基本的コロッ権

 先ほど、スーパーへ買い物に行ったとき、お惣菜売り場でこんなものを見かけた。




「きんぴらごぼう風コロッケ」




「きんぴらの味が恋しい人はきんぴらごぼうを買うのではないだろうか」


「コロッケを食べたい方はノーマルコロッケで何一つ問題ないのでは」


「そもそもこれはきんぴらごぼう派閥とコロッケニストどちらが対象なのか」


「からあげ」




など様々な感想が浮かんでは消えていったが、最後に残ったのは、


「コロッケがかわいそう」


というなんとも純粋な哀れみの感情だった。






「じゃがいもと一緒に衣に包んでしまえばコロッケ――」


 それは、いつの頃か、資本主義社会が産んでしまった一種のエゴではないだろうか。




 確かに、かぼちゃコロッケなどは美味しい。だからコロッケに可能性を感じることそのものは認める。


 しかしその包容力に甘えて、我々は、コロッケに重責を担わせてしまっているのかもしれない。


 きんぴらごぼうと混ぜられてしまったことで、彼らは泣いているかもしれない。コロッケとして生まれてきたはずなのに、あっという間に異形の姿に作り変えられ、さらには同じ棚に並ぶオーソドックスなコロッケを恨めしく見つめる、そんな日々を送るのである。




 我々は、コロッケの尊厳について考えたことがあるだろうか。


 コロッケにだって、基本的コロッ権はあるのだ。




 それを踏みにじったとき、例えば今回のケースだと、きんぴらとコロッケの内部紛争という悲しい出来事だって起こりうる。

 その可能性が否定できないことは20世紀後半の世界の歴史を見るだけでも明らかだろう。同じ場所に住む異民族どうしは、抑圧の中で衝突してしまうのである。


 あるいは、彼らの反乱すら起こるかもしれない。クーデター、暫定政府、特攻。彼らが身を挺してアツアツの中身を吹き出したとき、我々の肌などはひとたまりもない。




 だから、そろそろやめにしないか。


 本当にコロッケのことを考えるなら、かぼちゃ等の親和性のある同盟国とだけセットにさせてあげるべきだ。


 それが、宗主としての我々人類の役目である。






――そして私は、今日も10%引きの唐揚げを手に取りレジに向かう。



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ショートショート集 倉海葉音 @hano888_yaw444

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