トイレのトンネル効果
駅の男子トイレに入り、小便器の前に立つ。
便器の上の張り紙に、こう書かれている。
「一歩前にお願いします ありがとうございます」
僕は真面目なので、一歩前に進む。
だけど、まだ張り紙は残っている。
「一歩前にお願いします ありがとうございます」
僕は律儀なので、もう一歩前に進む。
それでも、まだ張り紙は訴えている。
「一歩前にお願いします ありがとうございます」
僕は寛容なので、また一歩前に進む。
ここで、便器のセンサー部分に体がぶつかった。腕も便器の縁にぶつかってしまっている。狭苦しいな、これは、と思う。
しかし、無慈悲にも張り紙は宣告する。
「一歩前にお願いします ありがとうございます」
仕方ないな、と僕はさらに前に進む。体が便器にめり込む。自分の「モノ」もセラミックを貫通している。違和感と心理的な不快感はあっても痛みはない。ああ、案外いけるもんなんだな、と感心した。
大学の一般教養の物理学で習ったぞ、これはトンネル効果というやつだ、きっと。確か話では素粒子サイズにならないと起こらないということだったけれど、10の何乗分の1くらいの確率で――普通は一生出会わないレベルの確率で――壁を通り抜けられるという計算問題もあった気がする。それだ、きっと。
しつこく、張り紙は言い続ける。
「一歩前にお願いします ありがとうございます」
僕は、意気揚々と一歩前に進む。もはや体全てがトイレの壁に埋没している。
到着ベルが聞こえる。発車ベルも聞こえる。天井越しにガタガタと線路を行く車輪の振動音が伝わる。
変わることなく、張り紙はささやく。
「一歩前にお願いします ありがとうございます」
僕は、これで終わりだ、と一歩前に進む。なぜなら、僕の顔はもう張り紙より奥まで来てしまったからだ。
全身が壁の中にある。水道管が張り巡らされているのか、水の流れる音が聞こえるが、真っ暗で何も見えない。そして、前にも後ろにも動けないことを知った。このまま、トイレの壁にめり込んだままなのだろうか。この街が朽ち果ててトイレの壁が崩落する頃まで、僕の体はこのままなのだろうか。
ぐっと、後ろから圧力を感じた。
まさか、と思い、暗さに慣れてきた目で前を見る。
遥か奥の方で、確かに人の形をした何かが、壁から外にはみ出していく。
僕は必死で祈る。あのトイレを使う人々に向けて、心の中で言い続ける。
「一歩前にお願いします ありがとうございます」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます