彼女は、恐らく相容れない。

 今はこうしていられても、いずれその時は来る。

 思いだけで突き通せないものはこの世に多くある。これがその多くの一つだとしても、何もなかったように誰も見過ごしてはくれなかった。


「……吟爾」

 名を呼ぶ十和の髪に触れ、彼女がそこにいることをより実感する。

 けれど時に思う。

 彼女にとって一番の不運は自分が傍にいることなのではないか。

 見上げた頭上では、蒼い月が自分達を見下ろしている。

 ここにある全てが許されないことであるかもしれない。

 これがその多くの一つだとしても、何もなかったように誰も見過ごしてはくれないだろう。

 しかしそのことを一番できずにいるのは、無言の蒼い月に見下ろされてこの場に佇む自分かもしれなかった。


〈了〉

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呪われ彼女とおれの秘密 長谷川昏 @sino4no69

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