イマジン

イマジン - 1

 稲井が突然「猫を飼いたい」と言い出したので、俺は皿洗いの手を止めて振り返った。

「猫?」

「そう、猫。やっぱりさ、家に二人きりだと寂しいだろ? かわいらしい猫チャンを飼って生活にハリとツヤと潤いをもたらそうぜ」

 稲井は保育園の頃からの友人だ。何の因果か大学まで同じになってしまったので、入学時からこうしてシェアハウスをしている。こいつが押しかけてきてそのまま住みついた、とも言う。

「でも、誰が世話するんだよ」

「お前に決まってんだろ」

 稲井はニヤリと笑う。こいつは絶対に家事をしないので、炊事も洗濯も何もかもが俺の仕事だ。文句を言ったところでやってくれるわけでもないので、もうすっかり慣れてしまった。召使の気分だ。

 猫の世話だって、同じように押し付けられるに決まっている。

「俺は家事で手一杯だ、誰かさんのぶんまでやってるせいでな」

「そうか、それならしょうがないな」

 稲井は意外にもあっさりと引き下がった。

「じゃああれだ、空想上の猫でもいいから」

 引き下がってなかった。

「はあ?」

「簡単だよ。この家の中に猫が一匹いるつもりで生活するんだ。俺とお前のかわいいペットだぞ。名前は、そうだな……ポチにしよう」

「ポチは犬の名前だろ……」

「じゃあ何がいいんだ? 決めてくれ、お前の好きな名前でいいぞ」

「好きな名前、なあ……」

 いきなり言われても困る。それに、どんな名前を付けたところで猫なんて実在しないことに変わりはない。俺は溜息を吐いて洗い物を再開した。

「じゃあ外見から先に決めようぜ」

 稲井がソファから上体を起こす気配が伝わってくる。

「どんな猫がいい? ロシアンブルーだろ、メインクーンだろ、それからスコティッシュフォールド、マンチカン、ブリティッシュショートヘア……」

「詳しいんだな」

 俺は洗い終わった皿を伏せ、水を止めて手を拭いた。こいつが猫好きだとは知らなかった。……いや、どうせ聞いたことある名前を列挙しただけ、とかそんなオチだろう。

「いや、聞いたことある名前を列挙しただけだ」

 ほーら、やっぱりな。

 俺は稲井の脚をどかしてソファに座り込む。

「その中なら……スコティッシュフォールドだな。以前読んだ小説に出てきた」

 義理の妹が猫になってしまう、という不思議な小説だった。どこで読んだのかはもう忘れてしまったけれど。

「よし、じゃあ調べてみろよ。どんな色でどんな毛並みなんだ?」

 そうだった。こいつはスマホを持っていない。この現代社会でどうやってスマホなしで生きていられるのか……それはもちろん、何かあったら俺のスマホを使っているからだ。やれやれ。

「えーと……けっこうがっしりした体格で、ふわふわの体毛に丸い目。毛色も模様もいろいろあるな。耳がぺたっと折れ曲がっているのが特徴。なるほど、だから折れたフォールドなのか」

「ほうほう、どれどれ?」

 稲井がスマホを覗き込んでくる。

「おっ。この子かわいいじゃん、この子にしようぜ」

 指差したのは、薄いクリーム色の毛並みをしたかわいい子猫の写真だった。腰を抜かしたような不思議かわいい座り方をして、つぶらなかわいい瞳で撮影者を見上げている。なるほどかわいい。確かにかわいいな、これは。うん。かわいい。

「よし、じゃあこの子猫にしよう。で、首輪は? どんなデザインにする?」

「ええ、そこまで決めるのか……?」

「ばっかやろ、お前、せっかくの猫だぞ。首輪にもこだわらないと」

 稲井は手をぶんぶん振り回した。

「できるだけ具体的に頭の中に思い描いて、んで、その猫が家の中にいるって常に思い込むようにするんだ。そうすればきっと、そのうち猫と一緒に暮らしてるような気分になるはずだぜ」

「そういうもんかなあ」

「そういうもんだ。それに、お前は得意なはずだろ」

 俺は首を傾げながらも、なんとなく首輪を想像してみた。クリーム色の毛並みには、どんな色が合うだろう。クリーム色の補色なら青か紫か。青かな。青の首輪。うん、似合いそうだ。

「青い首輪とか良さそうだな」

「青一色か?」

「えっ、あ、うーん……そうだな、青一色」

「柄は? 材質は? 鈴は?」

 稲井は矢継ぎ早に訊いてくる。

「細かいな! えーと、柄はない。革製でベルトみたいなデザインだ。つるっとした手触りかな。かわいい銀色のバックルが付いてる。それと……鈴も付けるよ。小さくて銀色で、控えめな音量でりんりん鳴るやつだ。きっと気に入ってくれる」

 言っているうちに、頭の中で首輪のイメージがどんどんはっきりとしてきた。目を閉じると、触れそうなほどにくっきりとした首輪の画が瞼の裏に浮かび上がる。不思議なことに、こうなると少し楽しくなってくるものだ。

「なんだなんだ、ノリノリじゃないか。じゃあ、その素敵な首輪を付けた子猫ちゃんをイメージするぞ」

 頭の中で、写真に写っていたクリーム色の子猫を想像する。あの青い首輪を付けている。鈴が小さくりん、と鳴る。ああ、あのくりっとした瞳で見上げてきて無言で餌をねだる様子が見えるようだ。

「どうだ? そろそろ名前も浮かんできたんじゃないか?」

 名前。もう一度目を閉じて、子猫の姿をイメージしてみた。首を振っている。首輪の鈴を何度も揺らしている。嫌がっているわけではなさそうだ。鈴の音を気に入ってくれたのだろうか。それなら。

「ベルにしよう」

 安直かもしれないけど、しっくりきた。ベル。いい名前じゃないか。

「いい名前だな」

 稲井が頷く。

「あとは、その子猫ちゃんが家の中にいるつもりで生活すればいいんだ。簡単だろ?」

「まあ……やるだけやってみるよ」

 俺は欠伸をひとつして、自分の部屋に戻った。ベッドに横たわって、口の中で「ベル」と呟いてみる。どんな性格の子猫だろうか。寂しがり屋? 甘えん坊? それともクール?

「よーしよしよし、この甘えん坊め」

 リビングから稲井の声がする。さっそくベルをかわいがっているつもりのようだ。どうやらベルは甘えん坊らしい。

 なんだか妙なことになった。でもまあ、稲井が満足するまでは付き合ってやるか。

 俺は目を閉じた。

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