イマジン - 3

 やがて、生後五ヶ月だったベルは生後八ヶ月になり、身体もすっかり大きくなった。「八ヶ月あたりになると、ほぼ成猫と変わりません」と店員さんが言っていた。もうベルは子猫ではないのだ。

 甘えん坊だったのがどことなくクールになった。呼んでも来ないことがある。稲井が撫でている最中でも、突然気が変わったとでも言いたげにどこかへ歩き去ってしまうらしい。気まぐれな猫だ。

 ベルは家の中を自由に歩き回る。リビング。俺の部屋。稲井の部屋。歩くとき鈴がりんりんと鳴るので、ベルが今どこにいるのかわかる。わかってしまう。

「ほーらベル、こっちだこっち」

 今もそうだ。稲井がベルに向かって手招きしたのに、ベルは台所のほうへ歩き去ってしまった。それがはっきりと想像できてしまう。

 以前は目を閉じてベルの動きを想像していたはずなのに、最近は鈴の音でベルの動きがなんとなくわかるようになっている。だけど本来、鈴の音だって聞こえるわけがない。聞こえたらおかしいはずなのだ。

「最近撫でさせてくれないよなあ」

「稲井」

 顔だけ振り向いた稲井は「何やねん」と言った。

「ベルは今どこにいる?」

「どこって……台所だろ。あーあ、いくら呼んでも全然来てくれないんだもんな。寂しいぜ」

 やっぱりだ。稲井はベルが台所にいることをわかっている。でも、どうしてだ?

「そういうことじゃない。どうして、の猫の場所を俺とお前が共有できてるのかってことだ」

「ん? ああ……ほんとだな! よかったじゃんか。お前もついに違和感なくベルと暮らせるようになったんだ。めでたいこっちゃ」

「そういうことを言いたいんじゃなくて……」

 俺は言い淀んだ。何だろう、この違和感は。

「じゃあ、どういうことを言いたいんだ? 知っての通り、思い込みの力ってのはすごいんだ。猫と一緒に暮らしてるつもりでずっと生活してれば、首輪の鈴の音だって聞こえるようにもなるさ。そのうち姿だってはっきり見えるようになるぜ」

「でも……それってさ、要は幻覚、幻聴だろ? 怖くないか?」

「別に。まあ、四六時中目の前で極楽鳥が舞ってるとか、ずっと耳元で誰かの呻き声が流れ続けてるとかだったら素直に病院行ったほうがいいかもしれないけどな。でもかわいい猫が見えて、癒されて、何が困るってんだ? むしろ幸せだろ」

 稲井は立ち上がって「ベル〜」と台所のほうへ行ってしまった。

「……お前は気楽でいいよな」

 俺が呟いたとき、足元でりん、と鈴の音が響いた。

「ベルか?」

 また鈴が鳴る。台所から「あれ、ベル? どこ?」と稲井の声が聞こえてくる。

「実在しない猫を飼うって話だったのにな。いつの間にか鈴の音は聞こえるし、稲井はすっかりお前のことをかわいがってるし。お前、本当にいないのか? それとも、見えないだけで実はそこにいたりするのか?」

 我ながら何を言っているのかと思う。おまけに話し相手は、いないはずの猫だ。どこからどう見ても重症だ。

 そのとき、にゃあ、と鳴き声が聞こえた。

「え?」

 そして、何かふわっとしたものが足を掠める感触がした気がして……俺は飛び上がった。

 慌てて周囲を見渡す。ベルの姿は見えない。当たり前だ。

 じゃあ今のは何だ。鳴き声も聞こえた気がする。気のせいか。気のせいであってくれ。

 鈴の音が遠ざかり、稲井の部屋のほうに消えていく。

「あ、ベル! なんだかんだ言ってもやっぱり俺のことが好きなんだろ。ほれほれ、ここがいいのか? ここか?」

 少し遅れて、稲井の声が響いてきた。

 俺は頭を抱えた。俺と稲井の認識が完全に一致している。

 ベルは……もしかしてベルは、本当は実在していて、俺に見えていないだけなんじゃないだろうか。それなら鈴の音も鳴き声も全部説明がつく。だけど見えない猫なんてあまりにも非現実的だ。……じゃあ、やっぱりベルは実在していなくて、俺の頭の中だけにいるのか。でもそれなら、どうして稲井にもベルが見えてるんだ? 結局ベルはいるのか? いないのか? 何がなんだかわからない。頭がおかしくなりそうだった。

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