イマジン - 2
次の日から、二人の生活が二人と一匹の生活になった。
俺と稲井が大学に行っている間は、ベルが留守番だ。家に帰ると、稲井が「ただいまー!」と叫ぶ。するとベルが家の奥からてしてしと走ってきて、稲井に飛びつく。らしい。
「猫ってもっとツンツンしてるものだと思ってたけど、ベルは甘えてくるなあ。まだ子猫だからか?」
ある日、稲井が膝の上の何かを撫でながら嬉しそうに言った。
「かわいいやつめ。腹減ったのか? ……あ、子猫用の餌買ってこないとな」
「え、そこまでするのか?」
当たり前だろ、と稲井は膝の上の空間をこちょこちょと撫でる。
「俺たちの食べ物を分けてやるのにも限界があるだろ。人間の食べ物なんて、猫の身体にいいものじゃないしな」
いくらなんでもやりすぎじゃないか。そんな俺の抗議をよそに、次の日、俺と稲井はペットショップに来ていた。稲井がどうしてもと言うから仕方なくだ。
「あのー」
店に入って声をかけると、腕や脚など全体的に太めの店員さんがにこにこしながら近づいてきた。
「はいはい、どういったご用件でしょうか」
「子猫用の餌とか一式欲しいんですけど……スコティッシュフォールドの……」
「スコちゃん! かーわいいですよね〜! あ、生後何ヶ月ぐらいですか?」
テンションが高い。ペットショップに勤めているくらいだから、やっぱり動物好きなんだろうか。
「え? あー、えっと……稲井、どのくらいかわかるか?」
「五ヶ月ぐらいじゃないの?」
「だ、そうです。たぶん五ヶ月ぐらい」
しばらく沈黙が続いた。
返事がないので顔を上げると、さっきまでにこにこしていたはずの店員さんが、なんだか変なものでも見たような顔になっている。
「あの?」
「あっ……はい。失礼しました。えっと、五ヶ月でしたらおそらく成猫用のドライフードで問題ありませんよ」
「じゃあ適当なのをお願いします。特に好き嫌いとかはないはずなんで」
「かしこまりました、お持ちしますね」
店員さんは逃げるように奥へと引っ込んでいった。
「あの店員、俺たちを子猫誘拐グループの人間か何かと勘違いしたのか?」
稲井が奥を睨みつけながら呟く。
「そうかもな。まあ……これまでにも何回かこういうことあっただろ。あんまり気にすんなよ」
会ったばかりの人に不審者を見るような目で見られるのは、一度や二度ではない。大抵は慌てて会話を打ち切られたり、逃げるようにその場を去られたり。そのせいで、もう十年以上前から他人との会話を避ける習慣が身についている。今ではもう稲井以外の人間と話す日のほうが少ないぐらいだ。
避けられる原因はあれこれ考えてみたものの、結局わからずじまいだ。最近はもう、俺の顔が厳ついせいで怖がられているのだと思うことにしている。
「ふう、こちらになります」
店員さんが大きめの袋をふたつ持って奥からよたよたと戻ってきた。
「すみません、三キロ入りの袋なので少々重くて……こちら人工添加物を一切使用しておらず、猫ちゃんの食いつきもいいと評判のキャットフードですよ。こちらが肉、こちらが魚の味です」
「あ、じゃあそれを……」
「せっかくだ、両方買っとけ」稲井が口を挟む。
「……両方お願いします」
「かしこまりました! 猫ちゃんかわいがってあげてくださいね〜」
店員さんはいつの間にか笑顔に戻っている。プロ意識が高いのだろうか。それとも、さっきの表情は見間違いだったとか。
なんにせよ、怖がられないのはありがたい。
俺はキャットフードの代金を支払い、重い袋をぶら下げてえっちらおっちら店を出た。
「なあ、餌皿も買わないと」
稲井が思いついたように言う。勘弁してくれ。空想上の子猫にどれだけ出費を嵩ませる気だ。
「……また今度にしてくれ。っていうかお前も持てよ」
「俺は箸より重いものが持てないんだよ」
稲井は鼻歌を歌いながらさっさと歩いていってしまった。くそっ。
家に帰ってから、棚の奥にあった適当な大きさの皿を取り出した。わざわざ買いに行かなくても余ってるのを使えばいい。皿の底にマジックペンで『ベル』と書いて、キャットフードをざらざらと流し込んだ。
「ほらベル、餌だぞ」
呼んでから、目を瞑る。最近はけっこう想像にも慣れてきて、部屋の奥から鈴と尻尾を揺らしながら駆け寄ってくるベルの姿がすんなりと浮かぶようになっていた。ベルは餌皿に鼻を近づけてふんふんと匂いを嗅ぐだろう。そうそう、それは餌だ。わざわざお前のために買ってきたやつだぞ。
「おっ、食べてる食べてる」
稲井が嬉しそうに叫ぶ。
目を開けると、そこにはさっきと何も変わらない餌皿があった。ベルはいない。……当たり前か。
「稲井、ベルが見えてるように生活するの上手すぎないか?」
「上手いも何も、実際見えてるからな」
稲井は胸を張った。
「は?」
「逆にお前はまだ見えてなかったのかよ。もったいないぜ、こーんなにかわいいのに」
稲井は餌皿の上あたりの空間を撫でながら笑った。なんてやつだ。道理で撫で方にリアリティが出てきたと思ったんだ。
それからというもの、食事のときはベルの皿も用意するようになった。
「ご飯はみんなで食べたほうが楽しいだろ」と稲井が主張したからだ。
こうして、見えない猫の存在は生活の中に少しずつ溶け込んでいった。
このときはまだ、遊びで済んでいた。
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