決別の朝
四葉美亜
決別の朝
引きこもるようになって一年たった、夏のことだった。
目を覚ますと陽は既に高く、喉が渇いて痛かった。布団代わりのタオルは蹴飛ばされて、足もとでぐしゃぐしゃになっていた。首から後頭部にかけて鈍い不快感があった。寝た気はしなかった。どこかの校舎のなかから出られない夢を見ていたのだった。その不愉快なイメージが、余計に自分の居心地を悪くさせた――去年の今頃は補講にも出なかった――からなのか、喉を締め付けられているような圧迫感すら感じていた。
ほの暗い自分の部屋から出た。窓から見える庭が眩しかった。よろめきながら階段を下りて台所に向かうと、隣の居間で祖母がテレビをつけていた。夜のうちに起こった土砂崩れが住宅街を呑み込んだらしい、崩れた家とアパートとが泥に埋まっていた。自分は無言のまま居間に踏み込み、祖母の前を横切ってテレビを消した。人死は嫌いだった。おはよう、と祖母の声がした。
台所の食卓に並べられた味噌汁を啜っていると、母がやってきて食卓についた。何かの書類などが入った小箱を脇に抱えていた。書類を取り出すと、母はボールペンで父の名前を書いた。綺麗な字だった。その書類は何、と尋ねると、銀行の、とだけ返ってきた。それから、のし袋を取り出して筆ペンで父の名前を丁寧に書いていった。それは地元の夏祭りへの寄付金だった。いつも母は、こうして大事なものに父の名前を記していた。自分の保護者の欄に書かれる名前も父のものだった。クレジットカードも父の名義でつくった。
自分はそれが不愉快でたまらなかった。自分は母に問い質した。「何でわざわざその名前にするの?」沈黙があった。その沈黙が、ただ筆ペンの先に母が集中するためだけのものであることを、自分は察していた。この問に母は慣れていた。慣れ切っていたから、このときも顔をあげずに「そういうものだからよ」と呟いた。地域の行事に父が出ることは無い。父が自分自身の手で、私の保護者として署名したことは無い。顔を合わせるのは年に一度、正月の午前中だけ。父は毎日、深夜に帰って早朝に出て行く。姿も声もイメージにない、足音だけの父である。
それにも関わらず、母が父の名前を書き、決して自身の名前を書かないことに、自分は強い抵抗を覚えるのである。母のいう「そういうもの」が何か、漠然と解ってはいても、私はそのことに違和と齟齬を感じるのだ。
「そういうもの、って何」
私は椀と箸を置いて母を見据えた。味噌汁は半分以上残っていた。
「こういうものには、男親の名前を使うものなの」母は自分の眼を見据えながら、それでもいつもと同じ答えを淡々とした。自分はそれに「あれが、親」と、変わらぬ返事をする。「そんなこと言われても」母が答える。相変わらずのやり取りだった。「自分の名前、使えば良いのに」自分はそれでも食い下がった。母は顔をしかめた。
それに見かねたのか、単に機嫌を損ねていたのか。居間から、祖母が出てきてこう言った。
「女は男をたてるんよ」
たった一言だった。ただそれだけを淡々と言ったのだった。そうして、流し台に立って洗い物をし始めた。皿も椀も、祖母のものではなかった。水と食器同士のぶつかる音が自分の頭に強く響いた。そこにはそれ以上の意味も無かった。背を丸めた祖母はただ忙しそうに食器を洗っていた。祖母の一言は自分にだけ向けられたものではなく、母にも――実の娘にも向けた言葉のような気がしてならなかった。その言い方にはある種の慣れが潜んでいた。私は夫をたててきた、だからあなたも夫をたてなさい、と、祖母は実の娘に向けて四十年以上諭し続けているのだった。それが世の慣わし――「そういうもの」なのだと。父がどのような生活をしているか、祖母が知らないはずは無かった。父が、母にどれだけ負担を強いているのかも知っている。知ったうえで、娘に向かってあの一言を言い聞かせる。自分が「そういうもの」に反撥して、父の名前を使う母を問い質していることも知らず、そのことに口を出すなと、そう言わんばかりに。男は黙って女にたてられていろ、それが理と孫に示さんばかりに。
母は黙々と書き進めていた。特別な表情をしているわけもなく、いつもと同じ、ただ普通の母だった。
洗われている食器の主は、台所から出た廊下の先、広い和室の窓際で寝転がって天井を眺めているはずだった。祖父はそうして一日をラジオと共に何もせず過ごしているのだ。時々は食器を片付けることもあったが、しかしこの炎天下であろうと庭の草むしりをするのは祖母ただひとりだけだった。洗濯物を畳ませれば、必ず畳み方を間違えていた。食事をつくる祖父の姿など、想像もつかなかった。
椀を取って味噌汁を啜ろうとした。出来ない。毎日この味噌汁をつくっているのは祖母なのだ。そうでないとすれば母なのだ。自分はそのことに気が付いてしまった。もう二度と飲むまい、と椀を食卓に静かに置いた。廊下の先からラジオの声がかすかに聞こえた。食器のせわしなく打ち付けられる音を聞いた。母はただ当たり前に、静かにボールペンで物書きをしていた。当たり前の光景だった。
私はそこで、精神の危機に瀕したのである。「そういうもの」「女は男をたてる」の言葉が、私を徹底して侮辱しているように感じた。にもかかわらず、自分のには怒るだけの理由が無かった。自分にはただひたすら無関係な事柄なのだと突き放されたのだった。あまりに不条理だった。奥歯を噛みしめた。代々引き継がれていく「そういうもの」を受け入れた祖母と母が、自分には情けなかった。胸の奥が、ぎゅるり、と捩れる気がして、食べたものを全て吐き出したい衝動に駆られた。しばらく目を閉じた。けれどもその嫌悪は自分のなかで収まることはなかった。明示された「そういうもの」に私は我慢ならなかった。目を開けると視界が潤んでいた。立ち上がった。祖母の背中を思い切り睨みつけた。涙が流れた。
祖母は何も気づかず背を向けて忙しそうにしていた。母は私の尋常ではない様子を茫然と見上げ、手を止めていた。倒れ込んでしまいたかった。何に対して涙を流しているのか、それさえわからなかった。思い切り泣き喚きたい心地だった。しかし、自分は泣いてはいけなかった。ふらりと静かに台所から廊下に出た。ラジオの声が一段と近くなった。ようやくの思いで階段を上がって暗い自分の部屋にたどり着くと、その戸を閉めることも出来ないまま、熱気と嫌な臭いの充満したベッドに突っ伏した。そして枕に顔を沈めて泣いた。泣く理由がわからないまま、枕に向かって激しく嗚咽した。その嗚咽は枕とベッドで吸収されて、歪なまでに静かなものだった。激しく声をあげて泣きたかったが、それはこの自分に対する冒涜であるように思えた。思えるだけでその理由もわからなかった。孤独と虚無とが重く重くのしかかった。わかりあえないことが怖かったのだった。
数分ほど泣き続け、しゃくりあげた。そうして私は酷く冷静な怒りのようなものに憑りつかれたような気分になった。機械めいた動作で起き上がり、ベッドの横の勉強机の引き出しを開けて、鋏を取り出すと逆手に握りしめた。
母が心配そうに自室の入り口に立っていた。どうしたの、と本当に心配している口調だった。しかし、何事に対し激しく泣いているのかわかっていない様子なのだった。私はただ、大丈夫、とだけ答えた。顔中が涙で湿って冷たかったが、もう泣いてはいなかった。
階段の下には祖父がいた。やはり何もわかっていないまま心配だけしている様子だった。何があったんなぁ、と問いかけるその声には取ってつけたようにしか聞こえない威圧しか含まれていなかった。何も言わず真っ直ぐに階段を下りた。私が悪いこと言ったなら謝るから、と縋るような母の声が追いかけてきた。悪いのは母ではなかった。
台所には祖母はいなかった。祖母は日除けのついた緑の帽子を被って、この暑い中、居間の窓から見える庭の掃除をしているところだった。自分は居間の奥にある押入れを開け、祖母の枕を取り出した。ラベンダーがいくつもあしらわれた上品な柄をしていて、中は綿などではなくじゃらじゃらとした柔らかなビーズでも詰まっているような枕だった。自分が物ごころついた時には既に祖母が使っていた枕だった。自分はそれを無造作に、床に向けて放り落とした。
枕そのものには何ら憎さを感じなかった。自分には、これから傷つけられ捨てられてしまうであろう枕の運命だけが哀しかった。その枕のためにもう一度、泣いてしまいたかった。
母は、祖父の後ろから私の行動を見つめていた。母にはこれから自分のすることが何か、察しがついているように思えた。祖父は怪訝な表情のまま、何しようとしとんでぇ、と脅すように言っていた。しかしそこに覇気はなく、動転し慌てていることを必死で隠そうとしているようにしか聞こえなかった。
自分は枕の前に両膝をついた。右手に持った鋏を握りしめて、それを思い切り枕に向けて振り下ろした。ざく、とも、ばふ、とも聞こえた。枕の表面の右上がへこんで少しだけ毛羽立った。祖父か母が止めに入ってこないか心配したが、その気配はしなかった。自分はもう一度鋏を振り上げ、振り下ろした。同じような音がして、同じように毛羽立っただけだった。もう一度、もう一度と鋏を枕に突き立てた。無表情になっていくのが自分でわかった。繰り返し枕に傷をつけていくにつれて、私の心は穏やかになっていった。穏やかにはなったが、へこんで毛羽立つだけでは物足りなかった。ふと台所には料理用で大振りの、先の尖った黒い鋏があることを思い出した。流し台の上にその鋏はつるされていた。ため息をついて右手に持った鋏を床に置き、祖父を押しのけるようにして台所に入った。その黒い鋏の横には、柑橘類の分厚い皮を剥くための橙の鋏もあったから、それも取った。自分は再度、枕の前に膝をつき、黒の鋏を振り下ろした。今度は、ざくり、と心地のいい手ごたえがあった。枕の表面の布を突き破り、その中身に刺さったのだった。布の繊維と鋏とが絡んで、引き抜くには少し手間がかかった。中からは黒い、朝顔の種のようなものがいくつか溢れ出した。
何度も何度も振り下ろしては突き刺した。そのたびに枕は裂け、中身を溢れさせた。突き刺すだけでなく、枕の中で鋏を広げ、えぐるようにしてその傷を大きくさせた。そうして枕が、黒い種に塗れた襤褸切れになったとき、自分はその動きを止めた。顔をあげると祖父も母もいなくなっていた。息があがり、右腕が怠かった。右の手のひらには鋏で擦り切れた傷が数本、ついていた。
それ以来、一年半の間、自分は祖母と口をきくことは無かった。祖母がつくった食事に手をつけることもなかった。その理由をはっきりとした言葉にすることが出来るようになってようやく、私はそれを祖母に話した。祖母は、その日のことを覚えていなかった。
決別の朝 四葉美亜 @miah_blacklily
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