大晦日、年忘れ

四葉美亜

大晦日、年忘れ

 ――そういう訳で私は、お節料理を重箱に詰める手伝いをすることになった。


 何しろ母と祖母からの厳命である。手伝って、と云うその口ぶりは誇張なく厳命そのものだった。母も祖母も、昨日からずっと家の中へ外へと早足にしていたのだ。

 お節料理にしても私の我儘を聴いて作ってくれたとも云える。何しろ私がやたらと美容のことを気にするせいで、出来合いの総菜どころか外食すら不自由になっているのだ。断ることなど出来ない、まさに命令だった。

 大晦日の朝早くから、母と祖母は家中を慌ただしく動き回っていた。洗濯物はいつもより多くを畳んで片づけ、台所では常に何かが火にかかっている、そんな様子だった。二世帯だからかそれとも父が正月にしか家に居ないからなのか、お節料理は二つ分必要になるのが、また厄介さを重ねていた。昼食も正月料理の余りとして、上物の穴子をご飯の上にのせていた。もちろんのこと、その穴子は美味しかったのだけど、それだけ今日のお昼をわざわざ作る暇も無い事実を物語っているのだった。

 お昼を済ませた後の二人の顔色は、もうめいいっぱい動ききった後だと云わんばかりのものだった。けれどまだ、大晦日の仕事は残っている。笑顔のように見えて、二人の眼が私を捉えて離さなかった。

 手狭な台所に私を含めた三人が立つと、それだけで動きにくくなる。コンロも流しも、精々二人が立つのが限界なのは確かだった。再三、簡単な料理を手伝うように云われていた私だが、こんな都合の良いときだけそんなことを云ってくれる、などと妙な反発を起こして、午前までのらりくらりと逃げていたのだ。

 ついぞ私が手伝うことになった時には、もう料理の殆どは出来上がっていた。母も祖母も、これで一服休憩できると腰を下ろしてため息をついていた。

「このサトイモをなあ、適当に詰めといて。そうそ、あとニンジンも」

 祖母は私の横からそう告げる。柔らかく煮られたサトイモと、丁寧に梅の花のかたちに切られた赤と橙のニンジン。甘じょっぱそうな上品な煮物の匂いがした。祖母にしか作れない味の、祖母にしか作れない形をしているのだった。既に祖母の重箱には、海老や黒豆など、その半分近くが詰められていた。私は言われるままに、そっと手を添えるようにして、煮物たちを並べていった。「ああ、それ正面がそっち、その方が見栄えがエエやろう」祖母は満足気にそう教えてくれた。いつの間にか流し台に立って、せっせと洗い物をしているのだった。

 一応これでも文学をやる身、芸術をしようとしている身で、それに去年まではお節料理にしても一つ二万か三万するものを食べさせてもらっていた私である。記憶を辿りながら、そして美しく見えるように重箱を創り上げることは存外、楽しいものだった。手作りでは料亭のそれには敵わない。それでも彩を気にして整えると、立派な重箱が出来上がっていく。

「昔はうちで作ってたからなぁ。なぁ」

 と、祖母は自分にとっての娘――私の母に促す。懐かしそうな笑みを浮かべた母が「小さかった頃はポテトサラダとか唐揚げとか入れてたよな」と返した。ああ、洋風の、三の重に入れるみたいな、と、私は今まで食べていたお節を思い浮かべた。「そうそう、それで――さんがエビフライが出来るちょうどこの時間になったら来てな、何となしに一匹食べていくんよ」私には想像のつかない光景を、母は語ってくれた。祖母はその間にも、こんにゃくや昆布巻きに包丁を入れていた。いつの間にやら切り口や結びにこじんまりとした飾りが付けられていた。

 祖母の重箱は、もともと一段だけにするつもりだったらしい。然し詰めた後もまだ数の子や蒲鉾、鰤の照り焼きに塩焼きが残った。これをここ、それをそこ、と私に指示をしながら、祖母は少しだけ動きを鈍らせた。「詰めるのもなぁ、肩と首にな、来るんよ」そう訴えては肩をさすっていた。母もそれには同意見らしかった。急遽二の重にも詰めることにした。元は半分だけのつもりだった祖母のお節料理は、出来上がってみると二段重ねにきっちりと詰め込まれた見事なものになった。満足気に「な、昔作ってただけあるやろう」と、祖母はあまり見せない可愛らしい笑顔になるのだった。

 祖母の重箱を冷蔵庫へ片づけると、今度は母の重箱――私と、母と、一応父の三人向けのお節料理を詰めることになる。中身は二世帯で似通っているようで違っていた。祖母のそれは殆どが――蒲鉾やこんにゃくそのもの以外――手作りである。そしてその作りも手慣れたものだとすぐにわかる、それだけの雰囲気を纏っている。では母のは、となるとそうはいかない。勿論、父の好みや私の我儘に付き合わされているのもある。祖母は祖父のことを考えて控えめな味付けのものを作っているのもわかる。けれど、どう見てもそれは――何とも馴染ある、母の――歳の大きく離れた姉のようなひとの――それだった。煮物ひとつを詰めるにしてもそんな軽口を叩きながらだった――そうでもしないと、祖母の苦労を報えないような気がしていた。こうしていると、祖母が私の母のような気がしてしまう。母も、すっかり娘の顔に戻っている。母の重箱は色とりどり、工夫よりどりみどりのお節になっていく。

「この田作り、私作ったんよ? ええじゃろ、砂糖不使用でその味」

 自慢げに工夫を披露する母だった。私が頑なに砂糖を拒むからこそこうなるのだが、一つ摘まんでみると確かに美味しい。けれど明らかに、私が毎朝食べている“食べる煮干し”で作ったことが解った。何と云うか、そのあたりが母らしかった。

 空っぽの重箱に最初から詰めていくのは少しばかり難易度が上がった。煮物からまず詰めようとしたが、どうにも先程のようにうまく決まらないのだった。「あんたな、そう詰めるからニンジンはみ出すんじゃろ、ほら貸してみぃ」と母が弄ると、今度は竹の子の具合が悪くなる。私が良かれと思って飾ってみた(祖母の重箱の余りの)梅を模ったニンジンたちはいつの間にか撤去されている。と思えば、見かねた祖母が「あんたらそのクワイどうする気なん」と面倒を見てくれる。隙間が出来れば顔を見合わせて考えた後、そう云えば酢レンコンがあった、などと思い出す。イカと数の子の和え物を入れる適当な場所が無いとなると、祖母がどこからか小さなカップを出してくれる。

 そんな具合に楽しみながら、笑いながら、重箱が出来上がっていった。そうして話は、私のとある恩師のほうへと飛んで行った。何やら年末恒例の某歌番組でちょっとしたパフォーマンスを披露する歌手がいるらしく、そのパフォーマンスに関してその恩師はやたらと長けていた。ひょうきんなその人は、小学生の頃、私の父親代わりをしてくれていた存在でもあった。常として私は云った。もう正月だけでも父親を先生に取り換えてくれんかな、と。母もそれに乗り気になったように「それなら変に気ぃ使わずに済むわ」と笑う。「いつ何でぷっと怒って出て行くか解らんしな」まさに云う通りだった。そしたらもうあんなのと年中会わずに済むね、と私が愚痴る。すると「あんなのでも私のお父さんより良かろう」と母が云って、それに祖母が「まあ職はエエな、うちのお祖父ちゃんより」と笑いを堪える。当の祖父は、台所のちょうど上に位置する二階の部屋で呑気にうつらうつらしている時間だった。「食べて寝て、トイレに行って、新聞見て、食べて、寝て」母も愚痴り始める。いつもの流れだった。とかく食べるか寝るかしかしていない祖父は、この大晦日の忙しさにも素知らぬ顔をして呆けていた。毎日のように交わされる男への愚痴に今日は私まで加わった。いつもは――祖父だけ――哀れにも思えて口に出さない私だが、一日中寝っぱなしの祖父と年中まともに会うのは正月だけの父、大晦日に重箱を詰めながら話すにはもってこいの年忘れだった。

 

――ここで、筆者として書いていて私は思う。ああ、このひとたちには忘年会など無いのだ、と。祖父なら今はいざ知らず、働いていた時には豪勢な忘年会を会社仲間でやっていただろうし、父はどうしているのやら、年どころか家族のことを忘れているような雰囲気をしている。けれども母と祖母に、忘年会は無かった。それどころか年の瀬になっても働き続けている。ようやっと、こうして年越しの鬱憤を晴らせるのかもしれないのだ。

 

 父の威厳はどこへやら「年の初めに訓示も無いんよ、あの――は。さあお節を食べる前に――何か云って、ってゆうたら『いただきます』よ。給食かなんかのつもりなんって」母は明日を憂いながら、今年の正月を思い返す。祖母は「それじゃあ締まりもせんなぁ、――そんなん?」と驚いてみせた。『いただきます』の云い方にしても何だか幼稚園みたい、と私が付け加えると、母は手を叩いて笑った。それくらいにわざとらしい言い方の“訓示”もどきなのだった。

 そうやって笑い声が響くなかで、時折、ゴン、と物音がする度に私たちは一寸の間息を潜める。エエ気になって、ようやくお目覚めなんかなぁ、と祖母が嘆く。けれどその音は二階からではなくて外から聞こえる音なのだと私が気が付くと、ふっと空気が軽く戻る。そうして同じ愚痴と笑い話が始まるのだった。何にもしてくれん、こうやって私らあ忙しゅうしとんのに寝てばぁっかり。祖母の言葉に力が入る。私も、ちょっとくらい手伝えばエエのにな、とエビを並べながら天を仰ぐ。そうこうしていると、そう云えばだて巻きの並べ方が悪いせいで他の料理が入らないことに気が付いて、母と二人して、ちょっとそっちの仕切り持っといてえな、私そっちに数の子詰めるから、と試行錯誤する。出来たと思ってみてみると、何だか締まりが悪い感じがする。互い違いに並べてみた蒲鉾が可笑しいことに気が付いて、何だか悲鳴にも似た笑いに変わる。「あんたセンスねぇなあ」と母が私に云ってのける。しゃあないやん、綺麗に並べたと思ったんだから、と私は口を尖らせる。祖母が「あんたら親子やなぁ」と感慨深そうにぼやく。

 気が付くと外は暗くなっていた。いよいよ詰め終わった重箱たちは、手作り感溢れながらも去年までのお節料理と遜色無いくらいに見えた。エエの出来たやん、なあ美味しそう、明日これで――の感想訊こうやぁ、立派立派。料理を作っていないくせに、私もそんな言い合いのなかに居た。

 ドン、と二階の戸が開く重苦しい音がして、祖父がゆったりと階段を下りる足音がした。ぼんやりした顔で台所に入ってきて食卓につく。祖母が用意してあった年越し蕎麦をさっと振舞った。私は重箱を片付けた流れのまま、今度は詰め切れなかった食材やら開けたビニールやらティッシュやらの片づけをしていた。そのあとは、蕎麦粉アレルギーを持つ私と母のぶんの年越しうどんの用意を。祖母は余りもので自分の年越し蕎麦の具材を盛り合わせていた。今年の年越しうどんは、いつになく洗練されている。と云うのも、この冬、母が思いつきで作ってみた魚のくずし入りのうどんが存外に美味しくて私と二人して嵌ってしまったのだ。ちょうど良いタイミングでスーパーのクジで讃岐うどんが当たったのもありがたかった。母が麺を湯がいている間に、私は食器と自分の薬の準備をして食卓を整えた。


 ――と。

 食卓についた時には、台所に居るのは祖母に母、それから私の三人だった。あれ、いつのまに、と私が首を傾げると、祖母は「何も知らずにもう食べて上にあがってったよ」と半ば吐き捨てる調子で云った。母も「お祖父ちゃんホント何もせんなぁ、出されて食べて、それで私らの手伝いもせんで」と口を揃える。全く、その通りだった。そして私にしても、ほんの数時間だけ祖母と母とに受け継がれた時間を共有したのだった。

 テレビを着けると、来年の新成人の数は去年と同じくらいだとニュースが流れていた。一応、あの数のなかに私も入っているのか、ほんの少し気になった。

 いつの間にやら祖父は消えていたのだった。つくづくこう思う。男なんて要らない、と。

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