4.深淵の女

 男が描いた地図は迷路のようだった。

 複雑怪奇に巡る紙上の道は、現実とは程遠いものを感じさせ、冗談としか思えない。

 だが目の前の光景は視覚聴覚嗅覚、皮膚感触を確かに刺激する。それはここにあるものが実存する光景であると確実に示していた。


 おれは手元の地図を、もう一度見下ろした。

 目的の『ロッソ』がある鴨居町は、この街で一番の歓楽街だった。

 周囲の雑多な通りには雑多な店が並び、闇に煌めく照明が目に痛い。その大半がいかがわしい類のものであるのは間違いなく、呼び込み達の賑やかしい声が辺りに響いている。その光景は夕暮れの商店街を一瞬思い出させるが、全くの別物であるのは思い直すまでもない。

 通りを歩く人達の目はどこか暗い。それは穿った見方であるのか、もしくはそう思うのは今ここにいる自分も同じ目をしているからなのか、恐らく後者かもしれない。

 呼び込みや酔っぱらいを避けつつ進むと、いつしか地図上に殊更大きく記された石造りの建物の前に行き着いていた。


 見上げると高い塔を思わせるそれは暗い空にそびえ、ぼんやりした灯りを放っている。異国の建築物めいた最上部には、こちらを監視するかのように見下ろす、幾体かのガーゴイルの姿が見えた。

 進んできた道の終点のようにこの建物は建っていた。新たに進むべき道は、その両脇に続く路地であるようだった。

 振り向けば、これまで辿ってきた雑多な雑踏がある。

 目を背けていたはずのそれらが既に少し懐かしくもある。目を戻せば、何も見通せない路地がある。ガス灯の仄かな光源の元に続くそれは、これまでとは異なる怪しい雰囲気を醸していた。


 下界を見張る石造りの怪物達は、いつまでもこちらを見ている。

 ここを境としてその先には不可視の闇が広がり、この場に立っているだけで波打ち際の砂が削られていくように足元が覚束ない。先の見えない道行きに僅か不安を覚えるが、どの時点に於いても別の選択肢は存在しなかった。

 手元の地図は薄明かりの下でも確実に進行方向を示し、進む足を深い闇へといざなっていく。遊び半分に描かれたように見えたが、地図は複雑な道筋を差違もなく描き取っている。それに頼らなければならない現状はあるが、同時に妙な感覚も覚えていた。

 進む先から地図が描き足されているような、進む先に道が敷かれていくような、そんな感触がする。でも意味不明でしかないそのような感覚に囚われているのは、この闇の道に疑義と密かな畏れを感じているからかもしれなかった。


 続く路地を幾度も曲がり、時には建物と建物の狭間に入り込み、次第に時間の経過も曖昧になる頃、突然視界が開けていた。

 今にも崩れ落ちそうな半壊した門をくぐった先、そこに現れたのはちかちかと点滅するネオンだった。

 様々な色を発光させる看板には『ロッソ』とある。だがロッソというのに赤色だけが欠けている。派手さと異国情緒溢れる雰囲気には、映画のセットに迷い込んだ気にもなるが、自身が書き割りの一部になったような気もする。

 人の姿は周囲に多く見受けられるが、視線を向けると皆、目を逸らす。ぼそぼそと届く言葉もどこの言語なのか分からない。その声も近くなったり遠くなったりして聞こえ、ここには留まらずに早々に離れた方がいいと判断して、足早に店内に向かった。


「これは……」

 事前につたない想像や覚悟はしていたが、現状はそれを上回っていた。

 訪れた者を真っ先に出迎えるのは大音量の音楽、腹に響く低音のリズムが終わることなく繰り返されている。周囲の声など先程以上に聞き取れるはずもなく、ざわざわとした音しか耳に入ってこない。それに続くのは充満する酒のにおいと煙草のにおい、経験したことのない薄暗い感触が肌を舐めていく。

 店の中にも多くの人がいた。

 男も女も、そのどちらでもない者も、老いも若きも、それぞれが互いの姿を目に留めることなく、漂う闇に沈んでいる。

 店の内部は思うより広く、中央のメインステージを挟んで三つ舞台が見える。どの壇上でも半裸のダンサーが身体をくねらせ、彼女達が自らの武器とするその肢体を惜しみなく披露している。前列でかぶりつくように見入る背広姿の男性が目に入るが、鳴り止まぬ音楽に翻弄されて彼のように見ることはもちろん、もう一度チラ見すらする気にもなれなかった。


「すみません」

 人の波を掻き分け、奥にあるバーにようやく辿り着いていた。呼びかけた声にはカウンターにいた男が顔を上げ、鋭い表情を向ける。問う前に注文した方がいいと思うが酒を頼む訳にはいかず、ありそうな別のものを口にした。

「炭酸水を」

 無言で男は炭酸ボトルを置き、こちらを見上げて人差し指を立てる。取り出した千円札を差し出しながら、その相手に改めて問いかけた。


「すみません、ダンサーの夜夕子さんはどこに?」

「ああ、彼女のステージなら一時間後。だけど時間外でも五つ出せばラップダンスをしてくれるよ。まぁ彼女の気分が乗ればだけど」

 意外にも返事は淡々と戻った。彼が示した五つが五万だとは理解できたが、元々そんな手持ちはない。だが持っていたとしてもこんな機会を得て、二人きりになる事態など極力避けたかった。しかしとりあえず彼女がいることは確認できた。出番を待っているのなら今は楽屋にいるのかもしれない。うまく潜り込めないかと考えているとその声が届いた。


「なぁ、あんた」

 顔を上げれば今程の男がこちらを見ている。鋭い表情は変わらず、咎めているようにも見えるそれには身構えるしかなかった。

「あんた、変わった匂いがしてるな。彼女に会ったら喰われないよう、気をつけろよ」

 音楽に紛れて届いたのはその言葉だった。そこに含まれる真意を訊こうとしたが、既に彼の関心は新たな客に向いている。暫しその言葉に囚われたが、見回した人垣の向こうに楽屋口らしき扉を見つける。再び人の波を掻き分けながら移動し、注意しながら扉向こうに入り込んだ。

 その先には通路と楽屋の扉が続いていた。奥に向けて延々と続くそこから目的の部屋を探さなければならないが、名が掲示してある訳でもなく、一つ一つ順に巡っていく地道な作業に終始するしかないようだった。


「はぁーい、どうしたの?」

 その声が届いたのは、何度目かになる無人の部屋の前で向き直った時だった。

 開け放した扉の前には一人の女性の姿がある。紫煙を燻らしながら微笑を浮かべる相手に、おれは問いかけた。


「すみません、夜夕子さんの楽屋はどこですか?」

「ああ、彼女ならお隣よ」

 訊ねると即答が戻り、彼女は隣を指して笑う。明らかな部外者に助言してくれたことに礼を言って向かおうとするが、追って続く笑い声に足を止められていた。

「ちょっと待ってよ、あなた」

 振り返って見た場所には相手の苦笑がある。

 彼女は煙草の火を灰皿で揉み消すと、再び歩み寄ってこちらを見上げた。

 

「いやだわあなた、ここにいる人間の言うことなんて簡単に信じるものじゃないわよ。今のはからかったのよ、夜夕子は私。でもこんな所まで押しかけてくるなんて、一体何用なのかしら? ハンサムさん」

 作りもののような整った顔が近づき、吐息がかかる。

 目線が近く、背が高いと思うが、足元を見れば怖ろしいほど鋭利なピンヒールを履いている。彼女が髪を揺らす度に煙草と香水の入り交じった苦い香りが漂い、答えようとする前に指が伸ばされ、軽く頬に触れた。


「あなた、名前は?」

「小山内……小山内吟爾……」

「吟爾? へぇ素敵な名前ね。それで吟爾」

「……はい」

「そのソーダ、私のために持ってきてくれたのかしら?」

 彼女の視線は手元の炭酸ボトルにある。元々手をつけるつもりのなかったそれを手渡すと、彼女から一歩下がる。その一連の動きを見た相手からは再び苦笑が漏れ、「取って喰いはしないわよ」とからかうような声が続いた。


「それじゃ吟爾、改めて訊くけど私を訪ねた理由は何なのかしら?」

 招かれた夜夕子の楽屋で再度訊ねられていた。

 彼女は一口飲んだボトルを傍らに置き、パイプ椅子に座るおれを見下ろしている。

 透ける衣装を纏う彼女はガウンも何も羽織っていないせいで、その下の黒い下着が見ようとせずとも目に入る。その肢体は確かに色っぽくも映るが、ダンサーであるからか筋肉のつき方を見ているとアスリートを思わせる。歳は二十代前半、でもそれ以上の年齢を思わせる落ち着きが漂っていた。


「おれは久坂って男に言われてあなたを訪ねたんです。その名前を出せば、伝わるとも言われました。あなた自身は彼に覚えが?」

「何? 久坂ですって? あなた彼の知り合いなの? はぁ……何よ、もっと別口の話かと思ってたのになんだか嫌な予感しかしないわ……どうやら碌でもない先が見えてきたようね」

 来訪の理由に、夜夕子はやや気色ばんだ表情になる。嫌な予感と言い捨てたことには少しだけ溜飲が下がるが、元より曖昧だった事態は早くも決裂しそうでもある。あの男と知り合いかどうかについては、とりあえずこれ以上言及しなかった。


「それで……そう言えば私に伝わるって?」

 夜夕子は鏡台に歩み寄ると、呟きながら新たな手巻き煙草を取る。

 自らが持つものを自覚し、最大限に利用することを可能とする彼女は、恐らく誰の目にも魅力的に映るはずだった。しかしこの世界で生きる術を自在に操るその姿は、生きたまま相手を食らう獰猛な獣も思い起こさせる。容易く捕食されないためには距離を取って見図ることが、ここから先求められるはずだった。


「はい、でもそれ以上のことはおれには分かりません」

「ふぅん、そう来るのね。まぁいいわ」

 彼女は手に取った煙草を戻すと、こちらを振り返った。表情には妖しげなものが紛れ込むが、すぐに消えていった。


「……あの子、きっと私を共犯にさせる腹積もりなのね……相変わらず性格悪い。だけど何でも自分の思いどおりに行くと思ったら大間違いよ。選び取って決めるのはいつも私の方よ」

 放たれた言葉には、静かな怒りが孕む。場の空気が硬化したことに気づいたが、まだ動けなかった。

 苦い香りが漂い、強くそれを感じ取れば、膝上に柔らかな感触が乗っていた。

 僅か数秒、しかしその全てが隙一つ与えない動きだった。

 夜夕子はいつの間にか自分の膝上に陣取っている。

 抗いもできず、迫り来る肌を間近に感じ、おれは即座に困惑と困窮を抱えていた。


「おれ、あなたに払う金は持ってない」

「金? ああ、そんなのはいいのよ、私がやりたいの」

 揺れる髪から深い香りが漂い、思考を奪うそれには目眩を覚える。

 黒々とした瞳で見下ろされ、赤い唇が耳元を掠める。

 彼女はまるで木の上の肉食獣。絶対的位置に立つこの相手には均衡を僅かも崩せない。それを保ち続けることがこの場に喰われないための唯一の自衛策だった。


「おれ、好きな子がいるんです」

「へぇ、そうなの。でもその好きな子は今ここにはいないわよ」

「関係ないです」

「うふふ、面白い子ね。じゃあ、あなたが私を拒めば、久坂の意図を汲み取らないって言ったらどうするの?」

 傾いた相手の顔が近づいた。しかし何を引き合いに出されてもそれを受け取ることはできず、拒否を返す。すると途端、逆らったことへの仕打ちのように腕を強く握られ、彼女は絶対的立ち位置をより強固なものにしようとする。

 迫る指先が頬に触れ、生きたまま喰らわれる小動物のような自分を思うが、苦し紛れに目を逸らす。

 その視線は傍の鏡台を捉えていた。

 鏡面には、膝上に跨る相手の姿が映り込んでいる。

 その光景は再び目を逸らしたくなるものでしかなかったが、鏡面に貼りついた視線は凍りついたままだった。


「どうしたの吟爾、何か面白いものでも見えたのかしら?」

 表情を覗き込む相貌は変わらず美しかったが、視線の先にある鏡面には、祖母のキミよりももっと歳を取った老婆が映っている。

 驚愕の目でそれを見るしかないが、相手からは全てを包括した余裕の笑みしか零れなかった。


「吟爾、好きな子がいるんでしょう?」

 鏡の姿を一瞥し、彼女は深淵の笑みを浮かべる。その堂々とした立ち振る舞いには肌が粟立ち、艶やかな香りと共にある微笑みには戦慄が走る。

「ねぇ、私に従わないって選択はまだあなたの中にあるの?」

 漂う支配が耳元で香り、消えることもない。

「あっ……」

 だがおれは迫る相手の身体を抱きかかえると立ち上がり、耳元に届く彼女の短い悲鳴を聞きながら壁際に向かった。

 首に腕を回し、身を寄せる相手の身体をチェストの上に乱暴に放る。

 その弾みで上に載った香水や小物が床にバラバラと散らばった。

 逃れられないよう壁に手をつき、対峙する相手の乱れた髪を掻き上げる。

 畏れはあっても抗う術は自分の中にまだ残っていた。その相貌に微か浮かび上がる動揺を目に映せば、意に添わずとも息は荒くなった。


「……これなら、いいですか……?」

「本当に面白そうね、あなた」

 相手はこちらを見上げると、掲げた脚で身体をなぞる。

 微かだけ見えた動揺は既に消え去り、それは膨張しながらおれの表情に転移していた。

「それで、この後はどうするのかしら? 吟爾」

 均衡はとうに崩れ去り、上に立つ勝者がどちらであるかは明白だった。

 相手の些細な抵抗など彼女にとって、小動物の断末魔のように微々たるものでしかない。

「なんだかもう少し、愉しめそう」

 向かい合う表情には、深い夜を思わせる笑みが刻まれる。

 それが合図のように周囲は暗転した。

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