3.夕闇と夜の狭間
「僕の名を出せば、夜夕子には伝わるはずだよ」
その言葉を残し、男は沈む夕陽を背に帰っていった。
新たな決意と手にした地図をポケットに押し込み、店へと戻る。
時計を見ると、いつの間にか六時を過ぎている。普段ならとっくに閉めている時間だった。祖母のキミは一旦遊びに出ると九時過ぎまで戻ってくることはないから、今日は間違いなく一人での夕食だった。
「なぁ十和、晩飯、焼きそばだけど食ってくか?」
カップやグラスを洗いながら、テーブル席に佇む十和に声をかける。
父親の入院で一人暮らし状態の十和とは、時折夕飯を共にしていた。大抵はキミの手料理がある時なのだが、祖母がいない時は逆に十和の料理で二人で過ごすこともある。
今日は奇妙な男との出会いを始め、感情的に色々な出来事があった。大したものなど作れないが、十和をこのまま一人きりの家に帰す気にはなれなかった。
「十和?」
しかしかけた声に反応は返らず、もう一度呼びかけても返事はない。片づけを早々に済ませてテーブルに歩み寄ると、おれは彼女の隣に座った。
「どうかしたのか?」
「……吟爾」
三度目の呼びかけに、ようやく十和は顔を上げる。
その表情には不安があるが、おれはそこに不安があると感じるだけで、彼女の感情全てを読み取れる訳でもない。ふと機微を理解していないと言い放った男の言葉を思い出す。腹立たしさが蘇りそうになるが、それを感情の外に追いやって再度声をかけた。
「もしかして心配か?」
向けた声には十和の髪が揺れる。一緒に揺れたスカートから覗く両脚には、その場の多くを占める絆創膏と疵痕がある。合間に見える白い肌に目を奪われそうになるが、今度はその邪な感情を追い払って、彼女が浮かべた肯定の反応に感情を向けた。
ストリップバーだろうが何だろうが僅かな光明があるなら、どこにでも行くつもりだった。しかし彼女の心配がもし別の不安、ストリップバーに行くことに対してそう感じているのなら、それは不要なものでしかなかった。つい向けてしまう視線が避けられないものだとしても、それが十和でないのなら最終的に何の意味もない。道端に落ちているグラビア雑誌の裸と何ら変わりはなかった。
「十和、おれはストリップバーなんかに行っても別に……」
「ううん、違うよ。そんなこと……吟爾のこと分かってるから、そんな心配はしてない。だけどもし……吟爾が私のせいで無理をして危険な目に遭うとしたら、私……そんなことは望んでない……吟爾を危ない目に遭わせたりしてまで私、まともな人生が欲しいとは思ってないから……」
顔を上げた十和の右の瞳には、涙が溜まっている。
それが零れないよう堪える彼女を胸元に抱き寄せた。
彼女が愛しくてたまらない。
彼女のためなら何でもしたい。
彼女を守るためなら何でもする。
許される限り彼女の傍にいて、だがもし、彼女がそれを許さないというその時が来たら、永遠に消えても構わなかった。
「吟爾……」
胸元には彼女の柔らかな頬の感触がある。彼女が身動ぎする度に心拍数が上がり、もっと触れようとする感情が両腕を動かそうとする。いつまでもその感触に浸っていたいが、これ以上触れていたら全ての抑えが利かなくなりそうだった。
「十和……晩飯、食べてくか?」
その感情を掻き消すように呟きを零す。
「……うん。焼きそば大好きだよ」
微かに戻った返事におれは頷き返した。
*****
ガラガラと引き戸が開く音がする。
祖母の古い家は店舗と住居を兼ねた造りだった。一階には喫茶店以外に居間や水回り、祖母の部屋、二階に上がれば物置代わりの空き部屋とおれ用の個室がある。
全体的に古き良き時代と呼ぶのか、その頃の遺物的家屋と称するのが恐らく正しいが、つまりは率直にぼろ屋とも言う。毎度響き渡る建て付けの悪い引き戸の開閉音は、その象徴のようなものだった。
「ぎんじー、今帰ったよー」
九時を少し回った頃、二軒先まで届く声を上げて祖母のキミが帰ってきた。
彼女は今年で七十五になるが、普段その年齢を感じさせることはほぼなく、見た目は確かに婆さんだが中身はまだ青春を謳歌しているように見える。けれども自分がその年齢になった時、そうありたいかはかなり判断しかねる。しかし他人や孫がどう思おうと、残りの人生を自分で歩む今の彼女はとても幸せそうに見えた。
「あー、楽しかった」
玄関で出迎えると、健康サンダルを脱ぎながら祖母が言う。
「また駅前のカラオケ屋か?」
「まあね。あんたはどうせ変わり映えがないって言いたいんだろうが、あそこは乾き物のつまみがおいしいんだよ。それに爺さん婆さんが大挙して押しかけても、店員も案外優しいしね」
わいわいがやがやと毎度騒がしい祖母と友人達は、男女の垣根もなく、遊び好きの大学生みたいにつるんでいる。仲間内では老いらくの恋のようなものもあるらしいが、ワイドショーの餌として弄ばれる世迷い事さえ起きなければ、特に気に留めることも心配することもない。
「じゃ、晩飯はもう食った?」
「食べたよ。まるげりーたぴざとばじるちきん、お勧めされたからそんなのをいただいたよ。あんたは?」
「おれは十和と食った」
「ん、十和ちゃん……来てたのかい?」
「ああ、八時頃には帰ったけど」
「……そうかい」
祖母の声には曇りが混じる。直接に口にしないが、祖母は十和とおれが親密にすることを諸手を挙げて同意していない。しかし幼い頃から知る十和のことが気に入らないとか好かないという訳ではなく、逆に孫のおれ以上に可愛がってもいる。
だがこのことが話題に上がると、祖母との間には微妙な空気が流れる。喩えるなら、解決法の見えない難題を永遠に眺めて続けているようとも言える。
「……さぁーて、じゃ、あたしは風呂にでも入って休もうかね」
その空気を覆すように祖母は三和土に上がり、自室に向かおうとしていた。いつもならそれに従っておれも何も言うことはないが、今夜はその背を呼び止めていた。
「あのさ、ばーちゃん。おれ、これからちょっと出かけてくる」
「は? こんな時間からかい? でもそういえばあんた……珍しい格好してるね」
足を止めた祖母は、今ようやくそれに気づいた顔をした。
彼女が珍しいと称する服装に関しては、そう指摘されること自体が酷く居たたまれない。今着ている紺色のVネックニットシャツ、これは昨年末、祖母が商店街の福引きで当てた『洋品たけだ』の二等賞品だった。
男物であることや祖母の友人達には年齢的に合わなかったために、こちらの手に必然的に渡ったものだが、感想を率直に述べれば見た直後に難色と拒否感を覚える、所謂趣味に合わない一品だった。せっかくくれた祖母には悪かったが、その日から一度も袖を通さずに、タンスの引き出しの奥に押し込まれる運命を辿っていた。
「それ、あたしが福引きで当てたやつだね。あんた、やっと着たんだね」
「うん、まぁ……」
老け顔という事実には客観的に判断をつけられないが、年上に見られることはままある。
今夜『ロッソ』に辿り着き、歳は顔で誤魔化せても、いつもの高校生丸出しの服装では門前払いの危惧は残る。それに関しては不満の残る相手の助言に乗っ取ったものだが、あの指摘は正しくもある。趣味でないのは今も変わらないが、祖母からの贈り物は今晩ようやく的確な役目と日の目を見る機会を得たようだった。
「うん、いいんじゃないの、似合ってるよ。昔の映画スターみたいだ」
「……映画スター? 何それ、ばーちゃん、褒めてんの?」
「はぁ? 褒めてんだよ、これ以上の褒め言葉なんて他にあるかい? それに爺さんの若い頃にもよく似てるよ」
「うん……それはまぁよく分かんないけど……でもありがと」
ぼそぼそと返事を戻しながら、祖母と入れ違いに玄関に取って返す。下駄箱からマシな方のスニーカーを取り出すが、靴下に穴が開いていることに今更のように気づく。何も見なかったことにして上がり口に腰を下ろすと、背後に歩み寄る気配を感じ取った。
「吟爾、さっきも言ったけど、随分と遅い外出なんだね」
「ああ、今晩どうしても外せない用があるんだ。だけどそんなに遅くならないとは思う」
遅くならないかどうかは現時点で全く不明だったが、行く場所と目的を思えば、そう言うのが最良でしかなかった。
「十和ちゃん……元気だったかい?」
背後の声はまだ続いていた。
繰り返されるそれには再びの微妙な空気を感じる。けれども何も言わずにやり過ごすこともできなかった。
振り返った場所には、深い思いを刻み込んだ表情がある。
感情がせめぎ合っても見えるその表情には、一瞬の躊躇を覚えた。
「まぁ元気だよ、毎度の如く怪我はしてるけど」
おれはなるべく軽く聞こえるように、定型どおりの返事を戻す。そこにはまだ惑いと危惧が残るが、それらを追い出しておれは勢いよく立ち上がった。
「大丈夫だよ、ばーちゃん。今夜の用に十和は関係ないし、一緒でもない」
祖母から十和の名が出た意味は分かっていた。そこに含まれるものが何であるかも分かっていた。でも今は様々な思いを含むそのことを直視して逡巡する場面ではなかった。
「じゃ、行ってくる」
「……吟爾、分かってるよね」
微かに響いた声が足を止めた。
届く声は重かった。余韻を引き摺ろうとする背後の気配は、それ以上に重い。
多分、分かっている。
祖母の危惧も、その言葉の持つ意味も分かっている。しかしこの場で澱もうとする気配を断ったのは、祖母自身の声だった。
「いや、吟爾……今のは忘れてくれ……あんたは分かってる。分かっていないのは、きっとあたしの方だよ」
罪とか罰とか、そんな言葉が頭に浮かぶ。
だがこれはこちらの事情で、十和には関係ない。
今夜の行動は彼女の不安を晴らす僅かな一歩になる。今はそのことだけを考えるべきだった。
おれは建て付けの悪い引き戸を慣れた手で開け放った。
祖母の言葉を背に、夜の街へと踏み出した。
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