少女人形異譚記
四葉美亜
少女人形異譚記
死ななきゃ治らない病が、世界にはある。
しゃらん、って音がして、足もとを見た。私の右脚が踏みつけた真っ白い歩道の上。そこに場違いな色彩が墜ちていた。
ちいさな翡翠色の、二対の透き通った翅。
……蝶?
確かにそれは、蝶――の死骸に見えた。その傍らに、褪せた黄緑の葉っぱがある。たぶん、この葉っぱを踏んだんだろう。だからこんなに、蝶のかたちは綺麗に残っていて。
真っ青な空から、陽ざしが容赦無く降り注ぐ。
ぴくり、糸より細い蝶の触覚が動いた――そんな気が一瞬。
暑い暑い夏の午後。蝶を汗ばんだ手のひらに乗せて家路を急ぐ。速足から駆け足へ。
私は自分の部屋に閉じこもる。カーテンがきっちりと閉められた部屋の空気は重い。息を整えながら、手の平のそれを私は見つめる。
――〈全能〉起動。
音にもならない呟きに、私の延髄に埋め込まれた〈全能〉が反応する。指先から放たれた五本のほの白い輝きが、細かな光の糸になって蝶を撫でるように包む。数秒の後、蝶のすぐ上に、青い「該当なし」の文字が浮かび上がった。
全てを知るそれが知らないもの。
蛾。その蝶の死骸は、蛾と呼ばれていた。そのことを私は知っている。
視界の端を、コバルトブルーの半透明なウィンドウが埋め尽くしていく。〈全能〉が外あらゆる検索結果を必死に表示しているのだ。しかしどのウィンドウにも、「該当なし」が表示されていた。
これしかない。これなら私は。
〈全能〉に検索の中止を指示して、ウィンドウを閉じる。視界の自動スキャンも可能な限り停止させた。鱗粉のひとつひとつまではっきりと視認出来ていた視界が、不確かなゆらめきと共にぼやける。光の補正が抜けてクリアになった薄闇で、部屋の中央に眼を向けた。
そこには、真っ黒な長方形の棺が出現している。〈全能〉の視界補正を逆手にとった迷彩塗装を施したそれは、いきなりそこに現れたかのように錯覚させてくれた。
棺の蓋が音も無くスライドし、中身が露わになる。
深紅のプリンセスドレスを纏った少女が、そこに眠っていた。
健康的とは絶対に言えない、氷の上に降り積もった新雪のような肌。どんな光でも吸い込んでしまう長い黒髪。ドレスに合わせた大きな深紅の薔薇が、胸元にたった一輪。
私にはまるで似ていない、いや――人間ではあり得ない少女は当然、人形だ。限りなく人間に近づけられた、しかし人間とは絶対的に断絶された、少女のかたち。
呼吸を知らない禁忌。
この人形の完成を私に託した製作者は、たった一人のともだち。彼女いわく、この人形は私たちふたりに似せたものらしいのだけど。
留められた一瞬の静謐に包まれたこの人形の目的は、けれども鑑賞では無い。
この少女は眠っている。私のともだちの意識を、魂をその身に宿して。完成するそのときまで。
――私たちはずっと一緒だよね。
――うん。例え、世界が別たれても。
――きっとそれが、私の幸せ。
――君は願ったものね。
――例え、それが幻だとしても。
世界最期の朝焼けのなかで、私たちは切に祈った。
夜は淘汰された。闇は、影は無くなった。そうして昼だけになってしまった、この只々明るいだけの世界からの脱出。〈全能〉に支配された、この只々綺麗なだけの、息苦しい人工の理想郷からの脱出。
完全な世界。恒久的な平穏の裡に閉ざされた、全き一。
蛾なんてあるはずが無いのだ。あれは穢れた夜の生き物なのだから。この世界には必要無い。総ては理想の裡に定められる。〈全能〉の下で。
一点の翳すら許さないこの人形は、この蛾を――穢れを内包して初めてひとつの世界として完成して、眼を覚ます。
昼と夜の間。何処でもない無い何処か。
鎖骨と鎖骨の間のくぼんだところ、頚窩と呼ばれる部分に、翡翠色の蛾を宛がう。そのまま軽く抑えると、蛾が柔肌に吸い込まれ、さざ波をたてながら溶け込んでいった。さながら人形自身が、最後のピースが嵌め込まれるのを欲していたかのように。
本当の最後のピースは私自身。私にはこの世界が眩しすぎるから。私たちがつくりあげたこの少女の闇のなかに、私の意識を、魂をゆだねて。
人形、起動。
淡々と発したつもりの言葉は震えている。
彼女の細い左腕が、私に向けてのばされる。その手のひらと、私の手のひらがあわさった。ほの白い光が、絡み合った指と指の隙間からかすかに漏れ出して、胸元の薔薇を密やかに照らした。
薄闇のなかで、翡翠色の眼が開かれる。
瞳のなかで、ぴくり、あの翅が瞬いた――そんな気が一瞬。
それが、私が私の眼で見た最後の景色。
冷たい感触が唇に。氷点下の灼熱が私を一気に貫いて、後頭部に鋭い痛み――〈全能〉の焼き切れる悲鳴――を感じたあと、私たちは安らかな宵闇に包まれた。
少女人形異譚記 四葉美亜 @miah_blacklily
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