ある日のブローディ
ブローディは紙と格闘していた。
夕食を終え、湯を浴びさっぱりとした後、少し残ってしまった書類の中身を精査し、署名するのだ。
仄かなランプの灯りの中、執務室というには少し寂しい、大き目の机と打ち合わせ用のテーブルセット、それにソファがあるだけの部屋で、目を細めながら文字を追いかけている。
その日の仕事はその日に終える。
騎士団で覚えたブローディの仕事のやり方だ。
憂いを無くし、安堵の中で眠りにつく。ストレスを抱えやすい管理職での精神的な健康の保ち方だった。
「だんなさまー」
執務室の扉が少し空いており、その隙間からカミラがひょこっと顔を覗かせていた。
手に持ったランプの灯りに照らされたその顔は、少し困った表情に見える。ブローディの愛する妻はご機嫌斜めのようだった。
ブローディは背もたれに寄りかかり、ふぅと息を吐く。
「ん、もう少しで終わるぞ」
ブローディはカミラに微笑みで返す。だがカミラの眉は末端を垂れ下げていた。何とも悲し気なその顔に、ブローディは持っていたペンを転がし机に手を突き立ち上がる。
それはカミラによる無言の「仕事終了の合図」だった。
「もう夜も遅いであります、夜更かしすると使用人たちも寝られないであります」
「あぁ、分かってる」
速足でカミラに向かい、肩を抱く。案の定、カミラは寝間着にケープという、秋の夜にはちと足りない格好だった。ぱっくりと空いた胸元からは鎖骨がお出迎えして、たわわな谷間が慰労してくれた。
「今日はもう終わりにする」
踵を返し部屋に戻ったブローディはランプの中の火を消し、流れる動作でカミラの元に帰った。今のブローディにカミラの機嫌を損ねるという選択肢は、全くないのだ。
そんなブローディを、カミラはにこっと出迎えてくれる。
「良くできたであります」
カミラがブローディの左腕を絡めとるように抱きしめてくる。ブローディはご褒美をもらった忠犬のように頬を緩ませる。
「健康第一、だったな」
「睡眠不足はもってのほかであります」
カミラがふふっと笑う。ブローディと一緒になる前の嬉しそうな笑みではなく、労わりが染み出る笑みだ。そんな笑みがブローディの
一日でも長くカミラといるために、ブローディは生活を改めた。
剣の鍛錬はするが無理をしない程度に抑えた。身体を動かすと精神も安定する。
好調な体調を維持する為に好き嫌いをなくすようにした。ブローディはシイタケが嫌いだ。というかキノコ全般が苦手だ。だがカミラの指導の元、食べるようにしていた。
「食は健康の源、であります」
身体を丈夫にすれば病気にもかかりにくくなる。当然長生きできるだろう。ブローディには無視できないことだ。
「シイタケも、大分慣れたな」
「良かったであります」
カミラが柔らかく微笑む。その笑みを見ると、独り身だった頃には考えられなような満足感がブローディを駆け抜ける。カミラの笑顔は騎士団でも沢山見てきたはずだが、こんなふわりとした笑顔はなかった。
ブローディは自分にだけ向けられるこの笑顔の虜となっていったのだ。
「だんなさまには、一日でも一時間でも長く私の傍にいて貰うであります」
「あぁ」
ブローディは掌をそっとカミラの腹に当てた。
「検診の結果は?」
「問題なしであります!」
今までずっと見てきた嬉しそうな笑みが、ブローディを掻き立てる。
――コイツを置いては死ねねぇ。
「あと三十年は生きるぞ」
カミラに飼いならされていく実感をしつつ、それが幸せなのだと悟ったブローディだった。
灰色狼と猪娘 凍った鍋敷き @Dead_cat_bounce
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