蒼い鱗の彼の名は

螺子巻ぐるり

蒼い鱗の彼の名は



 罅割れた、蒼い鱗を頬に浮かべて。


 ぼくの事、覚えてる? と彼は問うた。


 口元の笑みは気を抜けば見失ってしまいそうなほど薄く。

 目を離せば、消えてしまうんじゃないかと思うほど、彼の纏う気配は空虚だった。


「知らない」


 やっとのことで口を開いたのは、数秒後。

 悪いけど。後から付け足した。

 貴方のことなんて知らないし、人違いじゃないの、と。

 だって本当に、覚えがなかった。

 頬に浮かんだ鱗にも。浅黒いその肌にも。赤く塗られた爪先にも。中性的な、整ったその顔にも。何一つ。


「そう」


 彼は残念そうに呟いて。

 良かった、納得してくれた。安堵する私の予想を裏切って、なおもそこに、立ち続けた。

 そこ、とは玄関先の事だ。

 彼は、何気なく私のアパートの前に立って、小さくドアをノックして。

 チェーンを掛けながら戸を開き、応答した私に問うたのだ。

 本来なら、人違いなら、踵を返して立ち去るのが普通の事だと思う。

 でも彼は、そうしなかった。

「あの」

 私は迷いながら、言葉を続ける。

「まだ、何か」

 ドアを閉めても、彼は帰らない気がして。

「……」

 彼は、迷ったように目を泳がせる。

 そこに強い感情は見えない。何処までも薄く、儚く、彼は小首を傾げながら、言葉を探す。

「……あの」

 そして、小さく。

 遠慮気味に。私よりほんの少し高い目線から、それでも下から見上げるような顔をして、恐る恐る、尋ねる。


「よかったら、家に、入れてください」


 *


 疲れていたんだろう、と思う。

 底の黒くなった薬缶を火にかけながら、私は考える。


 私が一人暮らしを始めてから、一年近くが経った春先だった。

 暖かいと思えばすぐ寒くなる季節の変わり目に、実家の父が倒れたと報せを受けた。

 一度帰郷してみれば、父の容体は思いの外軽く、久々に家族と夕食を共にした私は、けれど後ろ髪を引かれることも無く、あっさりとアパートへ帰った。

 電車に揺られる時間は存外長く、やはりケチらず新幹線を使うべきだ、などと思いながら夜遅くに部屋へ着き。

 就寝して、寝過ごして。

 今日はバイトが無くて良かった、などと思いながら、洗濯物を干していた……そんな時に、彼は、来た。


「ほうじ茶しかないけど、いいよね」


 居間に腰を下ろす彼に声を掛けると、彼は顔を半分くらいこちらに向けて、ゆっくりと小さく、頷く。


 ……そう、疲れていたんだろう。

 疲れていたから、私は判断を鈍らせて、こんな見知らぬ、奇妙な格好をした男を、部屋に引き入れてしまったのだ。

 はぁ、と彼に聞こえぬよう、溜め息を吐いた。

「……貴方、どうしてそんな格好してるんですか」

「……そんな、格好……?」

 急須に茶葉を入れながら、振り向かずに尋ねる。

 彼の返事は、何を聞かれているか分からないと言った雰囲気で、わたしは一呼吸おいてから、更に質問を増やす。

「顔に鱗付けたり、爪先塗ったり」

 それ以外はまぁ、普通の格好だけど。

 シンプルなセーターに、使い込まれたズボン。

 いっそ特徴を感じないくらい、平凡で。

 だからこそ逆に、鱗と爪に目がいった。

「生まれつき」

 答えを言われて、それが答えだと認識するのに、時間がかかった。

 彼の喋り方は唐突だった。会話じゃなくて、ただ文章を投げ付けられているような感覚。言葉の上で意味は分かっても、それが会話に繋がらない。

 ただ、だからこそ、嘘を言っているようには聞こえなかった。

「鱗も、爪も?」

「鱗も、爪も」

 彼は肯定する。

 珍しい人もいるんだな、と私は思いながら、悲鳴を上げる薬缶を火から引き離す。

 急須に湯を注いで、しばらく待って。

 その間に、彼の姿を、もう一度盗み見る。

 頬の鱗も、赤い爪も、玄関先で見た時と、何一つ変わりはない。

 自然にそこに存在して、だからこそ、彼自身が不自然に見えた。

 まるで部屋の一角が、別の国になってしまったような感覚がした。

 それも全て気のせいで、私が疲れているからだろうか。

 本当に? 疑問を抱きながらお茶を注いで、私は居間へ向かう。


「……それで。貴方は結局、誰なんですか?」


 お茶を卓に置きながら、今更過ぎる質問を投げかける。

 部屋を訪ねてきたのなら、前の住人の知り合いだろうか。

 それとも忘れているだけで、本当に私の関係者なんだろうか。

 ……生まれつき、こんな姿をしているというのなら……なおさら、忘れそうにはないのだけれど。

「ともだちです。昔の」

「……覚えがないですよ、だから」

 それに。

 昔の友達だというなら、なんで今会いに来たのだろう。

 昔の人間関係は、昔のもので。

 もう私は、昔の私ではないのだから。

 変わってしまった、というようなものじゃなくて、新陳代謝するように、少しずつ、浅い関係から、薄れていく。

 だがそれも、彼にとっては違うのかもしれない。

 友達が、作りやすい方には見えないから。

「それでも、昔のともだちです。よく一緒に、冒険しました」

「どこに?」

「山や、川に。いろんな生き物がいるところに」

「……じゃあやっぱり、人違いですよ」

 昔の私は、山にも川にも馴染みのない子どもだった。

 体が弱かったのだ。

 長く外で遊べば決まって体調を崩したし、だから遠くへ遊びに行ったような記憶はほとんどない。

 代わりに、両親は色んな本を買い与えてくれたけど。

(……どこにやったんだっけな)

 ふっと、考え込む。

 一人暮らしする時に、荷物をまとめて。

 空いた部屋は物置にでもしてくれと言って、要らないモノを片付けて。

 その時、それらの本は……どうしたんだっけ。

「思い出して、くれましたか」

「……すみませんけど、やっぱり分からないです」

 思考を中断して、答える。

 そして、お茶を飲んだら帰ってください、と私は言い切った。

 居座るようなら、人を呼ぼう。

 そもそも、入れるべきじゃなかったんだけど。

 考える私とは裏腹に、彼は落ち着いた所作でコップを手に取り、茶から昇る湯気を顔に浴びて……

 ……そのまま、卓に戻した。

 一口も、飲まない。

 飲んだら帰れ、と言ったからだろうか?

「……飲まなかったら居て良いってことじゃないですからね」

「はい。……でも、やっぱり分からないですか」

「分かりません。せめて名前を教えてください」

「名前……」

 その質問に、彼は初めて、困った顔をした。

 眉根を寄せて、小さく俯いて。

 いや、困っているというより、悩んでいる……のだろうか。

 まるで……

「分からないんですか?」

 自分の名前が。

 私の問いに、彼はこくりと頷く。

 これも、嘘ではないと分かる。

 何故だろう。見知らぬ他人だ。信用できる要素なんて一つとしてないのに。

 昔の知り合いだという言葉も、自分の名前が分からないというのも。

 私を騙そうとして言っている言葉でないと、伝わる。

 まるで……その事を、私が知っているかのように。

 彼はいつまでもお茶に手を付けない。

 わたしは自分の分のお茶を一口飲んで、どうするべきかを、考える。

 簡単な事だ。追い出すか、警察を呼べばいい。

 身元も分からない彼の事なんて、私が構う必要もない。

 ただ、時間はたっぷりあった。今日はバイトもないし、身体には疲れが残っていて、外に行く気にもなれないし。

 なにより、やっぱり。

 放っておけば消えてしまいそうな彼を、そのままにはしておけないと……思ってしまったから。


「何か、覚えていることはありますか?」


 私は、彼の記憶を探る事にした。


 *


 蒼い空が、彼の中で一番強い記憶らしかった。


「どこまでも広がっていて、時々、白い雲が浮かんでいて」


 群青の蒼は、何処までも高く。

 見つめすぎると、いつしか急に寂しくなると、彼は言う。

「まるで、取り残されたみたいで」

 蒼の世界から、たった一人、堕ちてきて。

 地面の重みに捕まって、動けなくなっているかのように思う、と。


「……それじゃ、全然分かんないよ」


 記憶というより、感傷だ。

 私は思いながらも、ふっと想う。

 最後に空を見上げたのは、いつだろう?

 毎日見上げてる。洗濯物を干す時に。家を出る時に。

 考えると同時に、違う、と感じる。

 それは空じゃない。天気を見てるだけだ。

 ただ、広がるだけの青い空を。ふわりと広がる白い雲を。

 見つめたのは、何時が最後だ?


 ……違う。そんな事は今、関係ない。


「もう少し他に、何かないの」

「うぅん、あとは……」


 野良猫。


 人相が悪くて、低い鳴き声の、年老いた猫。

 毛並みがくしゃくしゃで、面倒くさがりで。

 けれど毛を梳いてやると、一つだけ、昔話をしてくれる。


「……それは、本当の話?」

「ぼくは覚えてる」

 私の疑いに、彼は真っ直ぐな瞳で答えた。

 覚えている、か。それじゃ、本当のこととは限らないな。

 嘘を吐いてる雰囲気ではないけれど、それでも、勘違いということもある。

「そういえば、私の近所にもいたよ」

 老いた猫。毛並みはやっぱりくしゃくしゃで、だけれど目つきは悪くない。

 学校の帰りに、何度も見掛けて、撫でて、声を聞いて。

 ゴロゴロと喉を鳴らすその子が、私は大好きだったけれど。

「いつから、いなくなったんだろ……」

 猫はいなくなった。……私が探さなくなっただけ、かもしれない。

 どちらにしても、いつしか私の記憶から、老いた猫の姿は消えていて。

 ああ、でも、確かに私は……


「……私もその猫と話せたら良いなって、思ってた」


 そうすれば。

 その猫がこれまでに見たものを、たくさん聞けたろうと思ったから。

 その猫が感じていることを、たくさん知れたろうと思ったから。

「その猫の、名前は?」

 彼が尋ねる。私は首を振る。

 きっとどこかの飼い猫だった。

 だから名前は付けなかった。

 だから名前を知らなかった。

 ……だから、その名を呼んで探すことが、出来なかった。


 ……違う。そんな事は今、関係ない。


「知りたいのは、貴方の事です。私の事じゃない」

「それじゃあ、他には……」


 鬱蒼とした、森の中。


 じめじめと湿気に満ちたその中は、けれどほんのり涼しくて、他人の姿は見えないのに、あちこち気配で満ちていた。

 進む時には気を付けないといけなかった。

 いつ藪の向こうから、恐ろしい獣が出て来るか分からない。

 それでも後に退くなんて、考えることもしなかった。


「勇敢だったの?」

「多分、違う」

 彼は否定する。

 きっと、恐ろしいと思わなかっただけ。

 恐ろしい何かより、目の前の事に頭が一杯だっただけ。

「目の前の事って、何かな」

 気を抜けば、どんな目に遭うかも分からないのに。

 それを忘れるくらい大切なことが、あるんだろうか?

 少なくとも、今の私には、そんなものは一つもない。

 かつてはあったんだろうか? ……あったような気もするし、無かったような気もする。


「……私はきっと、その森を歩けないね」


 恐れるばかりで、きっと前には進めない。

 隠れている何かにばかり、想像を巡らせてしまうだろう。

「でも、それなら、酷い目には遭わないよ」

 彼は微笑んで答える。

 そうだね、と私も薄く笑みを浮かべて返す。

 大切なものが何もないなら、自分を護る以外、出来る事もないのだけど。


 ……違う。そんな事は今、関係ない。


「私の事は良いから、貴方の事を思い出して」

「……それじゃあ、最後は」


 大きな、翼。


 そのともだちには、翼が生えていた。

 翼は空と同じ蒼をしていて、風を掴んで、どこまでもどこまでも飛んでいくことが出来た。

 ともだちの背中に乗れば、自分も大空を舞うことが出来て。

 それが何より楽しい時間で、何より大切な時間で。

「ぼくは、それを取り戻すために」

 貴方と。

 冒険したのだと、彼は言う。


「……蒼い、翼?」


 口にする。すんなりと、言葉がこぼれる。

 まるで、何度もその言葉を喋ったみたいに。

 だけど私は、大空の景色なんて知らない。

 冒険なんて、知らない。

 小さな私は、何処にも行ったことが……


「……あった」


 思い出す。

 何処までも蒼い空を。

 人相の悪い猫の昔話を。

 鬱蒼とした恐ろしい森を。

 大きな翼を持った、ともだちの事を。


 ……そして。


「それじゃあ、貴方は……」

「……違うよ」


 頭に浮かんだ名前を口に出す前に、彼は首を振る。

「ぼくは、『彼』じゃない」

 大きな翼のともだちを追って、冒険に出た『彼』じゃない。

『彼』に、鱗は生えてない。

『彼』は、赤い爪を持ってない。

『彼』は……きっと今でも、大人じゃない。


「ぼくは、『彼ら』の想い出さ」


 そっと、彼は自分の胸に手を当てる。

「少しずつ、思い出してきた。そうだろう?」

「……うん。少しずつ、だけど」

 彼の言葉が、まるで自分の中にあるように感じたのは。

 きっと最初から、本当に、それは私の胸にあったからだ。

「だけど、どうして……」

「……会いたくなったから」

 質問する前に、答えを言われる。


 私は。会いたかったんだ。

 幼い頃に読んだ、その本と。


「今、何処にあるのかな?」

「無くなってはいないと思うよ」


 多分、だけど。彼は付け足す。

 貴方の知らないことは、知らないから。


「それじゃあ、ぼくは行くね」


 結局、お茶は一口も飲まないまま、彼は立ち上がる。

 待って、と引き留めようかと考えて、止める。

 だって彼は、いつでもあそこにいるんだから。


「近い内に、迎えに行くね」


 *


 埃をかぶった本の背を、私はそっと撫でる。


 表紙には、彼の名前が、しっかりと刻まれていた。

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