四葉美亜

 自宅のキッチンで、真っ白な錠剤一粒に、ピンクの錠剤二粒と向き合う。これだけあれば、私をぶっ殺すには充分すぎるはず。

 随分と遠回りしたものだ。左腕につけられた無数の傷と傷跡。こんなことしなくたって良かった。

 傷つくのはほんの一瞬、ほんのちょっとしたことが原因。けれど傷跡はしつこく残り続ける。

 傷跡は私に押し付けられたみっともない烙印。わかっているからやめられない。鋭い冷たさは心地よかった。それがどうしても忘れられなくて、私は私を後戻りできないくらいに傷つけたくて、薄く剃刀を走らせる。その割に、五年前につけられた最初の傷以上の傷を引けないでいる。

 白く盛り上がった傷跡をなぞる。

 なぞる度に思い出す。

 アヤは今どうしているんだろう。もし生きていたとしても、私より悲惨な腕になっているとは思うけれど。


 放課後、中学校の四階、音楽室の裏手から出た先。開放廊下をまがった先の突きあたり。表の廊下とは逆にこちら側の廊下を通るひとは少ない。放課後は特にそうだった。運動場からも校門からも見えなくて、部活の時間になるといつも、アヤと音楽室から椅子を持ち出して適当にフルートを吹いては、駄弁っていたのだった。

 あの暑い日の話題は、確かアマゾンにいる少し太ったドジョウみたいな魚についてだった。

 私はいつものようにフルートと譜面台を持ってそこに行った。アヤが吹くフルートのしっかりした音と、メトロノームの刻む無機質な音とが聴こえていた。

 アヤは私を見るなり吹いていた高いラの音を、ひゅいっ、と高く切り上げるようにしてやめて、その場で軽く飛び跳ねながら満面の笑みを浮かべた。

「ねえ、カンディルって知ってる?」

 言いながら、アヤはそばに置いてあった鞄から一枚のプリントを差し出した。

 そんな笑顔を知るひとは、きっと私だけだ。

 アヤは椅子にフルートを置いて、私もそこにフルートを並べた。プリントに写っていた魚こそが、そのカンディルだった。第一印象は、ただの細長い魚。そのあたりの濁った川で泳いでいそうなくらい、地味な魚だった。

「これ。人を食べるんだって。それも内側から……」

 その一言で、私はドジョウに食らいつく。

「内側?」

「うん。身体の中に入り込んで、食い荒らしてくって」

 どこかのホームページを印刷したらしく、彼女は嬉々としてそれを見せつけてくるのだった。

「あれかあ、あの映画でも見たんだけど。口の中からピラニアがどっさり出てくるってシーン。あんな感じなのかな」

 その映画は私たちのお気に入りのひとつ。凶暴化したピラニアが湖に放たれて、大勢がズタズタに食われていくパニック映画。

「これいっぱいの水槽のなかに人いれてみたいよね」

「誰を入れる……?」

「うーん……ミチとか? 元気よく暴れてくれそうじゃない?」 アヤが挙げた名前は、同級生で快活な優等生の名前だった。私たちとも仲が良かった。

「あの子、良い悲鳴あげそう。耳にキンキン響く声でさ」

「毎日うるさいもんねぇ」

「そうそう……」

 そうして私たちは次々に同級生や後輩や先生を捕まえて、水槽に入れてカンディルに食わせていった。

 小太りのあの子は美味しいんじゃない? 贅肉ばかりだとすぐには死なないと思うけど。でも内臓から先に食べられるのなら関係無いかも。それなら……合唱コンクールの伴奏の役を私たちから奪おうとしたあの子。やっぱりさ、嫌いなひとほど殺したいじゃん。でもそれってアヤだけでしょ? 私は別にあの子なんてさ。――え、言ったじゃん、私なんかに負けるわけないって馬鹿にされたって話。ああ、あったねぇ、結局私たちが勝ったけどさ。当たり前じゃん、あんなのなんか。

 吹奏の部長。いつも良い子ぶってるけれど、死ぬときはどうなんだろうか。それ以上に、私たちに殺されるその表情ってどうなんだろう。騒がしくて乱暴で図体ばかりの男子は、より荒れ狂って死にそうだ。空手をやってるらしい不良に、私たちフルートパートの後輩。

 ――そしてその二人だけの議論は、幼稚園から一緒で誰とも口を利かないままじいっとしているだけの子を食べさせることで決着した。ミステリアスだからこそ、餌に適任――悲鳴をあげるところがまるで想像できないというのが決め手になった。

 メトロノームがテンポを刻むのをやめても、私たちの秘密の話は続いた。

「でもさ。やっぱり、自分の手で殺したいって思う……」

カンディルの話が終わると、私はそう言った。カンディルに食べさせるだけではどんな悲鳴も物足りない。カンディルはあくまで、私たちの日常会話に加えられたアクセントに過ぎなかったのだった。

「爪剥いで、一寸刻みにして、目をくりぬいて」

 ただ、殺したい。自分の手で、それも相手を出来る限り苦しませて。

 たったそれだけの欲望は、けれど満たしてあげられない。

「目は後よ、もっと。見せつけてあげなきゃ。どれほど破壊されてるか。食べさせるのなら片目は残したいし。記念に残そうか」

そう云って遮るアヤは、眼球を弄る話が好きだった。ただ痛めつけるだけではなく、一度傷つけたらもう取り返しがつかない程に絶望させてやりたかったのだろう。

 そういう意味では眼球をこねくり回すことが一番、魅力的に思えた。失明させてしまえば、そこからの人生ずっと暗闇だ。将来に抱いているだろう希望を粉々に打ち砕ける。しかも、くりぬかれる直前まで、その様をまさに眼前で見せつけてやれるのだ。

 どれくらいけたたましい絶叫が聴けるのか、私たちはよく空想をめぐらせた。自然、拷問の相手は同い年あたりになる。奪える未来が大きいことも、私たちにとって大切なことだった。

「……バラバラにしたい。誰が誰なのか判らないくらいに」

 飽きもせずに私たちは、いつもその手のことを口にする。

 その日のアヤは、私のその科白に僅かな緊張を見せた。

「だったら切ればいいのに、ほら」

 そうしてアヤは左袖をまくった。

色白の左腕には、幾筋もの傷と傷跡とがびっしりと並んでいた。リストカット、正確にはアームカットと呼ばれる傷。赤と紫と茶と白の線たち。

「傷がくぱあって開いて、血がどばどば出て……楽しそうでしょ?」

 血を見るため、生身を切るため、そのためだけに彼女は自分を切り裂く。バレないのなら人を切りたい、これも私たちの口癖のひとつだった。アヤの身体はアヤのものだ。傷つけても罪にはならない。

「本当、思い知らせてやりたいのに。良いなぁ、誰にも止められないって」

 ――中学生まで、私は純粋なまでの優等生を演じていたのだった。品行方正で常にテストでは一位。校則に反することもなければ学校の外で問題を起こすこともない。将来は教師になりたいと語り、そのための努力は欠かさない。

 アームカットは、優等生がすることでは決してありえない。こうやって話している内容を知られることすら、私にとって禁忌に違いなかった。

 私の身体は、私のものでは無かった。

 だから私は、切りたくても切れなかったのだ。

「アムカ、したい?」

「うん」

 アヤの問いかけに私は即答した。躊躇いは無かった。彼女はしばらく横髪の一房を指にくるくると巻き付けたあと、そこから手を離して言った。

「なら、私がその腕、切ろっか」

 その科白を聞いて、私は少しの間何も考えられなかったと思う。アヤが、じいっと私のを見据えていた。口元には薄い笑みが浮かんでいるようだった。けれど、これまでの楽しげな表情とは、決して同じではなかった。そんな表情を見たのは、それが初めてだった。さっきまで汗ばむくらいに暑かった空気が、急に凍てついていくような感じがした。

 取り返しのつかない時間が来たことを感じたのだ、きっと。

 私は何も言わないまま袖をまくって、アヤのほうへと左腕を差し出した。アヤは鞄から小さな剃刀を取り出した。私の手首をつかんで引っ張る彼女の力は、思いのほか強かった。不意に、その刃が夕陽で鮮やかに映えた。

 その時、アヤは何かを言いかけた――そんな気がしている。急に緊張してしまった私が錯覚してしまって、そう見えただけかもしれないし、記憶の中で脚色を加えてしまっただけなのかもしれない。

 或いは、私がアヤに何かを言いたかったのかもしれない。

 私の左腕の手首と肘の真ん中あたりに、アヤの剃刀は押し当てられた。冷たくて、ちりちりとした痛みを少しだけ感じた。その金属的な感触が、私の皮膚を一気に引き裂いた。

 その瞬間、私の身体は私のものになった。


 もちろん私の左腕についた派手な傷は見つかってしまった。見つかったうえで、私は何も答えなかった。予想に反して、追及は少なかった。

 私は私を傷つけたい。バラバラにしてゴミ袋のなかにつめて、生ゴミと一緒に回収されて埋め立てられてしまいたい。髪も染めたいしピアスも開けたいし、タトゥーだらけになって見せつけてやりたい。血を見たい。真っ赤な傷を見たい。悲鳴を聞きたい。

 鋭い冷たさは心地よかった。その日から私は、自分の腕を切ることを覚えた。

 アヤと私は、別々の高校に進学した。有名な進学校を選ばされた私は当然のように腕の傷を増やし続けて、気が付くと退学していた。後になって、アヤも同じように退学したことを知った。

 薄く切っただけの傷でも、繰り返せばうっすらと腕に痕が残り続ける。まっさらだった私の左腕はアヤと同じような線が縦横に描かれた。たった一瞬、刃を押し当てただけでもその傷はしつこく残り続けた。

 それでも、私はあの時以上の傷を知らない。

 だから、今度は内から私は私を傷つける。もっと確実で、簡単で、そして私なりの傷つき方として。

 私をぶっ殺してしまうには充分な量の毒が私の目の前にはある。真っ白な錠剤一粒に、ピンクの錠剤二粒。切り続ける必要はなかった。左手にのった、たったそれだけで私には充分すぎるのだった。


 私の意識を、誰か傷つけて。

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四葉美亜 @miah_blacklily

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