シガーキスの距離

ごんべい

シガーキス 

1/

 はじめてその女性ひとを見たとき、綺麗だ、と思った――。


 艶っぽい黒髪が背中のところまで綺麗に伸びていて、前髪を時折かきわける仕草が妙に大人っぽい。

「こんにちは。今日も会ったわね」

「こんにちは、御園みそのさん」

 御園さんは不思議な人だった。私はこの人のことをよく知らない。ただ、自分は悪い大人だから、私のようにはなるなと言われたことはある。

 それ以外のことは知らない。いつも何をしているのか、趣味は何なのか、好きな食べもの、音楽、嫌いな食べ物とか、そういうこと全部。

「いやぁ、今日は暑いねぇ。香菜かなちゃんも、熱中症とかには気をつけてね」

「はい……。私は大丈夫です。暑いのも寒いのも我慢できますから」

「いやいや、我慢しちゃダメなんだって、ダメなときはダメってちゃんと言わなきゃ」

「はい……。気をつけます」 

 私は人と話すのが苦手だ。話を膨らませるのがとにかく苦手で、何を質問されても数秒で会話が途切れてしまう。

 妙な沈黙と間が私をもっと緊張させて、もうおしゃべりなんかできなくなる。

 だから、御園さんとほとんど毎日のように会っているのは私にしては奇跡に近い、これまで、誰かと会いたいからどこかに行くなんてことなかったのに。きっと私は御園さんのことが、好きなんだ。

「香菜ちゃんは、ここ好き?」 

「ええ……。静かでとても落ち着きます、今は御園さんも、いますし」

「そっか、ならいいや」

 私は自分の持ってきた煙草を取り出して、火をつける。

 煙の味が口の中に広がって、肺まで届く心地よさと、身体に悪いなあという気持ちが同時に脳内を駆け巡る。

 だけど、コレを吸うと、落ち着く。

 家のこと、私のこと、学校のこと、嫌なことはたくさんあるけど、コレを吸うと、頭の中が少しだけスッキリして、解放される気がした。

 ほとんど依存症みたいなものなんだろう。でも、それでよかった。私はただ、怠惰に人生を生きてきただけの、くだらない人間なのだから。

 それでいい、ただ、ゆっくりと、静かに、緩やかに死んでしまいたかった。

「香菜ちゃんさ、大丈夫?」

「えっ……?」

「いや、いつも疲れた顔してるし。余計なお世話かもしれないけど、悩みとかあるなら……」

「大丈夫ですよ。私は、元気ですから。悩み事なんて、ないですよ」

 御園さんは、優しい。だけど、私はその優しさを拒絶した。

 本当は、こんなにも息苦しいのに。

 私の家はそれなりに裕福で、厳格な家庭だ。だけど、両親は私のことなんかほったらかしてる。それは私より優れた姉がいるから。彼らにとって、不出来で根暗な次女なんて、どうとでも好きに育ってくれればいいということなんだろう。

 大学ではいつも独り。友達なんてできないし、私はただぼーっと学校で授業を聴き、毎日を無駄に浪費しながら、なんとなく人生を消化してる。

 そういうこと全部ぶちまけてしまいたかったけど、それは無理だ。私にはできない。このままが一番いい。この距離が、一番。

 本当はもっと、近くに行きたいけど、臆病な私には無理だった。

「そっか……。まぁ、香菜ちゃんが話したくなったら、いつでも言ってよ。私は香菜ちゃんの味方だからさ」

「ありがとう、ございます……」

 その日はそれでおしまい。私が席を立っても、御園さんはもうちょっとここに居るからといって、煙草を吹かしていた。


2/

 

 護衛開始日時、4月1日、午前7:00。護衛目標、西園寺香菜、21歳。西園寺家の次女。聖学院大学に通学、バイト、サークルなどの活動はなし。

 家から学校まで徒歩、電車で移動。授業日は火、木、金曜日。授業のない日はほとんど家におらず、喫茶店、散歩、図書館などによく通っている。

 より護衛をしやすくするため目標との接触を図る。護衛目標の寄る喫煙所で遭遇、彼女と少しだけ話す仲になる。

 彼女を護衛する目的は単純だ。彼女の姉が、私に依頼してきたから。

 西園寺香菜の姉である西園寺杏奈は、両親から大事にされており、西園寺家の令嬢に相応しく護衛の人間が常に着いている。

 しかし、妹の香菜にはそういった護衛はいなかった。

 それは彼女が身代金目的、脅迫などの目的で誘拐、拉致されても構わないということに等しい。

「そこまでね。誘拐犯さん」

「なに……?」

「ちょっとお仕事が雑じゃない?」

 香菜を狙う人間は、いないわけじゃない。当然次女とはいえ西園寺家の人間。彼女をダシにしようとする下衆な人間は、やはりいるのだ。

 杏奈はそれをわかっていて、まだ幼い頃から、香菜を護衛させる人間を雇ってきた。私はもう5人目になるらしい。

「なんだ、お前は。妹の方には警護を担当する人間はいないと……っ」

「1人目、クリア。まだいるね……」

 不意をついて、1人目を始末し、2人目、3人目を探す。目視ではこいつを含めてあと1人。おそらく2人で香菜を襲い、待機している3人目の車で誘拐する計画なのだろう。

 香菜は家が嫌いだから、いつも家に帰るのは夜遅くなってからだ。自分を大切にしない娘だから、襲われそうなどということは分かっていて、人気のない道をわざわざ選んで帰宅しているのではないかと思ってしまう。

 この公園だってそうだ。わざわざここを通る必要なんてない。

「見つけた」

 私はすばやく男に駆け寄ると、銃を突きつけて脅しをかける。

「残りの仲間のこと、教えなさない、位置と、人数」

「おまえ、何者……がっ」

「位置と、人数だけ喋りなさい。次は、殺す、少し手間がかかるだけだから」

「ぐっ、公園北側の出口に、車で待機している仲間が2人、それ以外には、いない」

「そう、ありがとう」

 頭を撃ち抜いておしまい。生かしておく価値はもうなくなった。死体の処理も、西園寺家がやってくれる。お金持ちというのは恐ろしいものだ。

「北側、香菜ちゃんは……」

 うっすらと見える彼女の姿はもう少しで出口まで着いてしまいそうだった。

「ちっ……」

 できれば私が香菜の護衛をしていることには気づかれたくなかった。ビジネスだけが目的で彼女に近づいたと誤解されたくないからだ。

 いや、それ以前に香菜が危険だ。私の任務は彼女の安全を守ること。それ以外のことなど、どうでもいい。

 おそらく、彼らは逐一連絡をしていたはず。連絡が途絶え、しかも目標が近づいたとなれば、確実に飛び出してくるだろう。

 そこを一気に仕留める。香菜には指一本も触れさせない。たとえ彼女が、自分自身を諦めていたとしても。

 香菜が出口まであと50メートルといったところで、男たちが車から出てきたのを確認し、私は走り出した。

 香菜を追い越し、公園を出て、車から降りてきた男を、始末する。簡単なことだった。

 追い越したとき、香菜が私のことを見たかは分からない。だけど、そんなことはもう気にしている場合じゃない。明日になって彼女に会ってから考えればいいことだ。

「なっ……」

 車から降りてきたところを振り向きざまに一撃、反対側にいる男が、異変を感じてこちら側にきたところを、一撃。サイレンサーのおかげか、銃声はほぼ響いてない。 

 あとは死体を車の下に隠さなければ。

「重い……なっ……!」

 死体を移動し、私は開けっ放しの車のなかに隠れた。香菜にバレたか、バレてないかは分からない。いやそもそも、銃を打っている姿は見られただろう、確実に。

「はぁ、はぁ……はぁ」

 サイドミラー越しに香菜の姿を確認すると、彼女は別段、慌てる様子も、驚いた様子も、不安そうな様子もなく、背を向けて帰路についていった。

 銃を打ってる姿を見てないのか? それとも分かっててこっちにきたのかわは分からない。もし分かっててこっちに来たのなら、あまりに危険に鈍感すぎて心配になる。

 いや、ともかく、あとは彼女が家に着くまで護衛すればいいだけだ。

 私は車から降りて、彼女を家まで見送った。


「もしもし、杏奈さんですか。今日、赤坂公園で4人分の死体の処理、お願いできますか」

「ええ。わかったわ、ありがとう、御園さん護衛ご苦労さま」

「いえ、これが仕事ですから」

 香菜を家まで見送ったあと、電話で雇い主である杏奈さんに電話をする。電話越しでもわかる、余裕のある、優雅な声。香菜とは正反対だ。

「ふふ、あなたはとても優秀だから、安心して香菜を任せることができるわね」

「ありがとうございます」

 杏奈さんは、私よりもちろん年下だが、つい敬語になってしまう。それほどのカリスマ性とでもいうべきものが、彼女には備わっていた。別に教育のおかげというわけでもないだろう。もともと、彼女はそういうふうに生まれてきたのだ。

「だけど、少し香菜との距離が近いわよね。いくらあたなが優秀な護衛でも、香菜に手を出すのは、ダメよ?」

「分かってます。私、女ですよ? そういうことが起こらないように、わざわざ私を選んだですよね?」 

「それはそうだけど……。まぁ、いいわ。とにかく、変な気を起こさないようにね? あなたはただの護衛。役目だけ果たすことを考えなさい」

「了解です」

 ふぅ……。距離が近いだなんて、いったいどこで私のことを監視しているんだか。

 変な気を起こすな、か。だけど、それはちょっと無理そうかな。 

 

3/


「私の、護衛……」

 結論から言ってしまえば、私は御園さんの正体を知ってしまった。

 いつもの図書館の喫煙室。だけど、今日は少しだけ煙が重たい。いつも気にならない副流煙のにおいも、今日はなんだか、私を苛つかせた。

「御園さんは、だから私に優しいんですね……」

 それは、当たり前のことだ。見ず知らずの、そこら辺の小娘に優しくしてやる義理などない。

 彼女が私に会ってくれたのは護衛のためで、それ以上でも、それ以下でもない、ビジネスの関係。

 ああ、そう。そんなことわかりきってる。私が自分のことを好きになれないのだから、誰かが私のことを好きになってくれるわけはない。

 当然の結末、当然の結論、当然の末路。わかりきっていた、終わり。

「香菜ちゃん、確かに私は最初、護衛のためにあなたに近づいた。だけど、もうそれだけじゃないんだよ」

「そんなこと……」

 本当は御園さんのことを信じたほうがいいんだろう。そんなことは分かってる。だけど、私には無理だ。

 生まれてから、私は自分のことを好きになったことなんてない。姉は確かに渡しに優しくしてくれる。だけど、それは姉が、「姉」だからだろう。

「香菜ちゃん、私は、あなたのことが好きだよ」

「……っ。無理しなくていいんですよ。御園さん。今までどおりで、大丈夫です。私は平気、ですから」

「香菜ちゃんが平気でも、私が平気じゃないんだ。ごめんね、わがままなお姉さんで。だけど、私の正体もバレて、もうこれ以上、香菜ちゃんへの気持ちを隠せなくなっちゃった。香菜ちゃん、正直に答えて。私のこと好きかな。嫌いなら、今までの関係に戻ろう。ただの喫煙所でたまたま、出会うだけの他人に」

 御園さんの目、ひどく真剣だった。いつもの優しくて、だけどどこか飄々している女性の目じゃなかった。

「私、は……、御園さんのこと、好きです。大人っぽくて、綺麗で、私に優しくしてくれて、それに、私のこと、守ってくれていたんですよね……? そんなのもっと好きになっちゃいます。でも、御園さんが本当に私のこと好きなのか、信じられないんです。私、臆病で、愚図で、ごめんなさい……」

「分かった……。じゃあ、これから、香菜ちゃんに信じてもらおうかな」

「え……」

「私たちさ、いつもこの場所でしか会わないけど、もっと2人で、色んなとこ行こうよ。そうやって、もっとお互いのこと知ってさ、それじゃ、ダメかな」

 それは、とても素敵なことだった。私、本当に駄目だ。こんなこと言ってくれる人のこと、疑ってる。

「はい……。そういえばまだ、御園さんのこと全然知らないです。私のことも、全然喋ってないです、よね」

「香菜ちゃん、大丈夫。香菜ちゃんは香菜ちゃんのスピードで、大丈夫だよ」

「はい……、ありがとうございます」

 胸の奥が少しだけ温かくなって、少しだけ気持ちが軽くなって、ほんの少しだけ勇気を出そうと思えた。

「香菜ちゃん。自分の煙草、火つけてみて」

「えっと」

「シガーキス、って知ってるかな」

「その、聞いたことは」

「まだ香菜ちゃんの唇にふれることはできないかもしれないけどさ、煙草越しなら大丈夫かなって。嫌、かな」

「大丈夫です。シガーキス、したいです、私」

「ありがと」

 自分の煙草に火をつけると、御園さんの顔がどんどん近づいてきて、煙草と煙草がくっつく。

 それは、まるでキスをしているみたいな距離だけど、まだ少しだけ遠い。

 御園さんの煙草に火がついて、だけど、私はまだこの曖昧な距離で御園さんを感じていたいと思った。

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