チョコレイト・リアリティ、17歳
四葉美亜
チョコレイト・リアリティ、17歳
冬虫が雪のように線路の上を舞っていた。午後四時の光は、暖かさとは無縁の黄色だった。かしましい世の中のなかで、その宙だけがひっそりとしているように茉莉には思えた。渡した渡さない、貰った貰えない、そんな下卑た話ばかりが陣取っていることが鬱陶しかった。貨物列車に轢かせてやりたいと、そんなことすら思っていた。
今日の焦げ茶色の燃料はきっと良く燃え上がるのだろう。白い息を吐いた。ホームの端に設けられた喫煙スペースにぽつねんと立つ制服は寂し気であり、妙に馴染んでもいた。誰も使わないその場所で、彼女はいつも電車を待っていた。
鮮やかな音が、勢いのある貨物列車を引き連れて過ぎ去る。
また死に損なったな、と茉莉は思う。
チョコレイトよりも貨物列車の轟音の方が、彼女は好きだった。全身が洗われる気がした。要らない音を轢き殺してくれるのだと感じた。それは日常のなかに溶け込んで見逃されている暴力だった。数メートルも歩かないうちに、人体を粉々に打ち砕く暴力の体現。
震えたスマートフォンを眺める。あらゆる場所がチョコレイトの気配に埋め尽くされている。普段は優しいはずの居場所ですら、かしましい言葉が溢れていた。そんな言い方――可愛すぎるだろう――誰にも宛てられない茉莉の言葉は、沈黙の内に保たれる。片手をポケットにしまい込んでイヤホンで耳に蓋をした。
彼女は、まもなく帰りの電車に乗った。寒く乾燥した外気とは違って、車内は吐気を催すほどに厭な暖かさに満ち満ちていた。
あー、死にたい、死にたい。明日テストだよ。何考えてんだろうな、あのおっさん。
呟きが打ち込まれる。茉莉の頭のなかだけに、破滅的な音が響いている。早口すぎるボーカルは甲高い叫びで世界の終わりを謳う。場違いに明るい曲調は皮肉、重低音がメロディラインを烈しく割ってゆく。横文字の題名はいちいち覚えるのには長すぎて、そしてさしたる意味を持たない。
義理チョコを止めても友だちと云う義理が付き纏う。毒を口にする気にはなれず、だからと言って棄ててしまうのも勿体無い。律儀に甘味を捉えてしまう彼女は甘ったるいものを厳禁としていた。それを出来るのも、一重に彼女に一切の義理が無いからでもあった。義理をつくらないことが即ち平穏なのだと彼女は信じている。
そうしてしまってからは後悔も出来なかった。ただの嫉妬だけが彼女に許される感情なのだった。しかしそのことを認めることは、彼女にとって惨めそのものであった。インターネットの雑踏へ、彼女は何処へもゆけない心を吐き出す。
優しい世界はここにある、けれどそれもまやかしだ。
顔も知らない福岡の家出少女が自殺未遂したと知る。ああそうなの、まだそんなことやってるんだ、と、やはり声にはならない呟きが秘められる。けれども茉莉はその一歩を踏み越える気持ちを持てないでいる。
中途半端な苦みのチョコレイトみたいな、安っぽい味が口のなかに広がった気がした。
ああ良かったね、遂に告れたんだおめでとう。お前の悩みなんてその程度だったのかよ。チョコレイトひとつであっさり解決。一線を踏み越えた先の優しい世界が近くにあって良かったね。どこの次元だよ。お前なんかが私と同じ顔色で、似たような言葉吐き散らかして、結末だけが私を越えていくとか、何だよ、それ。
映り込んだ姿に彼女は顔を歪める。顔も知らない似た者同士が傷を舐めあっていられるようになったところで、やはり置いて行かれるのだ、と自嘲する。いなかったことにされる自分自身を卑屈に思う。
もう人間の声を聴くことすら厭になって、茉莉は曲を変える。逃げた先にはハープの寂し気な調べがあった。目とつぶると茉莉は無機質な音に閉ざされる。
電車から降りた茉莉を待つ姿を、ひとつ、彼女は見とめた。普段は改札の出口にはいない姿だった。小柄なその姿は背伸びしながら、人ごみの中を探っていた。その様子を見て彼女は少し気分が晴れた。地味な私服姿は茉莉が唯一、息苦しさを感じずにいられる相手である。茉莉と真由美は別々の境遇にいながら、それぞれに身持を崩していた。
小さな紙袋を真由美は差し出した。控えめな笑みには、けれど張りつめているだけで満面の笑みが隠されていた。可愛らしいその紙袋の中には、いつもと変わらず本が入っている。最低限の義理すらも拒絶した真由美は、この日の茉莉の心を知る由も無い。茉莉にはそれが羨ましく思えると同時に可哀想にも思えた。学校を知らず、そして同じ歳でいながらその日の生活のあらゆる場面に実感を持たざるを得ない彼女の姿を憐れんでいた。余裕の与えられない寂し気な暮らしも、いつかはどこか自分とは縁遠すぎる場所に離れてしまうことを、茉莉は予期していた。
茉莉が唯一、受け取っても良いと思える綺麗なラッピングが本の横に添えられている。
二月の空は薄曇に覆われて、寒さが二人の喉を刺す。駅を裏手に伸びる細く雑然とした道には誰も居ない。黒ずんだ家の外壁が寒々しかった。枯草がなけなしの玄関先にへばりつき、昭和の時代から変化を知らないような雰囲気が黒々と漂っているのだった。ほんの一年昔まで同じ場所で同じことに苦労させられていたことを全く感じさせない場所だった。どこでもないその場所に、誰にもならない、そしてなれない、どこにもいられない寒々とした背が並んで歩いていた。
茉莉は別れ際に、学生鞄のなかからひとつ、無機質なビニール袋を取り出した。ロゴのひとつも書かれていないそれは、この日の贈り物にしてはあまりに地味であった。しかし彼女はこの贈り物をひと月がかりでつくりあげたのだった。それは首を絞められるような作業であった。喉を押さえつける息苦しさと肩にのしかかる怠さと、イヤホンをしなければいつの間にか咳き込んで起きてしまう浅い眠りとを耐え忍んだが為に用意出来た、捨て身の贈り物なのだった。
真由美はにっこりと、その袋を受け取る。
去るその細い背は心無しか満足気に見えて、真由美は心を弾ませた。腕をさすった。寒さから来る震えでは無く、冷え冷えとし過ぎている為の、瘧のようなものだと解釈していた。玄関の戸を閉めて漸く、彼女は息に笑い声を微かに混ぜこんだ。可愛らしくラッピングしたチョコレイトには、彼女の手首を裂いた時の黒い朱が混ぜ込まれている。
どこにもいない十七歳は、心を知らないままに贈り物に想いを込めていた。何者にもならないその身体を互いに押し付け合っているようでいて、彼女たちを結び付ける甘ったるいチョコレイトには世界を綺麗にしてくれる薬と静脈血とが溶けあっている。嫉妬と羨望は閉じこもったまま、いつか二人もそのチョコレイトを忘れてゆく。
チョコレイト・リアリティ、17歳 四葉美亜 @miah_blacklily
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