紫陽花の距離

綿麻きぬ

俺と幼稚園児と紫陽花

 俺はいつものように起きて、支度をし、家を出て、会社に向かう。毎日、同じ繰り返し。何も変わらない日常。もう、この年にもなると刺激が欲しい、なんてこともなくなる。


 そして、今日も玄関を開ける。


 玄関を出てこれまた、いつものように同じ道を通るはずだった。のに、ふと会社までいつもと違う道で行きたくなった。そして、足はいつもの道を外れていく。いつもなら、思うまでで実際には通らないだろうに。


 そういや、こっちの道通るのいつ振りだろう?前にここを通った時とは景色が似てるようで、似てない。


 いつの間にか公園ができていた。紫陽花がきれいに咲いている公園だ。そこには帽子を被った幼稚園児が紫陽花を見ている。


 その光景は微笑ましいものであった。しかし紫陽花だと分かっているものを何故みるのか、不思議に思いながら通りすぎて行った。通りすぎた後はもう会社についていた。


 それからは、いつも通りの何の変哲もない日常が過ぎていった。しかしもう一度だけ、その公園を訪れた時があった。梅雨が明けた頃だっただろうか。


 その日の朝もいつもと違う道を通りたくなった。無性に紫陽花が見たくなったのだ。


 足取りは軽く1日が楽しみだ、そんな気持ちだった。しかし、着いてみたら紫陽花はもう枯れていた。だが、紫陽花の横にはあの幼稚園児がいる。


 紫陽花が枯れていた腹いせをその幼稚園児に八つ当たりしたかったのだろう。俺はその子に質問をした。


「何で枯れてる紫陽花を見てるんだい?」


「このお花、紫陽花って言うんだ!僕、毎日幼稚園に行く時見てたんだ。」


 純粋に花の名前を知れて喜んでいるその子を見て俺は自分の心が暗く、黒く染まっていくのを感じた。


「毎日見て、飽きないのかい?」


「えっ!何で飽きるの?毎日違う姿をして、見てて楽しいよ。」


 俺から見れば紫陽花だと分かっていて同じものを何故毎日見るのか、時間の無駄に思えてしまう。そんな考えを巡らせているとその子は俺の考えを読んだように言った。


「おじさんも子供のころにずっと何かを見ていたことはないの?」


「あるけどどうしてだい?」


「僕は今までこのお花の名前を知らなかったよ。でもね、このお花のことを見てられたんだ。だけどね、今僕はこのお花の名前を知ったんだ。」


 俺の汚い心が声を発しようとしていたが、声が出なかった。


「僕はこれからこのお花を紫陽花だと知って、これからは見る。でも、それって本当に良かったのかな?このお花のことを何も知らないで見ることはもうできなくなっちゃたんだ。」


 俺は何か大きな過ちをしてしまった気分になってきた。


「前は僕とこのお花との距離は近かった、だけど今はこのお花との距離は真ん中に紫陽花って言葉がいるんだ。その距離はもう埋まらないんだ。」


 俺はこの子の言ってることを聞いて大きな過ちをしたことに気がついた。


「ごめ.....」


 俺の言葉を遮るようにその子は言う。


「いつか僕はこのお花の名前を知ることになる、それが早いか、遅いかの違いだけだよ。」


 その言葉達は俺を気づかせくれた。知識があるだけがいいとは限らないと。純粋にもう物事を見れないんだと。俺たち大人はいろんな物との距離が遠くなっていったんだと。知ったことによって距離が縮まったと思い込んでいるけど、実際は距離が遠くなったことを。そして、あの時代には絶対に戻れないことを。


 呆然としてる俺に対してその子はもう幼稚園に行かなきゃ、と言って立ち去っていった。その子は公園を出る前にこっちを振り向いて、


「お花の名前、教えてくれてありがとう!」


 すごくきれいな笑顔だった。


 俺はしばらく動けなかった。どこかの小学校の鐘が鳴って、仕事の始業時間に遅れていることに気がついて動き出した。


 それからはまた、いつもと同じ日常が待っていた。このことがあったからといって世界は変わらないし、日常も変わらない。


 ただ、変わったことと言えば俺は物との距離が遠くなったことに気づき、過去を懐かしむようになった、ということぐらいだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紫陽花の距離 綿麻きぬ @wataasa_kinu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ