5.まぼろしの彼女
誰かが泣いている。
闇の中で子供が泣いていた。
七才ぐらいのその子供に見覚えがある。
それはおれだった。
「泣くな、泣いても何も変わらない」
その頃にキミに繰り返し言われた言葉を、子供の頭上にも落とす。
それでも子供のおれは泣きやまずに、びしゃびしゃとみっともなく泣き続けている。怒りを覚え、肩を掴もうとした時、シャボン玉が弾けるようにその姿は目の前から消えた。
「ここはどこだ!」
子供が消えると、闇だけが残った。
どこまでも続く闇に焦りが先立ち、何もない空間に叫んでも、返答が戻ることはない。
ここは『ロッソ』ではない。
歩み進んだガス灯の道でもない。
ガーゴイルが見下ろす建物も見えなければ、あの雑多な雑踏でもない。
どこからか水音が聞こえてくるが、どこを見ても闇では気配も方向も掴めない。
久坂は夜夕子に会えと言った。
その会った結果がこれなのか。だが最終判断を下すにはこの闇の正体と同様に、まだ全てが蒙昧としている。
次第に水音が大きくなる。
しかしそれは水音ではないのだと気づく。
周囲を赤く染める業火。
突如現れたそれは息つく間もなく広がり、禍々しいほどにこの闇の空間を舐めていく。
その中で踊る人影がある。
いや、踊っているのではなかった。
灼熱に焼かれ、まるで舞うようにその中で身を捩らせているのは父と母だった。
「やめろ! やめてくれ!」
その姿は二度と見たくなかった。
七才の時、家が燃えた。
父親は一階で寝ていたおれを外に放り出し、母親を助けに戻ってそのまま二人とも帰ってくることはなかった。
燃え盛る二人の姿は、今でも記憶と網膜に焼きついている。
燃え落ちる家の前で、身を縮こまらせる七才の自分。
今ここにいる自分も、闇の中で同じ姿勢を取っていた。
その時、誰かが肩に触れた。
触れた優しい感触に覚えがある。
顔を上げると、そこにいたのは十和だった。
「大丈夫、吟爾?」
「……十和……」
彼女がいることにもその姿にも、違和を感じる。その理由が、彼女の身体に絆創膏も痣も怪我の痕跡が何もないからだと気づく。でもたとえそんな見慣れない姿だとしても、そこにいるのは間違いなく十和だった。
「ねぇ泣かないで、吟爾。もう大丈夫だよ。私がね、ずっと傍にいてあげるから」
彼女は呼びかけながら腕を伸ばし、おれを胸元に抱きしめる。
記憶に残るその柔らかな感触には、制御できるはずの感情が前に出ようとする。いくら堪えてもそれをこのまま押し留めることは、困難でしかなかった。
「ねぇ、吟爾……」
「っ……十和、何してるんだ?」
そんな心情を感じ取ったのか、彼女は突然おれの手を握り取ると自らの太腿に触れさせる。強い拒否を示せないまま、もう片方は胸元へと導かれた。
「何って……吟爾のしたいことだよ。ずっとこうしたかったんだよね? だけど私だって同じだよ。吟爾とずっとこうしたかった」
「おれは……おれはそんなこと……」
「ううん、違ってない、否定なんかしないでよ、吟爾。あなただってずっと思ってたはずだよ、私、知ってるんだから。あんなこともこんなことも、そんなこともしたかったんだよね? だからねぇ吟爾、こっちを見てよ。私から目を背けないでよ、ねぇ吟爾」
傍にいるはずだが、彼女の声はどこか彼方から響くように届く。
耳に届くそれは確かに十和の声だが、いつもの十和の声ではない。
これまでに一度も耳にしたことのない色を持った彼女の声が、いつまでも囁き続け、感覚を融解させようとしていた。
「何してるんだ十和、やめろ」
無言でいると、彼女は笑みながらシャツのボタンを外していく。
制止しても叶わず、覚えのない貌で笑う彼女はシャツの前をしどけなく開いていく。そこにじきに現れるであろう露わな肌が視界に入り込む前に、急いて目を逸らしていた。
「ねぇ吟爾、どうして? どうして私から目を逸らすの? それにどうしてやめろなんて言うの? ねぇ吟爾、私のしていることっておかしいのかな? だってこうでもしないと、吟爾は私のことを抱いてくれようとしないよね? ねぇもしかして吟爾、私のことを聖女だとでも思ってるの? もしかして両親の死の落胆から救ってくれた天使だとでも思ってるの? 違うよ吟爾。私はただの人間よ。人を恨むこともあれば、蔑むこともある。人に言えやしない性欲だって肉欲だって山ほど持ってる。私は聖女でも天使でもない。骨と肉と皮と体液でできた、ただの生々しい生きものでしかないのよ。だから、吟爾、こっちを見てよ。吟爾、ほら、もう、ワタシ……コンナノニナッテルンダカラ」
轟々と音を響かせる炎。
目を向けた先に十和の裸体などなく、そこには焼き尽くされようとする〝愛しい者の形をしたもの〟があるだけだった。
溶け落ちていく蝋のようなその姿には驚愕を顕す言葉もなく、直視もできない。
だがもう分かっていた。
ここにあるものに畏れを抱いていては、この場から逃れられない。
この闇にあるものから、逸脱することはできなかった。
「十和、こんなことをしなくてもおれには分かってる」
呟きが相手に届いたかどうかは分からなかった。
おれは相手がしてくれたのと同じように腕を伸ばし、偽物の十和の手を取る。
燃え盛る火は這うように腕を伝って喉元まで駆け上がるが、構わず相手を引き寄せ、強く抱く。
共に炎に焼かれながら、なぜか熱さを感じなかった。
ここにある身体は、ただ温度を下げていく。
冷え切っていくそれは死をも過ぎらせるが、でも心はいつまでも滾っていた。
「ああ、もういいわよ、吟爾」
その声は突然耳元に届いた。
開けた視界の先には闇も炎もなく、あの楽屋だと分かる。
鏡台の前には夜夕子の姿がある。
彼女は大きな溜息を一つつくと、徐に立ち上がった。
「あんたってつまんない男。私の思う展開に全然堕ちないんだもの。でもそんな馬鹿で融通の利かないあんたが好きよ。全く隠し切れていない獣の匂いも気に入ったしね。だから今日は何も奪わずにいてあげるし、喰わないでいてあげる」
歩み寄った相手の唇が頬に触れる。
周囲は再び暗転していた。
気づけば立っていたのは、寒々とした墓地の真ん中だった。
暗い空とどこまでも続く墓石と卒塔婆。
どこを見回しても灰色の景色が続くだけで、騒々しい音楽も、あんなに溢れていた客の姿も、妖しい女の姿もない。
湿った風が吹き抜け、傍に立つ柳の柔枝を揺らしていた。まるで狐狸に抓まれたようなこの結末には、子供の頃母親に聞いた昔話を思い出すしかなかった。
「これは一体……」
呟きが漏れた時、ポケットの中の携帯電話が見計らったように鳴り始めていた。取り出したそれには覚えのない番号が並んでいる。でもそれに推測を巡らせる必要は多分もうないようだった。
『やぁやぁやぁ、吟爾君、どうでした? ロッソでは程よく大人の体験を愉しめましたか?』
出れば耳元には、覚えのある声が届いていた。
『じゃあ吟爾君、次は右を見て、今度はこちらに来ましょうか』
声に誘われて見た先、そこには何もない草っ原が広がっていた。
もう一度背後を振り返るが、墓地の姿は既に跡形もない。
「吟爾くーん、こっちですよー」
戯けた声の元には、崩れかけたコンクリートの建物が建っている。
その傍には暗い針葉樹が立ちそびえ、風もないのに強く揺れている。
窓も扉も朽ち果てた四階建ての建物の屋上、そこから再度男の声が響き渡った。
「吟爾くーん、ここですよー、僕はここで彼女と待ってますから、なるべく早くねー!」
闇に霞む姿におれは目を疑う。
手を振る男の腕の中には、ここにいるはずのない相手。
「十和……」
彼女は目を閉じ、気を失ったようにぐったりと男に身を寄せている。
足を取られる深い草の上をおれが駆け出したのはすぐだった。
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