6.刺青の男

「はい、はい、はい。分かりますよー、吟爾君の言いたいことは」

 闇の空に、久坂の戯けた声が響く。

 建物の足元に辿り着いたおれを、男は変わらぬ表情で見下ろしていた。


「でもまぁとりあえず、先立つものからやらせていただこうかな? 吟爾君、君の過去、なかなか壮絶で素敵だったねぇ。両親を焼き殺されちゃうなんて、この僕だって経験してないよ。うん、だけど僕としてはその記憶と夜夕子の力を利用して、君の心をもっとバッキバキに折れると思ってたんだけど、どうやら君、存外にしぶとい。だからこうしますよ」

 男は十和の腕を取り、柵のない縁まで歩み寄る。相手が何をするのか悟ったが、その前に声が響き渡った。

「おっと、しまった、こりゃあ大変だ」


 その声と共に男の手が軽く十和の背を押す。

 寄る辺を失った十和の身体は、ただ闇へと落ちていくだけだった。

 迷う時間など一秒たりともなかった。

 おれは地面を蹴り、駆け、もう一度地面を蹴り、上へと跳躍する。

 多くを考えずとも事態は不運の枠を越えていた。四階からの落下などこれが死に至らない高度だとしても、半分意識のない彼女が迎える惨劇は誰の目にも想像は難くない。

 闇へ向かう跳躍は、おれの身体を二階の高さにある木の枝まで運んでいた。

 その間に、上半身に着ていたものは裂けた。

 だが何も構わず、その枝をも蹴り飛ばし、重力に従う十和の身体へとジャンプする。

 自覚できるほどの獣臭が鼻腔を掠めている。

 しかし際限まで伸ばした腕で彼女の身体を捉え、硬い体毛で覆われた両腕で確実に抱き留める。

 牙から垂れ落ちる涎が、その頬を汚す前に着地を為す。

 腕に抱く相手の無事を確かめる前に、変わらぬ能天気な声が頭上から響いた。


「あははー、それマジ? まさか人狼ひとおおかみ? 吟爾君、これは一本取られたよ!」


 何も言わずに相手を見上げるが、向ける感情は特に思い当たらない。

 人の形に似た決して人ではないもの。

 それがここにいる今のおれだった。


「吟爾君、こんな面白いネタ、どーして今まで黙ってたの?」


 おれの曾祖父、小山内雷爾らいじは半分人間で、半分獣だった。

 禁を破り人と結ばれたが、生まれた祖母に獣の痕跡が顕れることはなかった。

 彼女の息子、おれの父も不幸な結末を辿ったが、その人生を人として終えた。

 でもおれは違った。

 曾祖父と同じく、半分人間で、半分獣。

 自らの意思もなく、この目を背けたくなる姿になることはないが、変態する度に獣に近づいている気はする。


「あれー? 吟爾君。なんだかお返事がないけど、もしかしてその姿になったらおしゃべりができないのかなー? んー、あのさぁ。この僕でも人狼って初めて見たけど、なんだかねぇ……颯爽とお姫様を救った絵には一応なってたけど、改めて見てみるとその姿、ヒーロー的なものは皆無だねぇ、口も利けないみたいだしー。まぁとにかく何か言うことがあるとしたら、なんかその姿、すごく不憫……」


 心を逆撫でる久坂の与太が続いたが、どうでもよかった。

 十和の身体を草の上に下ろし、彼女の無事を確かめる。

 落下の途中で完全に気を失ってしまったのか、身体に力はないが息はある。

 猫のように可動しない爪で傷つけないよう身体に触れ、新たに負った怪我も自分がつけた傷もないのを知る。この先、彼女を守りながら一刻も早くここからの離脱を図る。この背後の相手と対峙し、それを為すことが全てだった。


「はい! 油断大敵!」

 声が響き、頭上をふわりと何かが舞った。避ける前にその何かに頭部を覆われ、即座に剥ぎ取ったそれは相手の放ったシャツだった。

 見上げると、屋上から飛躍した久坂の姿がある。

 男は三階の壁を蹴り、跳ねるように空中で身を捩り、地表へと着地する。

 その影はすぐさま地上を駆け抜け、瞬く間に拳が間近に迫った。


「油断大敵って、僕言ったよね」

 目にも止まらぬ速さで繰り出す凶器が、硬い体毛を掠める。

 距離を取ろうとするが再びの打撃、蹴りが続く。

 躱しても、直後次が来る。

 それでもどうにか背後に退き、相手を避けながら徐々に建物と距離を置く。思惑どおりにこちらの動きを追う影を捉えれば、強い獣臭が溜息のように漏れた。


「へー、そういうこと。この後何が起きても、彼女に影響がない場所まで離れようってわけ? ふーん、のーみそまで獣に変わっちゃう訳じゃないんだー。まだ彼女のことを考えてる」

 雲が途切れ、赤い月が夜空に浮かんだ。

 赤く染まった月光の下で男の姿をようやく捉える。

 シャツを脱ぎ去ったその肌は、多くの刺青で埋め尽くされていた。

 経にも梵字にも見えるそれは蠢く血管のようにも見える。

 禍々しくも映るその刺し墨を月光の下で誇らしげに曝し、男は出会った時と変わらぬ能天気な声を放った。


「うーん、だけどね、だけどこれなんだよね。こんなだから僕が困っちゃう訳なんですよ。彼女が誰かに守られた状態であることは、決して望ましいことじゃない。曲輪十和が常に不運であることを継続させるのが、僕の今度のお仕事なんですよ。だからね吟爾君、君の存在は不要だ。夜夕子の所に行かせたのはその手始めだったけど、色々どうにもうまくはいかなかったようだね。でもまぁ……人の人生、何でも思いどおりにいくとは限らないか」

 男は語り終えると、大仰に肩を竦めて見せる。しかしその言動全てがもう仮面上のものにしか見えなかった。この男が何をして見せようと、本心がそこにないことは分かっていた。


「あっ、そうそう。さっきは彼女をあんな乱暴に扱ったけど、突き落として死なせるつもりなんか最初から全然なかったよ。君が必死に助けなくとも、僕がどーにかしてた。彼女は生きて不運であり続けることに意味がある。君を落胆させるために両脚骨折ぐらいは負わせてやろうと思ったけど、あー、でもこれじゃあ、父親とおんなじになっちゃうなぁ、全くオリジナリティなさすぎだよ、ってやめにしたんだよねぇ。んー、そうだなぁ、顔でも半分潰してみりゃよかったのかなぁ? ん? あれぇ、吟爾君、もしかしてそれ、すんごく怖い顔じゃなーい? ねぇ吟爾くぅん」


 闇を裂く遠吠えが響き渡った。

 おれは何も言わず相手に向けて駆け、そのにやけた顔面に拳を叩き込む。

 骨と肉の感触を受け取るが、攻撃を受けたはずの相手は霞むように目の前から消えた。

 直後、背後にくうを切る気配を感じた。

 振り返れば、相手の爪先が閃く刃のように喉元を掠めた。

 ぎりぎりで躱すが疑念と混乱が過ぎり、相手からは忌々しげな舌打ちが届いた。

「ちっ、惜しい。でもさすが獣、察しがいいね」

 手応えは確かにあった。しかしそれは現実のものではなかった。

 感触の授与さえも可能とする幻惑。この男が図り知ることのできない人外の技を会得しているのは確かだった。


「ねぇねぇ吟爾君、ちょっと訊くけど君がその姿でいるのって一体いつまで? 君が人間のままだったら楽勝なのは、まぁ確実だったんだけど、その姿だと未知数すぎるんだよねぇ」

 赤い月光の元に延々と続く草原。

 広大なフィールド、互いに武器もなければ身を隠す場所もない。

 自ずと肉体のみで張り合うやり方になるが、既に相手が人間だとは思っていなかった。だがそれは両者互いにだった。


 久坂が動いた。

 強い殺意を感じる。

 夕方出会った時にはまるで感じなかった気配、別人のような相貌が闇に浮かび上がる。

 口元にはうっすらと笑みがあるが、絶え間なく繰り出される攻撃は全てに於いて、狂いもない正確さと無情さを纏っている。


 こちらがどう動こうと、先を読むような動きには応戦一方だった。

 背後には何もなく追い詰められることもないが、感情は次第に追い詰められていく。

 意表を突いて正面突破した拳が顔面を捉えた。

 まともに食らい、地を這う呻きが漏れた。

 硬い体毛の下で裂けた皮膚に血が伝い、流れる。口内では鉄錆びた味を噛みしめた。

 相手にとっての突破口は、こちらの隙でしかなかった。

 続けて繰り出された高い蹴りが無防備な頭部を捉え、身体ごと揺れる。

 膝が落ちる前に連打の蹴りが更に身体を直撃し、重い衝撃を食らう。

 それには意識が飛びそうになるが束の間耐え、地面を這いながら後退する。

 その無様な姿には這々の体という言葉が過ぎるが、諦めはまだ彼方にあると思わなければ望まぬ結末しかそこにはなかった。


「あー、痛ててて。君の骨格、随分硬いんだねぇ。僕の方は拳の防御をしてたのにこれだよ。だけど夕方の分の借りは返したよ。あれでもね、結構むかついてたんだよ」

 拳に滲む血を囓り取り、男が笑う。

「うーん、そんな姿でも血の味は人間と同じなんだねぇ。でも思えばそれも不憫なことだよ。人間でもなければ獣でもない。けど、獣にも為り切れなければ、人にも為り切れないんだ」


 眩む頭を振り、存分に余裕を含む相手の声を聞く。

 立ち上がろうとするが、その時ようやく膝下にある違和に気づく。

 見下ろしたそこには、手足に絡みつく小さなものの姿がある。

 それらは地表から次々と顔を出し、数を増していく。チキチキとわめき声を上げながらこちらの身体を絡め取ろうとするそれは、蜘蛛のような形をした小びとの群れだった。


「吟爾君ごめんねぇ、僕がこんな汚い男で。君は正々堂々やり合いたかったかもしれないけど、仕方がないよね。でも人の運命なんてこんなもんだよ。全然全く思いどおりになんかならない。だけどまぁ……君は半分人じゃないけど」

 数を増すそれらによって、身体は地中へと確実に呑まれている。

 どれだけ振り払っても、それらは絶え間なく現れ、醜悪な気配と耳障りな音を量産し続けている。


「吟爾君、君の存在は邪魔なんだ。さっきも言ったけど、敢えてもう一度言うよ。それでさ、この状況を踏まえて君も想像してごらんよ。君がいなくなった後の彼女の姿をさ。君が思う以上に、彼女はきっと悲嘆にくれる。悲しみのあまり、何も喉を通らなくなってしまうかもしれない。大好きな学校にだって行かなくなってしまうかもしれない。もしかしたら身に降りかかる不運を避けようとすることすら、彼女はしなくなってしまうかもしれないね。でもね、これを僕は望んでるんだ。だから君がいなくなることが、やっぱり最良のやり方なんだよ。これは変えられない事実だし、避けられない運命なんだ。吟爾君、ホントにごめんね、心からそう思うよ。そしてさようなら。短い付き合いだったけど、君のことは三日ほど忘れないよ。あっ、そういえば今思い出したけど僕実は、犬科の動物って大っ嫌いだったんだよねぇ。あー、マジでせいせいする」


 動けないおれの上に、再びの暴虐が降る。

 久坂の攻撃は相手を痛めつける意図を持ったものではなく、死を与える意図のみを孕み持った攻撃だった。

 手足を拘束する刺客達は、いくら払い除けても消え失せる気配を見せない。

 ただ攻撃を受けるだけの状況が続けば、死は長い時間をかけずとも確実に訪れる。

 狼の頑健な身体をものともせず、久坂は全力を込めた打撃を放ち続け、地面に這い蹲る相手を新たな痛みによって戦線に引き戻す。

 優男の顔立ちに合わない盛り上がった筋肉が、目の前で踊る。

 血で霞む狼の碧い瞳が、横たわる十和の姿を捉えた。

 ここで自分が死ねば、彼女は苦しむ。

 今夜の出来事を知ることはなくても、彼女はいずれ察する。あの言葉どおりのことが起こらなくても障害を取り去ったこの男は、永遠の時をかけて彼女を苦しめようとするだろう。

 それはいけないことだった。

 何に代えてでも、拒否し続けなければいけないことだった。


「あは……ま、マジで?」

 相手にとって反撃は思いがけなかったようだ。

 起死回生で繰り出した拳が僅かな隙を突いて、男の顎を捉えていた。

 巫山戯た言葉を放つも、後退る身体が微か蹌踉けた。

 再びの隙を逃さず、おれは夕方と同じ場所に拳を叩き込んでいた。


「……く、さか……」


 闇に響く声は辿々しかった。発する言葉はいつも排出するまでにその意思を多く失う。

 滑稽にも響く雑音めいた声に男は僅か笑みを浮かべた。

「あはは、なんだよ君、喋れるの……? 今まで黙ってるなんて……ちょっと酷いな……」

「喋れ……ないと、は……言ってな、い……お前が、そう思ってただ、けだ……」

 途切れ途切れの言葉を放ちながら、おれは対峙する男を見据える。

 そこに見えるものを推し量ろうとするが、それは元より意味のないことだとすぐに放棄した。


 広大な草っ原に、おれは狼の咆哮を響き渡らせた。

 地を震わす怒号には小びと達が畏縮し、半分が土へと還り、半分が動くこともできずその場で身を震わせる。

 全身の毛が逆立つ。

 自制は既にここになかった。

 暴威だろうと暴撃だろうと、これから行うことを遮るものはここにはいない、いるべきではなかった。


「どうやら本当に未知数だったみたいだ……」

 その言葉を聞くこともなく、おれは男の首元を掴み取り、身体ごと地面に叩きつける。

 内蔵が混ぜ返される衝撃に男は呻きと血を撒き散らすが、すぐに体勢を取り戻すと、脚を薙ぎ払おうと素早く動く。

 しかし相手を上回る動きがおれの背に追随している。それが為される前にその小賢しい脚を踵で砕き折った。


 吹き抜けていく風に混じる絶叫とも言える久坂の叫びが、草の上を走る。

 その声が自分の中で眠る獣の血をより目覚めさせる。

 身体の奥底では、まだ冷静さを保っている。

 だが相手の血、相手の絶叫、それが細胞の一つ一つにまで歓喜をもたらしている。

 絶え間ない獣の咆哮が暴走の熱を持ち、奥底で引き留めようとするものを氷解させようと虎視眈々としている。

 このまま自分であることをいつまで保ち続けられるか分からなかった。この行為が目的を果たす経緯ではなく、それ自体が目的になり変わっていないだろうか。

 思考まで獣になり変わる自らへの危惧は、いつもどこかにあり続けていた。


「……久、坂……」

 おれは相手の前に立ちはだかり、呼びかけながら見下ろす。何かを語ることに意味があるとは思えなくとも、しかしこうしなければ自分の中の何かが消えていくようにも感じていた。

「……お、前にとっ、て、おれな、ど……ちっぽけな存……在だろう。足元にいるこい、つらより、取る……に足りない存在、だ。だがおれは何があろ、うと、放棄したりし……ない。永遠に人の姿に戻れ、なくなったとしても……彼女を守、るためにお前を阻、む盾と、なる……」

「へー、だからそんな姿になっても必死に戦うって……? へー、マジでかっこいいね、うっとりしちゃうよ……」

 この状況に於いても言葉には揶揄が混じる。

 膠着する事態を追うように、頭上の赤い月も雲に隠れた。


 男は折れた脚を庇いながらも立ち上がり、距離を取る。

 今は僅か優勢であっても、情勢は未だ互角の猶予を残している。

 この得体の知れない男とは踏んだ場数が格段に違うことは分かっていた。些細な優勢材料としてあるのは、この男が冷静さを些か欠いていることだけだった。

 相手は残り少ない私兵達に再度命令を下すが、術者の動揺を感じて、彼らも動きを鈍くしている。その中で拳を繰り出すも威力は明らかに落ち、それを追う反撃も躱せずに、崩した体勢もすぐに取り戻せていなかった。

「あっ」

 それはその直後に起こった。

 男はそのままバランスを欠き、容易いほどの動きを見せて背から地面へと向かう。

 短い息が闇に漏れた。

 それは誰も想定していなかった結末だった。

 久坂が倒れた場所には朽ちた木塊があった。そのささくれた枝が背から身体を貫き、腹部からは溢れるように赤い血が流れ出している。

 その血は肌を幾筋も伝い流れ、それはそこに刻まれた彼の新たな彫りもののようだった。


「ああ、もう……なんてこった……」

 貫く枝に捉えられ、動くこともできずに男は戯けた仕種で頭に手をやる。流れる血を防ぎもせずに、苦笑混じりにおれを見上げた。

「これはちょっと拙いね……僕、死ぬかな……?」

「……たぶ、ん……な……」

「あはは……はっきり言うねぇ、もう少しオブラートに包もうよ……でもなんだかこれじゃあ、まるで悪者の死に方みたいだ……」

 男の呟きは悲壮も虚勢も感じさせなかった。情緒も偽善もない答えに、力なく笑う。

「あのさ吟爾君……さっき君には獣にも人にも為り切れないって言ったけど、僕だって似たようなものだよ……生きてるようで死んでいる、けど、生きてもいないし死んでもいない……どっちつかずの、生きた屍だ……」

 深い息の後に瞼を閉じ、久坂は動かなくなった。弛緩し切った身体に生の影はもう見えない。

 呆気ないほどの死に様には、同情も後悔も感じなかった。けれども未だ漂う孤独を思わせる悲壮には僅か同意を示す。

 しかしその時、鼻腔に嫌な臭気を嗅ぎ取った。

 途端遺体の瞼が仕掛け人形のように見開かれ、笑いの零れる瞳でこちらを見上げた。


「なーんちゃってね、吟爾君。君、今僕が死んだと思ったでしょ? あのさぁ、敵が本当に逝ったかちゃんと確認、それ、ホント大事! それに君、ほんのちょっとだけど僕に同情しなかった? 甘いなぁ、そーゆーとこホントに甘いよ。こっちは君の姿がわんこが人真似して必死に喋ろうとしてるみたいで、それを思い出す度におっかしくて死んだふりが大変だったんだからー」

「……」

「あれ? ああ、やっぱりこれじゃあ駄目なんだよねぇ。だって君、自分のことは何を言われてもちっとも怒らないんだもの。うん、それなら仕方がないから、やっぱりこっちにするよ。あのね、僕、今度君より先に十和ちゃんを抱いてみようかなって思ってるんだ。それでその計画を実現するには一体どうしたらいいかなぁって考えてみたけど、まぁそんなことは思案するまでもなかったよ。彼女は誰かが誘えば、簡単に股を開くお手軽で軽い女だったよ。だって君も見ただろ? 自分から服を脱いで、身体に触らせて男を誘うなんて、本当にいやらしい身体をしたクソビッチだ。でもたとえそうでなくてもいいよ。彼女を強引に押し倒して服を引き裂いて、この僕がはしたない嬌声を何度も上げさせてあげるよ。そのご褒美にあの可愛らしい唇に何度もこの僕のぶっ……」


 おれは渾身の力を込めて、振り上げた右足を下ろす。

 殻が壊れるような音と湿った音が響いた。

 足の下では男の脳漿と脳の欠片が放射線状に飛び散っている。

 潰された頭蓋の中では舌の残骸がまだ言葉をなぞろうとしていたが、それもじきに途絶えた。

 完全に動きを止めた相手を見下ろしながら、自分の中にある終わりを感じていた。

 身体の中で何かが呻きを上げながら、また別のものになり変わろうとしている。

 筋肉や肌が波打ち、強烈な違和と痛みに声を漏らす。この過程を客観的に目にしたことはないが、見れば自分でも気が狂いそうな類のものであるのは間違いなかった。


 風が流れ、髪が揺れるのを感じる。

 掌で顔に触れ、その場所にまだ人の形があることを感じれば、虚脱を伴う説明のできない感情を毎度得る。

 強く吹いた風で舞い上がった男のシャツが、足元を流れゆこうとしていた。それを掴み取り、血を拭ってから身に纏う。どうにも酷い有様なのは変わりなかったが、上半身裸よりマシな状態であることは確かだった。


 朽ちた建物に戻り、その場所で未だ意識のない十和を抱き上げる。

 振り返るつもりはなかったが、何かに引かれるように肩越しに背後を見ていた。

 風が吹き抜ける暗い草地に、久坂の姿はなかった。

 草葉の上には夥しい血痕だけが残っている。

 それに驚きはあったが、その光景を予感してもいた。


「ここは……」

 再び視線を戻せば、別の驚きが待ち構えていた。

 何もなかった静寂の地に急激に喧噪が織り混ざっていく。

 闇だけに覆われていた風景には、夜の雑踏が広がっていく。

 見上げれば、自分達を見下ろす石造りのガーゴイル。

 見下ろせばそこには彼女の姿。

 おれは懐かしくも思えるその喧噪の中で、腕にある温かな感触に深い安堵を覚えていた。

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