ボヘミアン・ラプソディ


 寒さは寂しさと似ている。心臓の動きを止めてしまうような、鋭く刺さるようではないけど、じわじわと息の根を止めるような痛み。因果関係は時間のなかでとろけていって、寂しさも痛みも、凍える指先も飢えも、混然一体になって心象風景のなかに取り込まれてしまう。記憶の中には痛みだけが残る。それもいつかは思い出せなくなって失われてしまうのだろう。失われた記憶のほんの一部が、ときたま夢に姿や体感を伴って出現して、私を驚かせる。自分では忘れてしまった事柄も、体は覚えている。体は覚えている。体は覚えている。記憶している。

 夢の中のデパートには人がいない。建物の構造自体は現実をそっくり反映していて、テナントは時々入れ替わっている。ディーラーがあったところが駐車場になっていたり、蕎麦屋のあったところがファミレスになっていたりする。ひとりで歩いて、エスカレーターに乗って昇降し、誰もいない廃墟みたいな店内を散策する。人の顔がよく見えない。見えているのにわからない。親しい人の顔を見当違いな芸能人に例えて困惑されたり不快にさせてしまう。電子ピアノの鍵盤をたたいた。何度も繰り返し訪れた場所だから夢に出てくるのだろう。私はあらゆる空間の記憶をもとに夢を再構成している。ガイドが光る。キーを押すと音が鳴る。欲しかったはずなのだ。私はこれが欲しかった。でないと何度も繰り返し展示されている場所を訪れない。

「ほしかった」

 はずなのだ。欲しいと言えば手に入れられたのだろうか。よくわからなかった。今日も家電売り場でキーボードを眺めている。音を鳴らして遊んでいる。遊んでいる。人が見ればそう解釈するのだろうか。暇だから暇つぶしに遊んでいると思われるのだろうか。よくわからなかった。わからないことばかりだ。なにかすれば周りの人が喜んだり怒ったり悲しんだりいぶかったりする。規則性がわからないので、何度も試しては繰り返して、それでもやっぱり、間違ってしまう。疲れてきた。立ちっぱなしで脚に力が入りすぎている。そのことを自分で自覚できない。脚が普段よりも重たくなった感じがする。でもそれが、立ちっぱなしの状況や歩きっぱなしの現状とつながらない。周りの人たちの言葉を真似するけど、なかなか自分のものにならなかった。喋り出すのはとても早かったという。歩くか歩かないかのころに、すでに喋って意思の疎通が図れたと周囲の大人は言った。歩き出すのも早かった。文字を覚えるのも苦痛ではなかった。絵本を読んでいてすぐに覚えてしまった。言葉は人を真似することで覚えられるけど、言葉だけでは覚えられないこともある。


 生まれてくるときはみんな血まみれで温かいから、寂しさなんか知らないのかもしれない。外に出て初めて、赤ん坊は寂しさと飢えを知るのだろう。だけどそれはフロイトが記述したような怒りや不快に満ちたものではないはずだ。寂しさも孤独も根源的なもので、わたしたちはそれを抱えたまま生まれてくるのだから。産道を抜けて外気に曝された肌の、すがすがしく満ち足りた冷たさを、私たちはいつしか忘れてしまう。言葉がすべてを奪ってしまう。不完全な言葉に依存した他者への期待が、身一つで充実していたあの感覚を奪い去ってしまう。死への恐怖に直面したときのあの、精神の高揚と均衡のとれた状態を、意識の翳りに葬り去ってしまう。死を忘れた私たちは、皮膚表面の感覚を他人に譲り渡し、共有された温度にすがろうとする。それどころか。死への恐怖から逃れるために延々と道化のように振舞ったりする。生きているうちにどれだけ姑息に立ち回ろうとも、高潔に地面を這いつくばろうとも、死んでしまえばすべて同じなのに。違っていたい。あの人とは違っていたい。別人でありたい。その決意だけが私を生かしてくれる。






  

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第二短編集:小瓶のなかみ 阿瀬みち @azemichi

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