五
「……」
紫陽花通りには誰も居ない。
私はゆっくりと、いつもアマネが待っていた場所まで歩を進めた。
そこには見慣れた紫陽花たちが静かに咲いている。数日前と変わらない風景。
ただ、彼が居ない。
「アマネ……」
そう小さく呼んでみる。
「アマネ、居ないの……?」
反応は無い。
「ねえ、アマネったら……っ」
瞳の奥へと熱が
「アマネ、梅雨が明けちゃうよ。明けたら、アマネはどうなるの? 教えてよ……」
ゆらり、と穏やかに紫陽花が揺れた気がした。はっとして視線を
『美雨……』
遠くで呼ばれたような気がして、私は必死になって周りを見回した。
「アマネ?」
少し離れた所に、アマネが姿を現した。けれど、その姿は
私はアマネに走り寄った。
「アマネ、もう、お別れなの?」
『ああ……』
彼の声が、聞こえにくい。消えてしまいそうなほどに弱く聞こえた。
「また来年、会えるんだよね?」
『いや、俺の命はこの梅雨の間だけだ』
「え……」
この梅雨の間だけ?
『毎年新しい存在が生まれる。俺は、もう消える』
「そんな、嫌だよ! もっと一緒に居たい!」
『お前に出会えて良かった。お前の居ない数日間は落ち着かなかった。何故だろうな』
「アマネ……」
『元気でな。お前を見ていると、不思議と雨の雫を見ている時と同じ気持ちになった』
雫を見ている時と同じ――?
『それは特別な気持ちだ』
アマネがふわりと
アマネの手が、ゆっくりと私へ伸びてきた。
けれどその手は私には触れられず、すうっとすり抜けてしまう。
同時に、私の涙が地面へと吸い込まれるように
『お前の瞳から零れる雫だけは見たくないと思ってしまう。何故だ……』
アマネの姿が先程よりも薄くなっている。もう、本当にお別れなのかもしれない。
『今、お前に触れられなかった。この胸の苦しみは……?』
私はアマネが雨の雫を見ている時の眼差しを思い出した。
とても穏やかで優しくて、もう雫以外は見えていなくて、それはまるで、
恋に落ちた少年のような眼差しで――。
それだけ分かれば、もう充分だった。
私は幸せな気持ちで別れる事が出来る。
心の準備は出来た。
私はきっと、大丈夫。
「アマネ」
私は今にも消えてしまいそうなアマネの名前を呼んだ。
『美雨……』
「元気でね。寂しいけど、仕方ないよね……」
私は無理やり笑顔を作って言った。
『美雨、俺に幸せな一生をありがとう。俺は他の大勢の仲間たちの中でも、最高の一生を送れたと思っている』
「私も、今年の梅雨は最高に幸せだったよ。そんなふうに思ったのは、生まれて初めてだった」
『美雨――』
アマネが再びこちらへ手を伸ばしたけれど、それは私へと届く前に、すべて見えなくなってしまった。
「さよなら、アマネ……」
無理やりに作られた笑顔が崩れていく。
私は顔を
少しだけでいいから、今は泣かせてほしかった。
間もなくして、走り寄ってくる足音が近づいてくる。
「小川さん!?」
その声に聞き覚えがあって顔を上げた。
「青空せんぱ――」
「どうしたの!? 大丈夫!?」
どうしたのだろうか。いくら座り込んでいたとはいえ、そこまで心配される状態ではないはずだ。
「誰かに何かされたの?
「先輩、どうしたんですか?」
「え、だってそれ、君の傘でしょう? 凄い事になってるじゃないか!」
え? 傘?
私は自分の足元に置きっぱなしになっている傘を見た。
戻っている。
アマネの不思議な力で綺麗になっていた傘が、今はボロボロの状態に戻っていた。
「それに小川さん、泣いてるし……。様子がおかしかったから追いかけてきてみて正解だったよ」
「怪我はないです。傘も、ちょっと引っかけちゃって、無理やり引っ張ったら派手に壊れたというか……。……心配して来て下さって、ありがとうございました」
私がしっかり笑ってみせても、先輩の心配顔はそのままだった。
「……やっぱり、お別れでした」
「え? あ、その、好きな人と……?」
「はい」
意外にも湿り気のない返事が出来た。
「少しの間は立ち直れないかもしれませんが、すぐに元気になります」
今度は自然に笑えていたと思う。そんな私の顔を見て、青空先輩は少し考えたような表情になってから口を開いた。
「夏休み、どこかに行かない?」
「え?」
先輩を見上げると、メガネ越しの真っ直ぐな視線とぶつかった。
「こう見えても、気晴らしが出来る場所くらいは
そう言って、青空先輩は爽やかに優しく笑う。
気晴らしか……。そうだよね。
「……はい、お願いします」
私は迷いながらも、先輩に返事をした。
了
紫陽花通り 平野 絵梨佳 @hanetani_yui
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます