自動運転
藤光
自動運転
――かくん。
吊り輪を持つ手が身体ごと前方に傾いだ拍子に貪るように読んでいた本の世界から引き戻された。我にかえって顔を上げると、そこはいつも通勤に使っているバスの中で、ぼくはほぼ満員になった乗客を乗せた路線バスの運転席のすぐ後ろで吊り輪につかまっているのだ。海沿いの国道へと続く長い下り坂を運転手が引きずるようにしてブレーキをかけたのだろう。
大勢の人が肩も触れんばかりに乗り合わせていても朝の路線バスは静かなものだ。ぼくの前の手すりにつかまり立ちしている中年の女性も、右前、料金箱のすぐそばに立っている学生風の若い男も、それぞれ手にした携帯端末を覗き込みながら、時折端末の表面で指を滑らせている。彼らばかりでなく、朝、七時前の通勤バスでは、居眠りをしているか、手元の携帯端末を見ている人ばかりで、ぼくのように顔を上げて車内を見回している人など一人もいない。乗客同士話をしている人はだれもいなくて、低く唸るようなエンジン音だけが車内に充満していた。
――はて、なんでぼくはこうしてるんだろう?
通勤バスに乗っていることや、いままで本を読んでいた理由が分からなかったわけではない。どうして、ぼくだけ我にかえることになってしまったのだろう。そしてなんだろう。皆、それぞれの世界に没入しているこの朝に、ひとり覚醒してしまったようなこの居心地の悪さは。
いま雲の切れ目から坂を下ってゆく車列に金色の光を投げかけられた。太陽が姿を現したのだ。数珠繋ぎになった自動車たちは、そのマフラーから思い思いに白い煙を吐き出している。冬の寒い寒い朝である。
バスは長い下り坂ゆっくりと進んで止まった。海沿いの国道と交わる交差点の信号表示が赤色に光っている。バスはよくこの信号で足止めをくらう。いつも乗っている列車の発車時刻まであと十分。もう信号にはかかってほしくないなあ。
「あ」
唐突に発せられた声のする方に視線を向けると運転席だった。かちゃかちゃとシートベルトを外す音がする。
「当てよったな」
紺色の制服を着た運転手が体を乗り出すようにして料金箱脇のバックモニターを覗き込むと、怒気を孕んだその声は少し大きくなった。『当てよった』とはいささか不穏当だ。バスの前方、ぼくの周囲にいる人たちの中には顔を上げて怪訝そうな目を運転席に向ける者もいる。
「当たったね、いま」
学生風の若い男も顔を上げていたけれど、状況の説明もないうちから、いきなり運転手から同意を求められへどもどしている。それはそうだ。車内アナウンスはすれど、朝のラッシュ時、運転手がじかに乗客に話しかけることなどまずない。
運転手が見ているモニターを遠目に確認するとやや不鮮明なカメラの映像の中に一台の車の姿が映っているように見える。あの車がこのバスにぶつかったのだろうか? そう考えればさっきなにか物音がしていたようにも思えてくる。そうかな――? 人の感覚とその記憶は、偽りの記憶で上書きされ得る。
学生になんらかの返事を期待していたわけではないのだろう。運転手は体の向きを変えると運転席の窓から身を乗り出して後方をにらみつけた。サイドミラーを見ると、長い坂道は国道と交わる交差点に向けてなだらかにカーブしていて、バスの大きな車体の向こうに後続の車両を見ることができるようだ。
「おーい。いま当たったやろ」
大きな声を張り上げたけれど、はたして後続する車の運転手にまで聞こえるのだろうか。その声はむしろバスの車内に響き渡って『なんだなんだ』と声にならない気配が乗客の間を伝播してゆく。皆、通勤や通学の時間なのだ。揉め事は勘弁してほしいというのはこのバスに乗り合わせた見知らぬ者同士(いや、顔くらいは知っているか)、共通の願いであるはずだった。この間もバックモニターに映っている車に変わった動きはない。
信号が青に変わった。
バスは海沿いの国道を左へと曲がると、道路の左端に寄って止まった。車内では、だれひとりなにも口にしなかったけれど、『ええっ、止めるのかよ!』『事故なのか?』といった空気がさざめくように広がっていった。
直後、バスに横付けするように一台の軽自動車が停車した。
なんなんだ一体――。どんなやつが運転しているんだ。ぼくはそう思ったし、乗客の皆もそう思ったに違いない。パステルカラーの軽自動車に乗っていたのは五十年配の女性だった。その運転席には申し訳程度に小さなハンドル付いている。
「自動運転か……」
窓越しにそれを目ざとく見つけた学生の独り言が聞こえた。ぼくも初めて見るその車をしげしげと観察する。ここ数年、AIに制御された自動車の自律走行技術は急速に一般的なものとなり始めていた。女性の乗る可愛らしい色の軽自動車もその自律走行車のようだ。
「最近――。多いんですよ」
クルマに運転を任せたまま事故を起こすおじさんおばさんがねと、運転手もだれに言うともなくつぶやいて窓から身体を乗り出した。紺色の制服の袖から伸びる手に真っ白な手袋が眩しい。
「あんた。いま、当たったやろ」
そして運転席から見下ろすようにして、軽四に乗っている"おばさん"に呼びかける。
「え。当たってへんで」
助手席の窓を少し開けて、おばさんが応じる。こちらは逆に見上げる形だ。自分の車はバスと接触していないと言いたいらしい。
「キズもついてへんし」
苦笑。仮に接触していてもバスに傷が付かなければいいんじゃないの? といった彼女の本音が透けて見えるような発言だ。そんな問題だろうか?
「なに言うてんねん。大きな事故になっとったらどないするんや!」
案の定、おばさんの発言は運転手の怒りに火をつけたようで、彼は大声を張り上げた。でも、おばさんはひるまない。あくまで当たっていないと言い張るのだ。
「いま当たりましたよねえ」
憤懣やるかたないのか運転手は、料金箱のすぐ傍に立っている中年女性に同意を求める。表向きは無関心を装って携帯端末をいじっていた女性は突然話を振られてどぎまぎ。目が泳いでいた。
その後も二、三のやりとりがあったものの、接触の有無に関する認識は平行線のままで、業を煮やしたのだろう運転手は制帽をダッシュボードの上に放り投げると「とにかく降りてこいや」と、ともすれば喧嘩腰と受け取られかねない台詞を言い置いて、運転席から立ち上がった。
「ちょっとすみません。追突されたんでバスを止めます」
この車内アナウンスに、これまで静かに状況を見守ってきた乗客もざわつくかと思いきや、意外にもバスの中はこれまで同様静かなままだった。ただ、車内を覆う空気はこれまでになく張り詰めていて……。
――事故なの?
――このラッシュ時に! 会社に遅れる。
――こんなのバスを止めるほどのことじゃないだろ。
――マジか!
そうした聞こえてはこないけれど、確かにそこにある乗客の声にならない心の悲鳴が、この狭い空間に漲っているかのようだった。
バスを降りた運転手が指し示すまま、おばさんを乗せた軽自動車はバスの前に停車した。運転席から降りてきたおばさんは小さな身体を憤然とそらしていて運転手との対決姿勢を明確にしている。
「いま、当たったやろ」
「うちのクルマは自動運転やで。当たるわけないやないの」
国道脇の歩道上で大きな声のやりとりが始まった。二人にとって幸いなことに、この早朝、道をゆく人の姿はない。
「クルマのどこにも当たった跡はないで。見てみ?」
おばさんは自分の乗っていた軽自動車のボディを指差して、自身に過失のないことを主張したけれど、バスの運転手は相手にしない。
「跡がないから――当たってない。そんな理屈はないわい」
もっともだ。同様に車に傷があったとしても、たった今付けられたものかどうかは分からない。ぼくと同じように歩道上のやりとりを伺っているのだろう、すぐ前に立っている学生もしきりに頷いている。
「ゴンていう音がしたんや。正直に認めたらええねん」
どうやら運転手は追突事故そのものより、運転する車が自動運転であることにかまけておばさんが自己の過失を認めないことに憤っているらしい。ということは、事が起こったときに彼女が素直に謝っていればこんなに手間取ることもなかったのではないだろうか。ぼくは俄然、運転手を味方する気分になってきた。
「さっきバスの中から声をかけたときに、あんたが車を後ろに下げたのはなんやねん。当たっとったからやろ?」
いまの今まで威勢のよかったおばさんがぐっと言葉に詰まった。実際そうだったのに違いない。
「当たってへんのに……」
心なしか語尾にも元気がないように感じられる。そこへ運転手の切り札が繰り出された。
「全部、バスのモニターに映ってたんや。ごまかされへんで」
「モニター……」
おばさんはいきなり水でもぶっかけられたような顔になって、「そんなことないと思うんやけどなあ」という声も、虚しく力がなくてぼくの位置からは聞き取りにくかった。こっちへきてと運転手に促されたおばさんは、不承不承バスの中を覗き込んでくる。
運転手はフロントガラスのバックミラー脇に設置されているバックモニターを、彼女が確認できるように向きを変えた。
「見てみい」
運転手の白手袋が指し示すモニターの中には、バスの後部バンパー全体と国道を次々にバスを追い越してゆく自動車の群れが、はっきりと映し出されていた。おばさんの車がバスに接触していたのかいないのか、このモニターで分からないはずがない。
「これ再生できるの?」
「いや」
いや――? ぼくの前の男子学生が身じろぎした。そう、ぼくも同じ気持ちだ。再生できないって……このモニター、ドライブレコーダーじゃないのかよ。記録できていないんじゃあ、追突があったことを証明できないってことじゃないか。
「再生はできひんけど、ちゃんと見とったんや」
それじゃあ、ダメなんだよ。
「再生できないって?」
おばさんは、運転手が見せたこのつけ込む隙を逃さなかった。
「見とっただけやったら、話にならん。わたしが当たった言うんやったら、当たった証拠を出してもらわんと。朝から変な言いがかりをつけられて――会社を訴えるで!」
すっかり死に体だったおばさんは、息を吹き返したかのように運転手に食ってかかってきた。このままゴネ通して、本当にバス会社を訴えようかという勢いだ。
それは困る――!
ただでさえ、当たった当たらないのやりとりで時間をロスしてきたのだ。これ以上、揉め事が続くならこのバスに乗り合わせた乗客は、会社・学校に遅刻するのは必至である。
――勘弁してくれ。会社に遅れる!
――運転手のやつ、なに余計なこと言うてんねん。
例によって、バスの中は静まり返っているのだけれど、そんな悲鳴が聞こえてきておかしくないし、実際、ぼくはいままさにそう叫びたい。
そんなぼくたちの気持ちを知ってか知らずか、運転手は白い歯を見せて笑った。にかっと笑ったのだ。
「だから、ちゃんと見とった――言うとるやろ」
そして、おばさんの目の前に白手袋をはめた右手を差し出した。その手袋を外すと、現れたのは黒鉄色に光るカーボンファイバー製の五本の指。その各々が別の入出力端子に対応したコネクタの形状をしている。もちろん、その手は人間のものではない。
人型汎用AI――アンドロイド。
自律式の人型AIはすでに実用化されているし、乗用車の自律走行が一般的となって何年も経つけれど、アンドロイドが路線バスの運転をしているとは、いま初めて知った。
「あんたの言う会社に戻ったら、いつでもここから――」
そう言って運転手は自分のこめかみをトントンと黒い指先で叩いてみせた。
「映像を取り出せるんやで」
ついでに、あんたのクルマのメモリディスクから走行記録のログを取り込ませてもらったら文句なしなんやけどな――と運転手が入出力端子を備えた手をヒラヒラさせながら付け足したときには、真っ青に顔色を変えたおばさんが消え入りそうな声で「すみません」と言うのが聞こえてきた。
☆
――かくん。
我にかえると、私は路線バスの後部座席、ベンチシートに腰を下ろし、手には薄っぺらい文庫本を持っていた。
ひどい小説だ。近未来の自動運転やAIが出てきて――SFというのだろうか。冗長で何を訴えたいのかよく分からない小説だった。まったく面白いとは思えなかったが、妙に現実とリンクしているのが引っかかる。
いましも私を乗せたバスは長い坂を国道と交わる交差点へ向けてゆっくりと下っており、更に気がかりなのは、私の背後、このバスを追いかけるようについて走る軽自動車がパステルカラーであるということだ。バスは手にした小説の記述をなぞるかのように信号待ちの車列の最後方に停車する。赤信号なのだ。やがて、低くて鈍い音が私の尻の下から伝わってきた。
ゴン。
自動運転 藤光 @gigan_280614
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