アップル

 瀬川夏乃は、ある人気アイドルグループにハマっている。フランス語で「糸巻き」という意味を持つ「カネット」というアイドルグループなのだが、夏乃の熱烈な誘いに負け、明日、彼女たちのライブを初めて観に行くことになった。ちなみに、夏乃の推しメンは「宇佐美真結」というメンバーらしい。オフィシャルサイトのプロフィールページを覗いてみると、ああ、なるほど。確かにかわいい。同じ美人でも、親友の佐野凉果とかとはまた違った雰囲気を持っている。数年前までは、私と同じごく普通の高校生だったのに、ちょっと舞台に上がったり、プロモーションビデオに出演したりしているうちに、どんどんその表情は普通の女子高校生とはかけ離れた、みずみずしくて、美しいものになっていく。最初はアイドルを好きになることに抵抗があったが、今は夏乃の気持ちも少しはわかるようになった。だけど、ライブに行くのは初めて。やっぱり緊張してしまう。

「深青、ちゃんと明日の準備した?」と夏乃からメッセージが送られてきた。

「うん、リュックも、服も、カネットのイメージカラーに揃えたよ。」と返信する。

「おっ、ノリノリだね。」と再び夏乃からのメッセージ。

「そうでもないけど・・・。」と照れ隠ししながら。

 一階から、「明日は朝早いんだから、ちゃんと寝なきゃ駄目よ。」と母親の声がする。私は、「はーい。」と言いつつも、しばらくはカネットのライブを見て、明日の予習をしていた。そして、夢の世界に入っても、もう前のようにヒーローは現れない。安心して、翌日を朝を迎えた。いや、迎えられるはずだった。夜明け前、夏乃から一通のメッセージが送られてきた。

「やばい、チケットどこにいったんだろう。」と相当焦った様子。

「まじで失くしちゃったの?」と事態を理解できない私が返す。

「ちゃんと周りを見た?」と冷静な凉果のメッセージが送られてきた。

「あっ、カバンの中にあった。」と夏乃が申し訳なさそうな顔文字を添えた文章が送られてきた時、一連の心配は杞憂に終わった。

 迎えた朝。私は寝不足だった。朝ごはんは外で食べるからと家を飛び出したものの、待ち合わせ場所に夏乃はいない。凉果と首をかしげながら待っていると、三十分ほど遅れて、夏乃が待ち合わせ場所にやってきた。スマホを覗くと、もう七時過ぎ。会場のライブハウスまでは午前中いっぱいかかるわけだから、相当なタイムロスである。結局、朝食は夏乃の提案で、駅の立ち食いそばを食べることとなった。電車に揺られながら、夏乃は落ち着きなく、推しメンの画像を見ている。凉果も、知らない人とのメッセージのやり取りで頭がいっぱい。私に構ってくれる気配など、何処にもない。幸い、新しいアプリをインストールしたばかりだったので、ただ黙々と最初のステージに取り組む。国民的アクションゲームのスマホ版がリリースされたということで、一時期は誰もがプレイしていた。しかし、なんとなく流行に乗るのが嫌だった私は、すっかり流行も収まった今になって、ようやくこのゲームを遊んでみる気になったのである。そんな私を見て、ようやく推しメンとのにらめっこが終わった夏乃が冷やかしてくる。

「深青、私、それとっくに全クリしたよ。」と自慢げな表情を見せる夏乃。

「私だって、夏乃と一緒に終わらせた。」と凉果も片手間に言う。

「やりたくなったんだもん、仕方ないでしょ。」と私はふくれっ面。

 手元のカルピスをごくごくと飲む。すっかり暑くなった満員電車の中に、うっすらとだが清涼感がもたらされた。そんな気すらもする、日本の夏の味。結局、このやり取り以外はほとんど会話を交わすこともなく、目的の駅に到着した。ちなみに、駅に着いてからも夏乃は何故か慌てていて、危うく電車を降り損ねるところだった。こういうとき、いつも頼りになるのは凉果なのだが、今日は知らない土地ということもあって、いつものような頼れる先輩的な雰囲気は醸し出していない。

「凉果、ほんとにここで大丈夫?」と問いかけても・・・。

「たぶん、大丈夫だと思うよ。」と苦笑いで答える凉果。

「私に着いてきて。」と夏乃は自身たっぷりで続ける。

 行きたかったパンケーキのお店も、チョコレートショップも、海外ブランドの特設店舗も、結局訪れることは出来ず、あれよあれよと時間は過ぎていった。夏乃は迷い続け、凉果もそれに何も言わず、私はただ着いて行くだけ。一日を無駄にしたような気がして、ならなかった。途中、流石にお腹が空いてきたので、何処にでもあるようなファミレスで昼食を摂ったが、正直、こんな遠出して食べるようなものではない。私は帰りたくなった。しかし、そんな気持ちをぐっとこらえて、夏乃の背中を追い続けていた。またしばらくして、ほんの少し太陽が沈み始めた頃、夏乃があることに気付く。

「あそこ、もしかして・・・。」と今までにないようなハイテンションで言う。

「あれか。」と凉果は続ける。

「やっと辿り着いたんだね・・・。」と私も続ける。

 その瞬間、夏乃は飛び上がった。そして、また現実に引き戻された。目を疑うばかりの長蛇の列。すでに到着時刻は予定より一時間どころではないくらい遅れている。係員の誘導に従い、最後尾に並んだ私たちは、夏乃の自慢話を延々と聞かされることになった。握手会とか、いったことないしな・・・。一度は行ってみたいと思うんだけど、なかなか怖くて行く勇気が出ない。凉果も私に同意するが、すっかり同じファンとの間で意気投合した夏乃には、その声は一切聞こえていない。

「よっ。もしかして、清水さんと佐野さん。」と何処からか声がする。

「俺だよ、石本。」と簡単な自己紹介。言わなくてもわかるって。

「やっぱり、石本くんもここに来てたんだね。」と凉果は苦笑いを浮かべながら言った。

「みんなも、カネットのこと好きなの?」と石本は興味津々である。

「石本、前進んだよ。」と私は慌てて凉果を庇った。

 誰でもそうだと思うが、やっぱり列に並ぶのは苦手だ。今日のために用意して来たプレイリストも、もうふた回り目に入ろうとしている。この曲も、あの曲も、決して悪い曲ではないんだけど、こう何度も聴くとなると、ちょっぴり味気なく感じてしまう。かなり飽きを感じ始めた頃、それを察した夏乃が私にカネットの楽曲をひとつひとつ解説してくれた。こういうファンの視点から聴く音楽ってなかなかないから、面白い。コールの仕方とか、この曲はこう動くとか、本当にタメになる。十曲ほど解説が終わった時、いよいよ目の前にライブハウスの入り口が迫って来た。ライブハウスといっても、かなり大きい規模なので、その辺の小規模なものとは格が違う。夏乃から事前にチケットを手配されていた私は、難なく処理をこなし、ついに夢の世界へ入場した。

「夏乃がここに来たくなる理由、わかったかも。」と普段はクールな凉果も興奮気味。

「まだわかんないでしょ。」と夏乃が冷やかす。

「うわぁ、楽しみだなぁ・・・。」思わず口に出してしまった。

「でしょ。ほら、早く行くよ。」と夏乃が私たちの腕を引っ張る。

 かなり慌てて、指定のブロックに入った。ほぼ最前列の左側。初めてにしてはかなり良い場所だと思う。ここは同世代の子たちが多くて、ちょっと安心。会場音楽はカネットの楽曲をジャズアレンジにしたもの。これが結構御洒落で、思わず聞き入ってしまうほど。夏乃はペンライトを取り出し、かなり本気モードになってきた。凉果もそれに便乗するように、普段見せないような表情で前を見つめる。そして、時間になった。どんどん暗くなり、バンと弾けるような感じの効果音をきっかけに、メンバーたちが入場してくる。最初の曲は、ロックを基調としたベースラインに、思いっきりポップなサウンドが乗った大ヒット曲「アンバランスな恋情」。すごく切ない歌詞なのに、それをパンクにも通じるような早いリズムでがんがん聞かせるから、こういう曲にありがちな痛みというものがない。こういうとちょっとネガティブに取られるかもしれないが、これがいいんだ。一曲目からめちゃくちゃ拳を振る。二曲目の「ハロウィン仕立てのパンプキン」も、三曲目の「倦怠期予防のネックレス」も、そこから続くファーストブロックの楽曲たちは全てアップテンポの曲で、聴いてて楽しい、見てて面白い、拳を振って盛り上がる、ものすごい熱気を帯びていた。私は、このアイドルに一生着いていってもいいなと半分思い始めていた。夏乃の見たことがないような、純粋な笑顔が私たちの様子を見て、喜んでくれてよかったなと心から思っていることを表している。七曲目が終わったあと、ちょっとしたMCが挟まれた。このちょっとした間も、より私たちの緊張感というか、ワクワク感を盛り上げてくれる。

「こんばんは。今日も盛り上がっていますか?」とメンバーが叫ぶ。

「いぇーい!」とファンは返す。

「声が小さいですね。盛り上がってますか!」と先程よりも大きな声でメンバーが叫んだ。

「いぇーい!!」とファンは更に大きな声で答える。

「今日は、久々のこの会場なので、スペシャルなセットリストを用意して来ました。」と別のメンバーが言った。

「おっ!?」とファンが盛り上がる。

「あの曲とか、この曲とか、久々に披露するかもしれませんよ。」とメンバーが続ける。

「おっ!!」とファンがさらに盛り上がる。

「それでは、次の曲に行きましょう。今年三月に発売した最新シングルです。都会のロンリー・ガール。」

 最後は、夏乃の推しメン、宇佐美真結が楽曲紹介を行った。あどけないものの、すでに完成された美しく、瑞々しい笑顔が素敵なメンバーだ。少し懐かしさを感じさせるようなサウンドが特徴のダンスナンバーだ。都会の少女が、こんなに沢山人がいるはずなのに、どうして自分に居場所がないんだろうと葛藤する、実は結構重めの楽曲。激しい振り付けがこの楽曲の中に秘められた感情を私たちに伝える。セカンドブロックは、ファーストブロックのノリを更に激しくした、ダンスナンバー中心のブロックだった。たくさんのヒット曲、アルバムからの選曲もあり、バラエティ豊かなセットリスト。サードブロックはどのような感じになるのだろうと心を躍らせた。誰もがこのまま最後まで楽しもうという気持ちになっていた時、予想だにしなかった出来事が起こる。

「うっ、うっ・・・。」と一人の観客が声を上げた。

「あれ、もしかして、郷さん・・・。」と夏乃が私に囁く。

「郷さんって誰?」と凉果が夏乃に問う。

「ファンの間では伝説の・・・ファンの中のファン的存在。」と夏乃は冷静に返した。

 突然のことで、何が起きたかわからず、パニックを引き起こすメンバーたち。郷は奇声を上げ始めた。その姿は、まるで何かと戦っているような感じがした。スタッフが慌てて郷の元に駆けつけ、必死に押さえ込もうとする。

「もうすぐ、この地球に恐怖の魔王がやってくる・・・。」と郷は叫んだ。

「郷さん、ほんとに大丈夫・・・。」と夏乃は心配そうに状況を飲み込もうとする。

「みなさん、早く逃げてください・・・。」と、最初に発言した者を抑え込むように、再び郷は言う。

「郷さん、もしかして。」と私が咄嗟につぶやく。

「もしかしてって?」と凉果が問い返す。

「私が不思議な夢を連日のように見て、最終的には夢に支配されそうになったことがあった。」と凉果に言う。

「それと関連があるってこと・・・?」と夏乃が間髪入れずに会話へ入ってくる。

「あの症状、言われて見たら、よく似てる。」と凉果は何かに気付いたように言った。

「でも、ちょっと収まりかけてる。」と夏乃が安堵の表情を浮かべる。

「まだ安心はできない。」と私は友を制した。

 まるで風船の空気が抜けるかのように、郷は地面に倒れた。そして、会場のスタッフたちによって、救急隊員に引き渡され、病院へと運ばれていった。数十分の中断の後、ライブは再開されたが、正直、ライブどころじゃない。あのファンの人が心配で、私は頭の中がいっぱいになった。夏乃は何とかしてライブモードに脳を切り替えようとしている。凉果も楽しもうとはしているが、少しいつもとは違う感じ。何とか平静を取り戻し、いつもと同じようにライブが進んでいったが、今度はメンバーに先程のファンと同じような症状が出てしまうということを、誰も予想していなかった。それは、バラード曲が終わった時のことだった。

「うっ、うっ・・・。」と宇佐美真結が突然、呻き声を上げたのである。

 幸い、マイクにもこの音は拾われず、メンバーが介抱したため、ほとんどの客がこのことに気付かなかったが、その後の楽曲でも真結は突然よろけたり、歌声が裏返ったりなど、普段の彼女とは別人のような、明らかに「何かあったな・・・。」と客に思わせてしまうようなパフォーマンスになっていった。後から考えると、これは必然的だったのかもしれないが、夏乃と一部の真結に親しいメンバー以外は、まだこのことに気付いていなかった。明らかに、真結は未曾有の出来事に苦しんでいると言うのに。

「サードブロック、ありがとうございました。ちょっと落ち着いた曲が中心でしたが、いかがでしたか?」と真結が問う。

「よかった」「また聴きたい」というファンの声が真結に向けられた。

「ありがとうございます。うっ・・・。」と真結がよろける。

「あっ・・・。」とファンが真結に心配の声を上げるが、真結はこう返した。

「コードに引っかかっただけ。」と逆にファンを笑わせてみせたのである。

「真結、明らかにおかしいよ。」と夏乃は私に言う。

 だけど、私にはどうしようもできない。ジレンマが心の中でゆらりゆらりと舞い始め、胃を痛くした。そして、この後、真結はこの時のようによろけたり、声を裏返したりすることなく、ステージを進めていった。大粒の汗を流し、いつもよりは余裕がなさそうな感じではあったものの、そこまでキツそうには見えなかった。夏乃もこれを見て、安心していた。私も、真結の姿を見て、安心していた。しかし、ちょっとしたアンコールも終わり、いよいよ最後の楽曲に入ろうとした時、再び悲劇は起きてしまった。

「真結、真結!!」とキャプテンが絶叫する。

 なんと、宇佐美真結はその場に倒れ込んでしまったのである。メンバーの異変に、会場は阿鼻叫喚となった。若者たちの悲鳴や、慌ただしく駆け寄るスタッフなど、またパニック状態に陥ってしまう。凉果も焦って、会場を飛び出そうとしたが、それを夏乃が必死に引き止める。そんな中、私はひとつあることを考えていた。もしかしたら、私に不思議な夢を見させた張本人は、誰かを探しているのかもしれない。このことを、凉果と夏乃に話した。二人は納得したような、納得しないような表情で私を見つめてくる。それでも、あのアイドルを救うためには、こうするしかない。見えない者との対話を行う。私は、夢の主に引き寄せられたかのように、真結の元へ駆け寄った。しかし、その試みはスタッフ達によって呆気なく阻止されてしまう。

「部外者は下がってください。」というスタッフの声。

「この子をどうにかする方法を知っているんです。」と私は返した。

「それでも、ダメなものはダメです。今、警察に特殊部隊の派遣要請をしましたから。」とスタッフは強硬に言う。

 しばらく、言い合いが続いた。結局、他のスタッフによって引き剥がされた私たちは、黙って、この若きアイドルの苦しむ姿を見ているしかなかった。そして、三十分ほど経った後、特殊部隊は到着した。ジャンと、ハラルドと、スージー。あの三人である。三人は落ち着いて現場の様子を確かめ、適切な処置をするために、スタッフや客を一旦退避させた。私たちもスタッフたちの誘導に従って退避しようとしたが、ジャンが私たちに気付いて、こう言った。

「君たちは、そこで待ってて。これ、一番知ってる人たちだから。」と。

「ハラルド、この薬を投与しよう。深青に投与したのと同じものを。」とスージーは焦燥に満ちた表情で言った。

「だが、今回の症状でその薬を投与するのは・・・。」とハラルドは返す。

「どうにかして、薬を投与せずに解決する方法はないんですか。」と私はジャンに聞いた。

「俺たちに出来ることは、発砲と、自衛隊の無制限武器使用を許可することと、薬剤の投与くらいだ。」と彼は悲しげに返した。

「真結と、話してもいいですか。」と私は言う。特殊部隊の三人は顔を見合わせた。

「五分、それだけなら、あなたに与えてもいい。」とスージーは言った。

「ただし、それを超えたら、この薬を投与するからな。」とジャンは私に釘を刺した。

「私たちは、一旦離れよう。」というハラルドの一言で、特殊部隊の三人は客席の最後列まで下がった。

 三人は銃を構えている。私は、慌てて下げさせた。そして、凉果と、夏乃の三人で真結にコンタクトを取ろうとした。

「宇佐美真結さん、ですよね。」と私が語りかける。

「はい。」と真結は意外と落ち着いた声で返してきた。

「先程の状況を教えていただけますか。」とメモを片手に言った。

 その時だった。突然、真結がバタッと倒れ、そして、彼女は一瞬にして再び起き上がった。人格が変わった瞬間である。真結は暴れ出した。いや、暴れようとした。スタッフが何とかして彼女を抑え込もうとして、ステージの側にあったロープで彼女をぐるぐる巻きに縛っていたのだ。彼女は泣き出した。大声を上げて。その姿は、あまりにも悲惨だった。

「私を離せ。私を殺せ。」と真結は絶叫する。

「あなたに伝えたいことがあるの。」と私は言った。

「黙れ。貴様は、私を裏切った。」と真結は冷淡に返した。

「私を、何故あなたが選んだかはわからない。でも、聞いて。」と私は負けじと言った。

「お前に何がわかるっていうんだ。」と真結は私を罵倒する。

「聞いて。お願い。」と私は泣きそうな声で言った。

「うるさい。このろくでなしめ。」と彼女は相手にしてくれない。

 ついに、心の糸がぷつりと切れてしまった。そして、私は号泣した。特殊部隊の三人が私に駆け寄ろうとした。しかし、その時、これまで黙り込んでいた夏乃が意を決して口を開いた。

「私は、あなたがこうなってしまったことが信じられない。」と夏乃は言った。

「お前は一体誰なんだ。」と真結は返した。

「宇佐美真結という一人のアイドルが好きな、ただの女子高生よ。」と問いに答えた。

「君のような小娘に私を変えることはできない。」と真結の身体を借りた誰かは言った。

「変えられないなんてどうでもいい。でも、これ以上親友を失いたくないの。」と夏乃は怯まず続けた。

「親友・・・。」と彼女は言った。

「そう。深青も、真結も、私の大切な人だから。」と夏乃は更に畳み掛けた。

「まずは、私の話を聞いてほしい。」と彼は言った。

「わかった。」と夏乃は返した。

「わたしのことは、もう説明するまでもないだろう。様々な人の夢に現れたり、時に憑依したりして、この地球にこれから起きる危機を伝えようとしてきた。わたしの故郷のように、この美しい星が紅に染まってほしくないから。」と彼は言った。

「あなたの故郷は、何処なの?」と凉果は言った。

「星空を見上げても、見えないくらい遥か彼方の星雲だ。」と彼は返した。

「この星に、これから起こる危機って何?」と夏乃は彼に聞いた。

「数ヶ月以内にわかるだろう。超科学の危機が訪れる。必ず。信じるなら信じればいい、信じないなら信じなくてもいい。私は、地球に来る前、その危機と戦っていた。そして、負けたんだ。なんとかして危機から逃れ、この星に流れ着いた。だが、家族も何も何もかも失った。人間として生きる力も。」と彼は続けた。

「だから、他の人間に乗り移って、自分の意思を・・・。」と私は言った。

「そうだ。今は、人間に恒久的に憑依することすら難しい状況だ。長くて、二時間が限界だろう。」と彼は更に続けた。

 三人は、彼の話を真剣に聞いていた。もちろん、特殊部隊のメンバーたちも。普通の一般市民とは違い、私たちや特殊部隊は身をもって経験していることから、この話はとても現実的に受け止められた。私は彼の話に、考え込んでしまった。

「私の身体、あなたが借りても構わないわよ。」と凉果が言った。

「人に憑依するということは、実質的にその人の意思を殺すということだ。」と彼は返した。

「じゃあ、これからあなたはどうするの。」と夏乃は言った。

「なんとかする。」と彼は悲観的な声で言った。

「最後にひとつだけ聞いてもいい?」と私は言った。

「あなたの名前、教えていただけますか。」と私は続けた。

「私の名前は・・・。」と彼が続けようとした時だった。

 再び真結は倒れこみ、今度は完全に動かなくなってしまった。やはり、二時間程度が人の身体に憑依する限界のようだ。特殊部隊のメンバーたちは、真結の治療を行った。薬の投与は行わず、何度も転んだ時に負った傷の手当てのみを。私たちは彼らが手配したホテルに宿泊することになった。いつもの三人と、真結で。あえて、その日の晩はカネットの方に真結を引き渡さなかった。少しは休ませた方がいいというスージーの判断だ。

「今日は迷惑かけてごめんなさい。」と真結は言った。

「私、あなたの気持ち、一番わかるから。」と優しく返した。

「また、ライブ来てね。」と真結が夏乃に向けて言った。

「今は、ちゃんと身体治さなきゃね。」と真結に向けて。

 結局、ちゃんと休むつもりが、全員で枕投げを始めるという展開になった。未曾有の事態に親は心配していたみたいだけど、特殊部隊に協力していたということを知ると、安心してその身を託したようだ。

「みんな、ありがとう。」という一言で、翌朝、真結と別れた。

 昨日は、おそらく夏乃にとって、一生忘れられない出来事になっただろう。私にとっても、あの夢の原因が判明するなど、とても意味のある一日であったように思える。凉果も、初めてのカネットのライブ参戦がこんなことになるなんて、思ってもいなかっただろうし。次の日、私たちは学校で話題の中心だった。【特殊部隊に協力した高校生】ということが瞬く間に広まり、様々な人から質問責めに遭った。「何をしたの?」とか、「宇宙人はどうだった?」とか。でも、彼が本当に宇宙人だったかどうかはまだわからないし、何処への行ったのかもわからない。とりあえず、安心してごく普通の学校生活に戻れて私は嬉しい。正直、彼に憑依されていた時はこれからどうなるかと思っていたから。それは、たぶん郷さんも、真結も一緒だよね。

「おはようございます。みなさんご存知だと思いますが、編入生がやってきました。」と朝一番に担任が告げた。

「平石菜子です。よろしくお願いします。」と担任に促され、菜子は言った。

「あなた、もしかして・・・。」と夏乃は言った。

「気のせいじゃない。」と菜子は返した。

「宇佐美真結・・・。」と石本が叫ぶ。

 そんな彼の腹を、素早く菜子は突いた。石本が倒れこむ。それを咄嗟にクラスメイトの山石が起こそうとしたが、それを菜子が止めた。菜子は男勝りだ。私の直感だけど。

「あいつ、絶対やばい。」と大谷真彦が言った。

「そうでもないと思うけどな・・・。」と菜子が間髪入れずに会話に入る。

 そして、菜子は私たちの方に向かって来て、こう言った。長い髪を靡かせて、この世でもっとも輝きを帯びた瞳で。

「これからも、よろしくね。」と。

 私は確信した。この子は、確実に宇佐美真結だと。ただ、彼女の意思を尊重して、このことは誰にも言わなかった。真結は誰よりも美しい。それは、菜子も一緒だ。ちなみに、この話には続きがある。私が家に帰ると、彼女から一件のメッセージが届いていた。何処から私のアカウントを見つけたのかはわからないけど、「先日はありがとう。」という一言だけ。そして、笑顔の絵文字。私は気付かなかったけど、夏乃は気付いていた。照れたときに、顔が真っ赤に染まる癖が宇佐美真結にはあるらしいんだけど、それが菜子も共通している。彼女は真っ先に気付いて、私に言ってきた。こっそりと菜子にこのことを言うと、「しーっ」と指を鼻に当てた。このあざとさとか、やっぱり真結だ。普段の授業、体育の時、帰り道、菜子と目が合うたびに、「わかってるよね?」というような表情でこっちを見てくる。私も、凉果も、夏乃も、絶対にあなたを裏切るようなことはしないよ。普段はこんなことを言葉になんかしないんだけど、あえて目に見える形で彼女に送ってあげた。安心させるために。

 夏の始まり、これからどうなるかなんてわからない。私と真結に憑依した彼は何処へ行ったのだろうか。彼の行方は誰も知らない。ただ、私はいつも前向きに生きていく。何かが見えて来る気がするから。改めて、自分に言い聞かせた。今日も朝から自転車を漕ぐ。凉果と、夏乃と、そして、新しい友達の菜子と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Sky Blue. -Pilot Edition- 坂岡ユウ @yuu_psychedelic

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ