彼女は小さな復讐者

荒木田エマ

彼女は小さな復讐者

 照りつける太陽の光に、蒸せるような空気。流れ出る汗は限度をわきまえない。

 今年もこの季節がやって来た。そう、夏だ。夏と聞けばいてもたってもいられなくなるアイツらが、望んでもいないのにやってくる。

 ブーン、と。静かに、しかし耳障りな羽音が聞こえた。早速来たかと、俺は武器を手に立ち上がった。

『どんな相手も一撃コロリ! ワンプッシュでみるみる落ちる!!』

 そう銘打たれた最強武器は近所のコンビニに売っていた物だ。シュッと一吹きするだけで1日中効果が続く優れもの。それでいてお値段据え置き。良い時代になったものだと、高校生の俺はしみじみ思う。

 六畳一間の独り暮らし、それが俺の部屋だ。テレビにゲーム機、あとは小さなテーブルと本棚くらいの質素な部屋である。

「さて、と……」

 開いた窓から生ぬるい風が吹き付けてくる。今なら殺虫成分が程よく部屋を巡回してくれるはずだ。そう思い、俺は躊躇うことなく室内に殺虫剤を撒いた。

 シュッという短い音を鳴らし、ノズルから白い霧が吹き出す。すぐに透明になって消え、そして後に残るはアイツらの死骸のみだろう。

 有象無象の集団ごとき、人間に敵うわけがないのだ。鬱陶しくて腹立たしい存在だが、ただそれだけ。脅威なんて感じない。

「きゅー……」

「ん?」

 足元から虫の息だと言わんばかりの声らしき声。いや、しかしそれはおかしい。部屋には俺しかいないはず。

 視線を足元に向ける。

 そこにいたのは間違いない。毎年、現れては迷惑しか掛けない『蚊?』が倒れていた。

「何だ、コイツは……?」

 思わず驚嘆の声が漏れてしまった。身を屈め、床に倒れた『蚊?』を凝視する。

 サイズはよく目にする蚊と変わらない。しかしその容姿は明らかに人間と同じであった。

 顔があり、手足があり。極小サイズの女の子だ。今にも瀕死な『蚊?』はプルプルと体を震わせている。

「わ、私はただ、血が欲しかっただけなのに……」

「コイツ、喋ったぞっ?!」

「人間め。私を殺したところで、いつかまた第二、第三の私がお前の血を求めてやってくる。覚悟するが、いい……。ガクッ」

 動かなくなった『蚊?』をただ見つめる。そして一つの考えに至る。

「これって、擬人蚊というやつか?」

 昨今の擬人化ブームにあやかって、蚊達は間違った方向に進化してしまったのかもしれない。


 ・・・・・・


 太陽は姿を隠し、幾分か気温も落ち着きを取り戻した、夜。

「行くのじゃな……?」

「はい。姉さんの敵はアタシが討ちます」

 老師に向けて、アタシは小さく頷き言った。

「じゃが、お主も見たであろう。あの地は今や魔境と化した。踏み込めば生きては帰れんかもしれぬ」

「それでも、アタシは行きます」

「決意は固いということじゃな……。ならばもう止めはせぬ。必ず生きて帰ってくるのじゃぞ」

「はい、老師さま」

 アタシは背中の羽を羽ばたかせ、軽く浮遊する。

 人間の言葉を借りるなら、アタシ達は蚊と呼ばれる存在だ。弱くて脆くて、儚い存在。そんなアタシ達は今や人間と同じような姿をしている。理由は分からない。気付いたらそうなっていて、アタシ達にとっては当たり前なのだ。これもまた人間の言葉を借りるなら、擬人化というやつなのだろう。

「それでは、行って参ります」

 吸血用ポンプを肩に担ぎ直す。ポンプと繋がったチューブの先には鋭利な針が付いている。この針を突き刺し、血を吸い上げる。吸い上げた血を持ち帰ってアタシ達は生活している。

 アタシの姉は血を求めてあの男のもとへと旅立った。しかし、無情にも男は大量殺戮兵器を散布し、姉の命を奪ってしまった。

 あの男から血を吸い上げて持ち帰る。それが姉に対してできるせめてもの手向けだ。

「くっ。この距離まで毒気が漂っている」

 姉の命を奪った破壊兵器は、昼時に比べるとまだ薄らいでいる。が、それでも長くはもたないだろう。

 時間との勝負だ。

 通路から男がいる広間へと移動する。目に見えない毒気がアタシの体を蝕んでいるように重い。羽を動かすことも億劫に感じられる。

 男は横になって眠っている。チャンスは今しかない。

 慎重に、床を這うようにして進み、男のもとを目指す。

 羽音は危険だ。寝ていたとしても羽音を聞きつけ、人間は無意識に襲い掛かってくる。そうやって何匹もの同胞が殺されてきた。

 憎い。でも、アタシ達に彼らを殺めるだけの力は無い。ただ血を吸い上げ、それを勝利の美酒として飲むしかない。

「ふう。やはり散布の中心点は毒気が強い。早く仕留めて帰らなければ……」

 男のもとまでは問題なく辿り着くことができた。あとは血を吸い上げれば良いだけなのだが、アタシの中にある復讐心が小さな欲を膨れ上がらせる。

 姉への手向けとするならば、最上級の味を。

 血を吸い上げるポイントによってその味は大きく異なる。中でも二の腕から採取できる血の味は極上だ。

 だが、危険が伴うのもまた事実。目的地へ向かうには羽を動かし、飛ばなければならない。そうなると必然的に羽音が発生する。

「少しだけなら、大丈夫。大丈夫……」

 羽を使い、体を浮かす。耳に届く羽音がとても大きく感じられる。

 出来うる限り慎重に。無事、辿り着いた二の腕に着地したアタシは、休む時間も惜しいとばかりに針を突き刺した。

 ポンプの中には透明の液体が入っていて、始めにこの液体を人間の体内に流し込む。感覚を一時的に麻痺させ、その間に血を抜き取る。人間からするとあとは痒みとなって残るが、その点はアタシ達には関係ないこと。

 ここまでは順調だ。あとはこの血を持ち帰れば――。

「んん……」

「――ッ!」

 警戒していたつもりだった。しかし、採取し終わった安心感から来る余裕が油断を招いてしまった。

 顔を上げる。と、すぐ目の前に男の振り下ろされた手が迫ってきていた。男の一撃は真っ直ぐこちらに向かってくる。

「ダメ、避けられないッ!」

 失敗した。欲を出したばかりに、自分の命を差し出すことになるなんて。

 今から逃げ出しても間に合わない。

 終わりだ。そう思い、ぎゅっと目を瞑った。

「えっ……?」

 刹那、自分の体が何者かに押され、勢い余って腕の上を転がる感覚。直後、肌を叩く音に合わせて風が襲いかかる。手を付き、転がる勢いを殺して止まったアタシはすぐに状況を確認した。

 前方には男の二の腕に叩きつけられたもう片方の手。先ほどまでアタシが立っていた場所だ。その手に挟まれる形で、

「姉さん?!」

 死んだと思っていた姉の姿があった。

 駆け寄り、引っ張り出そうとしたがびくともしない。所詮、アタシ達の腕力で人間の手を持ち上げることなんて出来ない。

「いや、姉さん。死なないで!」

「私はもうダメよ。もとより、毒気に犯されて長くはないわ」

「コイツが、コイツが姉さんを!!」

「違うの。彼は私を助けてくれた。ううん、確かに殺されそうになったわ。でも私の姿を見て、彼は興味を示した。人と同じ姿をした蚊を見るのは初めてだったみたい」

「でも、それでもこうしてまた姉さんは殺されかけてる!」

「ええ、そうね。でも、あなたを助けることが出来た。それだけでも生き永らえた意味があったわ」

「そんな、姉さん……」

「ここから離れなさい。このままではあなたまで毒気にやられてしまうわ」

 姉の言う通り、体が重たくて思うように動かない。毒気の影響だろう。

「この姿なら手を取り合えるかもしれないと思ったわ。でも、やはり人間と私達では考え方が違う。共通の言葉を有しても相容れない存在もある。それが私達と人間。残酷かもしれないけれど、私達は戦い続けるしかないみたい」

 弱々しく語る姉の表情から血の気が引いてゆく。

「さあ、早く。あなただけでもいきなさい」

「……ごめん。ごめんね、姉さん」

「最後にあなたの声が聞けて良かったわ」

「アタシもよ、姉さん」

 羽を広げ、その場を離れる。

 男の手は姉を挟んだまま動かない。こちらを追撃してくる気配は無かった。


 ・・・・・・


 茹だるような暑さはいつもと変わらない。正常な夏の光景だ。

「そういや昨日さ、変な夢見たんだよ」

『変な夢って?』

 ボイスチャット越しに聞こえる友人はあまり興味がない声で話の続きを促してくる。

 対戦ゲームにほとんどの意識を集中させている分、話の内容はいまいち要領を得ないものになったしまった。が、友人は理解したように、言った。

『擬人化ならぬ、擬人蚊ねえ。お前のゲーム脳も危険値に達したな』

「だから夢だったって言ってるだろ。蚊が人の形してるとかあり得ねぇし」

 今朝、目を覚ますと人の姿をした蚊はどこにもいなくなっていた。証拠写真でも残しておけば良かったのだが、驚きのあまり忘れてしまっていたのだ。

『それで、どんな話したんだ?』

「うーん、あんま覚えてない」

『もう血は吸わないでとか?』

「あ、それ言った記憶ある」

『しかし、蚊と友達には絶対なれないだろうな。人の形してるなんて、殺しにくくて仕方がないっての』

「ああ、そうだな」

 夢だったのだろう。何でもかんでも人の姿にしてしまえば面白いんじゃないかって考えていたから、きっと変わった夢を見てしまったのだろう。

『そんなことより、はい終わり!』

「あー、くそ。負けた!」

 コントローラーを放り投げ、両手を床に付いて天を仰ぐ。


「きゅー……」


「へ?」

『ん、どうした?』

「お前、今なにか言った?」

『いいや、何も言ってないぞ?』

 まさか、な。

 ゆっくりと、視線を落とす。

 そこにいたのは……。


 おわり

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