イマジン - 4
それからまた数ヶ月が過ぎた。
「ベルも一歳か、もうすっかり大人だな」
稲井が感慨深げに言う。そうか、稲井が猫を飼おうなんて言い出した日からもう一年経ってしまったのか。
以前から予感はあった。薄々だった予感は確信に変わりつつあった。ベルの気配はますます強まっていて、最近ではベルが近くにいるとき手や足に何かがふわりと触れる感触がする。
そのうち見えるようになってしまうんじゃないか。稲井みたいに、見えて、撫でられるようになってしまうんじゃないか。そう思っていた矢先のことだった。
その時は不意に訪れた。
いつも通りに鈴の音が近づいてきて、ああベルが撫でてもらいにきたか、と顔を上げたとき。
俺の目の前にいたのは、紛れもなく猫だった。
クリーム色の毛並みのスコティッシュフォールド。青い首輪に小さな銀色の鈴。あのときの写真よりすっかり大きくなったベルがそこにいて、俺を見上げていた。
「ベル……?」
にゃあ、と鳴いて足に身体を摺り寄せてくるベルは、俺の頭の中で思い描いて動いていたそのままの姿だった。足に伝わるくすぐったい感触も、その温かさも。本物の猫としか思えなかった。
「あ……」
慌てて立ち上がる。ベルがにゃっと叫んで飛び退く。
部屋を横切り、靴をつっかけ、踵を踏んだまま玄関ドアを押し開けた。
「おい、どこ行くんだ?」
稲井の問いかけも無視して、家を飛び出す。
ついに見えるようになってしまった。足にも触れた。感触があった。触れるようにもなってしまったとうとうこの時が来てしまったんだ。
得体の知れない恐怖に襲われて、俺は叫びながら走った。これまでなし崩し的に受け入れてきたことだけど、よくよく考えたら異常だ。あまりにも異常すぎるんだ。
やっと猫が見えるようになった? 違う! 本来なら存在さえもしていない猫だ。見えてはいけないはずなんだ。声が聞こえてもいけないはずなんだ。じゃあ、どうして見える。どうして聞こえる。どうして触れる。……どうしてこんなことになった。
闇雲に走っているうち、大学まで辿り着いてしまった。俺は門をくぐり、キャンパス内によろよろと足を踏み入れた。誰か……誰でもいい。俺が狂ったのなら狂ったとはっきり自覚したい。お前がおかしいんだと言ってほしい。おれは喜んで納得し、病院に駆け込むだろう。頼む。誰か。……誰か。
休日のキャンパスに人の姿はまばらで、知っている人間はどこにも見当たらない。ただでさえ知り合いは少ないのだ。俺はうろうろした末に、もっとも人が多そうな部室棟に足を向けた。
間のいいことに、ちょうど部室棟から出てきた男には見覚えがあった。
クラスメイトの秋月。おとなしめの雰囲気の男で、数回話したことがある。じゅうぶんだ。
「おい! 秋月!」俺は駆け寄った。
「……誰かと思ったら。どうしたんだい、急に」
「た、頼む、助けてくれ」
秋月を揺さぶりながら頭を下げる。
「な、何があったのか知らないけど揺さぶるのをやめてくれ。話は聞くから」
俺が手を離すと、秋月は咳き込みながら後退った。
「いきなりひどいな、もう……。で、話って?」
俺は涙目の秋月に向かってすべてを話した。
稲井が猫を飼おうと言い出したあたりから、ベルが見えたこと、触れたことまで何もかも。
「……というわけだ。俺はもう、自分が信じられない」
話し終わってから、俺はスマホの写真を見せた。
「この写真、見てくれ。稲井が『ベルと一緒に写真撮ってくれ』っていうから仕方なく撮ってやったやつなんだけどさ。なあ、猫なんてどこにも写ってないよな? 写ってないって言ってくれ」
ソファに座った稲井がベルを抱いて笑っている写真だ。稲井に撮ってくれよと言われて仕方なく撮った。そのときはまだ、ベルは見えなかった。
だけど今の俺には、そこにベルがいるように見える。ベルが見えてしまう。ベルは本当にいるのか? いるならいる、いないならいない。はっきりとした答えが欲しかった。自分の目が信じられないなら、他人に頼るしかない。
秋月はそれをたっぷり二十秒ほど眺めたあと、俺の顔をまじまじと見た。
「何が写ってるって?」
「稲井が抱いてるベルだよ! なあ、ひょっとしてお前にもベルが……」
「いや、見えないよ。猫は写ってない」
秋月は首を振った。
俺は全身が言い知れぬ安堵感に包まれるのを感じた。
「ああ、よかった。実はベルが実在してるんじゃないかと――」
「ただし、人間も写ってないけどな。なあ、僕にはただのソファしか映ってないように見えるんだけど、一体どこにいるんだ? その稲井とかいう友人は」
俺はぽかんと口を開けた。
「何を言ってるんだ? 稲井はここに……」
写真を見る。ソファの上に座っている稲井、その膝の上のベル。その姿が揺らいだ。手から力が抜け、俺はスマホを取り落とした。落ちた弾みにどこか壊れたのか、視界の端でスマホの画面が真っ暗になって、消える。
ああ、思い出した。
急速に視界が暗くなる。
「おい、大丈夫か? おい!」秋月の声がどんどん遠ざかっていく。
そうだったな。まだ俺が保育園に通っていた頃のことだ。両親は共働きでほとんど遊んでくれなかったし、保育園でも全然友達ができなかったから、俺は毎日ずっと独りで過ごしていたのだ。
それがあまりに寂しくて、耐えられなかったから。
だから頭の中で、俺は、友達を――
Nekology入門 紫水街(旧:水尾) @elbaite
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